京都市立学校・幼稚園
最新更新日:2024/04/01
本日:count up5
昨日:42
総数:430835
文字: 大きく | 小さく | 標準 配色: 通常 | 白地 | 黒地
ハートフルマーク
洛陽工業高等学校は、平成29年度末をもって閉校し、 創立132年の歴史と伝統を京都工学院高等学校へ引き継ぎます。

染織学校の行事 ウサギ狩り

 染織学校の校内行事にはウサギ狩りもあったようです。当時の記録(大正4年3月)では、「生徒たちの楽しみの行事の一つにウサギ狩りがあった。毎年1月に西賀茂や岩倉あたりの山で行われていたようである。山上に網を張りめぐらしておいて、勢子になった生徒たちがふもとから、声をかけながら追い込んでいく。ウサギは山上めざして駆けのぼり網にかかる。それを生け捕りにするのである。ウサギ狩りは生徒の心身鍛錬をかねた行事として、その後の京一工時代にも引き継がれた。」とあります。
 残念ながらウサギ狩りの写真は残されておりませんでしたが、下は当時の卒業生の写真です。
画像1
画像2

染織学校 授業風景

 当初、染織学校は入学志願者が少なかったと先日述べましたが、利点になっていたこともあります。記録によると、「ともかくも染織学校は入学志願者が少なく、校長自ら人力車に乗って生徒募集に戸別訪問したというが、そのことが逆に利点ともなっていた。生徒と教師が直に触れあう機会が多いほど、学校は豊かな人間教育の場として機能する。皮肉にも生徒数が定員に満たないことによって、当時の染織学校はいい意味で教師と生徒の関係、さらには上級生と下級生の関係がきわめて密接であった。予科1年の生徒も本科4年の生徒も、たがいに顔見知りでまるで兄弟のように親密であったという。」とあります。
 当時の卒業生の話として大正初年ごろの学園風景は、「(前略)4人くらいのクラスですと、先生と生徒が向かい合わせになって、冬ともなればストーブの周りに集まって講義を聴く。(中略)学校の先生と各学年が別れましても、生徒間のおつきあいといいますか、交際というものは非常に親密でありまして、学校内が融和されていたように思われます。」と記されており、授業含め学校全体がのどかな雰囲気だったようです。
(洛陽工高百年史より引用)

画像1

染織学校 学校行事と校友会

 染織学校の校内行事は、すべて校友会によって企画、運営されていました。記録によれば、「校友会には学芸部、体育部、会計部があり部長は教員、幹事、理事の各委員は生徒たちの互選で選出されていた。学芸部は、(中略)年1回以上の雑誌『錦友』の発行、染織競技会の開催、懸賞図案募集、懸賞作文募集、年2回の講談大会の開催を内容としていた。
 体育部は、『各自の健康を保全し且気力を養成する』のが目的で、野球部、庭球部、蹴球部のクラブ活動、秋季陸上運動会の開催、遠足、旅行などの運営にあたった。」と記載されています。下記は当時の野球部、庭球部の貴重な写真です。
(洛陽工高百年史より引用)

画像1
画像2

染織学校 初期の試練

 当時の記録によると初期の試練と題して「初期の染織学校の深刻な悩みは慢性的な入学志願者不足だった。」と記されています。
 その詳細は、「明治27年(1894年)度から明治44年(1911年)までの卒業、終了生数と、その中に占める市内の人数について、表より19年間の推移は、生徒数は学年60人の定員を大幅に割り込んでいるばかりか、市内の生徒は相変わらず少ない。(中略)とくに機織科の生徒は西陣からの入学者が少なく、京都の染織工業の発展をめざして染織工業は創設されたのだが、実際の当業者は工業教育に大きな期待を持ってはいなかったらしい。学校教育に対する無理解と職人気質ゆえの視野の狭さが、生徒不足の原因となっていた。」と記されています。
 さらに「生徒数の不足に加えて他府県の生徒が市内の生徒数を上回っていた」ことが問題視されていたのでした。
 この対応として「校長をはじめとする教職員と京都染物同業組合理事が生徒募集に奔走」、こうした努力の結果、明治39年(1906年)ごろから効果が現れてきたと記録されています。

(洛陽工高百年史より引用)

画像1

染織学校に皇太子殿下ご来校

 烏丸校舎に移転して2年後の大正2年(1913年)4月2日、二条離宮にご滞在中の皇太子殿下と淳宮さま、光宮さまが染織学校観覧のためご来校されました。9時15分ごろ馬の蹄の音がかすかに聞こえてきて、やがて護衛の警官を先頭にお車がゆっくりと校門にさしかかり、生徒たちが敬礼するなかを、皇太子殿下と宮さまがたは9時30分に校内にお入りになりました。
 校長の案内で2階の控室に入られ、実習工場から順次校内をご覧になり、機織実習工場では機織部の4年生が繻珍織機を運転するとともに、手織機によるリボンの製織をご覧にいれたそうです。また、色染実習工場では浸染実習、型染実習、引染実習を行い、色染の機械を運転してご覧にいれ、聯隊旗と国旗を染めてのちに校長を通じて献納したとあります。
 皇太子と宮さまがたは、それぞれを興味深くご観覧になったあと、再び控室に落ち着かれたのち、午前10時に学校を出発されました。染織学校としては光栄なことで関係者は大いに励みにしたと記録されています。
(洛陽工高百年史より引用)

画像1

染織学校 開校20周年の様子

 染織学校は大正3年(1914年)開校20周年を迎えました。その当時の様子が以下のように記されています。
「染織学校として開校20周年を迎えた京都市染織学校は、その年の10月27日、午前9時より記念式典を挙行した。校長の式辞に始まり、(中略)祝辞があった。当日の来賓は市会議員、学校評議員、商議員、市内の小、中学校長、報道関係者などを含めておよそ70名だった。校内では染物、織物工場の実習、別室では生徒の製作品を展示し、学校あげて染織学校の喧伝に努めた。
 その日の午後2時から翌日にかけては、校内は一般公開され、各工場の見学会、展示製品の即売が行われた。とくに28日は、記念陸上大運動会が開催されたので、校内は、記念の日にふさわしい賑わいぶりだった。」
 これを示す当時の写真は見当たりませんが、文面からかなり盛大なものだったことがうかがえます。
(洛陽工高百年史より引用)

画像1

染織学校当時の修学旅行

 明治後半から大正初期にかけて染織学校当時の修学旅行の様子を記録から紹介します。
「毎年、春季、秋季の2回行われ、生徒のすべてが参加する全校行事だった。行き先は関西近郊で姫路、和歌山、名古屋、伊勢、宇治石山方面で、一泊二日、あるいは二泊三日の日程であった。修学旅行は校外学習として重要な役割を果たすものと位置づけられたのは、やはり情報の少なかった当時ならではのことだったのだろう。各地の工場見学や博覧会などの見学に重点がおかれていた。」とあります。

 目的地に関しては、「明治42年(1909年)の姫路・大阪旅行では日本毛織会社のほか神戸税関、花筳試験場、造幣局。
 明治43年(1910年)の名古屋旅行では第一回製産品共進会。
 大正元年(1912年)の大阪・箕面旅行では、大阪職工学校、毛斯綸紡績会社。
 同2年(1913年)の和歌山旅行では和歌山第一綿ネル会社、和歌山紡績会社。
 同3年(1914年)の大阪・神戸旅行では第二回発明博覧会、大阪市立工業学校、貿易製産品共進会、大阪府立工業試験所などを見学している。
 修学旅行は娯楽の少ない当時とあって、生徒たちには何よりの楽しみだった。」と記されており、交通手段含め時代背景が異なる現在と違って、修学旅行が貴重な工場見学の場だったことが伺い知れます。
なお、写真は平安神宮での遠足の写真です。
(洛陽工高百年史より引用)

画像1

洛陽の歴史 当時の実習設備

 明治44年(1911年)烏丸校舎に移転した染織学校ですが、色染部、機織部とともに実習設備はこの時代に充実されました。最新式の設備が設置され、当時の卒業生は「実習室は鋸屋根になっていた。がっちりとしたおそらくは舶来らしい十馬力のモーターが据えてあり、端西製のルーチの両四丁の力織機が据えられ、上にはベルドールの紋織機があり、その回りには薄地絹を織る仏国製のジードリッヒの織機が据わっていた。(中略)私の生徒時代には、最も進歩した優れた機械で、ながめるだけでも何だか楽しかった。」と述べています。
 『ベルドール機はリヨン留学生が西陣に伝えた最新式の紋織機で、高速運転で初めてその真価を発揮する機械だったので、当時の西陣ではまだ時期尚早だった。このため一般的にはならなかったが、染織学校ではいち早くこの最新式の機械が導入された』と記録されています。
(洛陽工高百年史より引用)

画像1
画像2

本校の歴史 染織学校烏丸校舎の落成

 明治44年(1911年3月)に全面移転した先の烏丸校舎ですが、規模は敷地3,000坪(9,900平方メートル)、建坪929坪(3,066平方メートル)でした。事務室と普通教室の2棟の校舎は2階建て、実習工場は平屋建て、屋根はのこぎり型の12棟になっていたと記されています。
 教室は140坪(462平方メートル)で、1階に普通教室3、理科教室、同準備室、特別教室、2階は図画教室、普通教室4と記録されており、当時としては十分な規模だったようです。
 新築の披露をかねた落成式は卒業証書授与式とともに3月27日に行われ、多数の来賓が招待されて生徒や卒業生の製品が展示され即売会も催されたそうです。

画像1

本校の歴史 染織学校 烏丸相国寺畔への新築移転

 明治42年(1909年)3月、染織学校の相国寺畔への新築移転が京都市会で決定、同年11月には文部省の認可が下りて、烏丸上立売上る相国寺畔に新校舎の建築工事が始まりました。    
 新校舎の建設は、まず実習工場から開始、明治43年(1910年)9月に機織部の実習工場が完成、9月12日から新校舎で実習授業が始められるようになりました。また、色染部の実習工場も翌年3月に完成、順次設備を移転して新しい校舎で実習が始まりました。
 新校舎のすべての工事は明治44年(1911年)3月に完成、烏丸上立売上る相国寺畔の新校舎へ全面移転、京都市染織学校は新たな時代へと踏み出しました。

画像1
画像2
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    

保健関係

緊急時の対応

教育課程表

京都新聞記事

学校評価

その他

京都市立洛陽工業高等学校
〒612-0884
京都市伏見区深草西出山町23
TEL:075-646-1515
FAX:075-646-1516
E-mail: rakuyo@edu.city.kyoto.jp