京都市立学校・幼稚園
最新更新日:2024/04/01
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洛陽工業高等学校は、平成29年度末をもって閉校し、 創立132年の歴史と伝統を京都工学院高等学校へ引き継ぎます。

京都市立第一工業学校 創立50周年記念工展

 創立50周年の記念式典に併せて開催された工展は、非常に大規模なもので2日間の開催期間中に約3万人の観客が訪れました。昭和10年11月4日〜5日にかけて開催されこの年の展示・実習内容は以下のものがありました。

・色染科:最新染色機械の展示と実習、染色展
・機織科:織機による実習、紫外線による繊維の識別
・工業化学科:「日常化学展」をテーマに市販の日用品・食料品の化学分析
・機械科:エアーハンマーの実習、アセチレンガスによる鉄の溶接、グライダー、自動車の分解
・電気科:舞台照明の実演、配光の実験
・建築科:現代住宅模型、原始住居展、時代別瓦の陳列
 併せて毎年好評の特別展として、「図案展」、「統計展」、「染織展」、「名家筆跡展」などが開催されました。(洛陽工高百年史より引用)

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京都市立第一工業学校 第二本科設立

 市立第一工業学校では、昭和12年(1937年)3月に第二本科が設立されました。これは甲種の夜間工業学校で修業期間は4年、電気科1科で出発、昭和16年(1941年)4月には機械科も設置されています。初年度の入学志願者数は52名を超え、32名が入学を許可されました。
 試験科目は算術、国語、国史の筆記と口頭試問、身体検査でした。卒業生は電気事業法に基づく第三種主任技術者の資格が逓信省から与えられました。修業期間5年の全日制工業学校でもこの資格を与えられる学校は少なく、京都で初めての甲種夜間工業学校として注目を集めました。(洛陽工高百年史より引用)

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京都市立第一工業学校 創立50周年記念行事

 昭和10年11月2日、創立50周年記念式典が唐橋新校舎の竣工記念式と併せて行われ、盛大な祝典が催されました。当日は好天に恵まれ、校庭の東端にテント席を設け紅白の大天幕が張りめぐらされて、250坪の式場に礼服姿の来賓が入場、参列者は1800人に上ったと記録されています。
 式典は11月2日に「竣工ならびに50周年記念式」に始まり、京都市、学校、記念事業協賛会を中心に企画された祝賀宴会、校内施設参観、京工会総会、工業展覧会、記念柔道大会、記念剣道大会、記念講演会、記念運動会などが組まれ6日間に亘り、11月8日まで執り行われました。
(洛陽工高百年史より引用)
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工展の歴史

 11月7日(土)、今年も工展が開催されます。第一回目の工展は京都市立工業学校時代の大正10年(1921年)に開催され、その後学校の重要な広報活動の1つとなったと記録されています。展示会に出品した作品は、低価格で市民に販売したので回を重ねるにつれて人気を呼び、やがて京都の名物行事の一つにもなったそうです。
 大正13年の展示即売の記録では、以下のような製品が出展され、朝早くから列ができ開門と同時に、多くの人が目的の実習室に駆け込み製品を買っていったそうです。
・色染科:カーテン、テーブルクロス、浴衣、友禅染、ネクタイ
・機織科:タオル、ストッキング、帯、足袋、
・工業化学科:石鹸、香水
・機械科:アイロン、金槌
・電気科:スイッチ
・金工科:灰皿、カフスボタン、指輪、文鎮
・木工科:椅子、机、本箱
・玩具科:各種玩具類
(洛陽工高百年史より引用)

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京都市立工業学校 創立30周年当時の生徒数

 大正13年(1924年)に染織学校創立のときから30周年を迎えるころ、急激に学校の規模も大きくなり、開校当時は百十数名にすぎなかった在校生徒数は新設の7科を加えて9科合計で796名になっていました。
 当時の定員は本校の甲種6科(色染、機織、工業化学、電気、機械、建築)は750名、分教場の乙種3科(木工、金工、玩具)は108名、合計858名で定員に対してはまだ不足していましたが年を追って増加の兆しが見られました。
(洛陽工高百年史より引用)

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京都市立工業学校 企業求人が急増

 染織学校の生徒はほとんどが西陣をはじめとして全国各地の染織業者の子弟だったため、卒業後は家業につくものが比較的多かったようです。工業学校時代になると工業の急速な発展という社会情勢もあって、新興の企業からの求人がにわかに増え始めました。色染科や機織科の卒業生は従来通り家業を継ぐものが多かったものの、新設科の卒業生は就職する者が次第に増えていきました。
 第一回の求人状況は、工業化学科は卒業生8名に対して求人は10名、電気科は12名に対して20名、機械科は7名に対して13名といずれも求人数が上回っており、求人企業も当時の一流企業だったと記されています。
(洛陽工高百年史より引用)

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京都市立工業学校 校章のデザイン

 染織学校から工業学校に呼称変更された大正8年(1919年) 5月には、校章も新しいデザインのものに改められ、「京一工」時代にも引き継がれました。
 新しい校章は古代エジプトで崇拝されていたスカラブカブトムシを、当時の図案・美工史の担当教員がデザインしたもので、生徒や卒業生たちをスカラブになぞらえて創意工夫に富んだ人間として、社会に飛び立ってほしいという願いが込められていました。
(洛陽工高100年史より引用)

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京都市立工業学校 クラス編成と授業

 大正13年(1924年)、工業学校として3年目を迎えたころの全校生徒数は約60人、教員は20人にすぎず、きわめて家庭的な雰囲気の中で授業が行われたようです。クラス編成は1組が色染・機織、2組が機械・電気・工業化学で卒業までその編成は変わりませんでした。授業は午前中が学科の講義、午後は実習に充てられました。午前4時間、午後3時間、土曜も7時間授業で生徒の疲労も激しく、ほどなく土曜日のみ午前中の授業だけとなったと記されています。
(洛陽工高百年史より引用)

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京都市立工業学校 校舎の増設と池の消失

 京都市立工業学校に大正13年(1924年)、建築科が新設されこれまでの染織学校から名実ともに「工業学校」の実体を持つようになりました。新設学科が設けられたことにより、烏丸の本校は校舎と実習室の増築が急がれましたが、さしあたっては運動場を取りつぶして進められました。このときの工事で教職員や生徒に親しまれてきた「先心池」は埋められてしまいました。洗心池は、「色染科分析室の東と体操場との間が清潔に欠くことから検討の結果、池を掘って浮島を作り、橋をかけ木を植えて庭園とし、池には金魚や鯉を放ち、開園時には職員全員が集まって茶話会を開き投票を行い、池の名称を洗心池とした」とあり憩いの場だった様子が記録されています。
(洛陽工高百年史より引用)
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京都市立工業学校 志望者数が増加

 大正10年(1921年)工業教育に対する意識の高まりにより京都市立工業学校が設立され、総合的な工業学校として再編成されてからは、志望者もにわかに増加の兆しが見え始めました。こうした中、各科とも入学試験が行われるようになり、国語、数学、英語のほか面接が試験科目として課せられました。とくに工業化学、電気、機械の新設各科は年とともに志望者が増え、競争率も高かったようです。この頃の工業化学科の卒業生の回顧録では「志望者数が100名を少し上回ったと思うがこのうちから約50名が入学を許可された」と記されています。
(洛陽工高百年史より引用)

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