最新更新日:2024/04/01 | |
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洛陽メモリアル 洛陽高発足当時のクラブ
旧制京一工時代のクラブは、校友会のなかに位置付けられていましたが、新制の洛陽高になってからは生徒会に所属し文化部と体育部が設けられました。洛陽高時代のクラブの発祥については、さまざまな系譜がありました。
文芸部のように旧洛陽工高と旧洛南高とが合体して1つになったもの、社会科学研究会のように洛陽工高時代のクラブが発展的に拡大されたもの、バレーボール部や歌舞伎部のように旧洛南高のクラブが基礎となったものなどさまざまです。 洛陽高発足当時にどれほどのクラブがあったかは資料不足で判然としませんが、『洛陽新聞』によると、昭和26年(1951年)5月現在で文化部39、体育部18の合計57クラブがあったと記録されています。(洛陽工高百年史より引用) 洛陽メモリアル 校内放送「RBC」の番組
洛陽工高の校内放送「RBC」ですが、昭和27年(1952年)には施設の改善が進められ、第2スタジオが完成、アンプも60Wのものが設置されました。昭和34年(1959年)になると、第1スタジオを拡張、第2スタジオを併合した新スタジオを設けています。放送課員も訳20名となり活発な広報活動が展開されていました。
全関西放送劇コンクールでは、昭和30年に作品「嗚咽」、翌31年には作品「波紋」で連続入選しており、その他にもラジオ京都へ出演するなど校外活動も活発だったと記録されています。((洛陽工高百年史より引用)) 洛陽メモリアル 校内放送「RBC」の発足
昭和24年(1949年)の夏に洛陽工高の放送設備が総工費15万円で設置されました。ホームルーム教室、講堂、職員室など58個所にスピーカが取り付けられ、新学期の9月1日より放送を開始しました。当初は生徒の技術係員3名で運営、学校からの生徒・職員への連絡が中心でした。
昭和25年からは”RBC"というコールサインを使用、同時にプロデューサ制を採用し、本格的に校内放送の充実が図られプロデューサ6名、アナウンサー5名、技術係7名で構成され演出面、技術面ともにさまざまに研究が進んだと記録されています。(洛陽工高百年史より引用) |
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