京都市立学校・幼稚園
最新更新日:2024/04/01
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洛陽工業高等学校は、平成29年度末をもって閉校し、 創立132年の歴史と伝統を京都工学院高等学校へ引き継ぎます。

京都市立工業学校 工業学校時代の課程

 染織学校から再編成された京都市立工業学校は、工業学校規定によって設立された甲種工業学校であると同時に、徒弟学校規定による乙種学科も併せ持つ工業技術者の養成機関として誕生しました。
 本校の色染、機織、機械、電気、工業化学の5学科は甲種の課程で当初の修業年限は3年と定められ、分教場の木工、金工、玩具の3学科は乙種の課程で同じく3年でした。このうち甲種の課程は2年間の予科が設けられ、また必要に応じて別科、速成科を設けることができるようになりました。尋常小学校の卒業生は予科から、高等小学校卒業生は本科に入学していたようですが、大正10年(1921年)4月からは、本科、予科の呼称が廃止され5年制の工業学校になりました。

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染織学校 京都市立工業学校へと再編成

 京都市の工業教育の再編成の動きは、大正6年(1917年)、まさに市の工業発展の機運を背景に始まりました。その年の10月、府知事が府立工業学校の設立を明らかにしました。
これに対して市側は、市長はじめ市立の染織学校拡大を主張、紆余曲折を経て京都市立染織学校は、大正8年(1919年)4月に「京都市立工業学校」として再編成され翌年にかけて新設学科の設置が進められました。
 工業学校として再編成にあたっては、本校と分教場に分けられ烏丸校地は本校として色染、機織、工業化学、電気、機械の甲種5科に、木工、玩具、金工の乙種3科は市立第二商業学校跡(上京区五辻通り浄福寺西入る)の校地・校舎を利用、実習室を増設、諸設備を整えて分教場としました。 
 こうして京都の産業発展の将来的見地からすぐれた技術者および職工の育成により、工業の振興を図るという目標の第一歩が始まったのです。
(洛陽工高百年史より引用)

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染織学校 時代のうねり

 大正4年(1915年)から大正9年(1920年)まで第一次世界大戦による特需が産業界を刺激、京都の産業界もこれまでに類を見ない好景気が続きました。明治末から不況に陥っていた西陣や丹後地方の織物業界も好況に転じ、工場数、職工数も急増、地場産業は息を吹き返しました。
 このような環境のもと大正年間の実業教育は、明治期の模索状態から一歩進んで制度、内容とも秩序正しくなっていき、積極的に教育制度の規模、内容の再検討が始まりました。第一次大戦後、欧米諸国を追うようにわが国も実業教育を教育の中心課題にしようという兆しが現れました。
 京都市の工業教育の再編成の動きは大正6年(1917年)、まさに市の工業発展の機運を背景に始まり、いよいよ「京都市立染織学校」は「京都市立工業学校」となっていきます。
(洛陽工高100年史より引用)

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染織学校 年齢層に変化

 本科予科制度に移行したのち、烏丸校舎(明治44年移転)の時代になると、染織学校の生徒の構成に少しずつ変化が見られるようになりました。旧校舎時代は生徒たちの年齢層はまちまちでしたが、このころから小学生の卒業生が増えはじめ、生徒の大半を占めるようになりました。予科2年、本科4年の学校制度に従って入学を志すようになり、年齢層からみても中等学校らしくなってきたようです。他府県からの入学生も多く、京都という一地域にだけではなく、広く全国の染織業発展に貢献する実業学校でした。
(洛陽工高百年史より引用)

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染織学校 開校当初の授業料

 開校当時(明治27年:1894年)の染織学校の授業料は、京都市内の生徒と市外の生徒に分けて定められていました。「京都市染織学校設置要項」によれば、以下のように記録されています。
・本科、専攻科、速成科:市内生徒 30銭(1ヶ月)、市外生徒60銭
・復習科       :市内生徒 20銭    、市外生徒40銭

当時の物価は、鶏1羽:10銭、傘1本:15銭、瓦1枚:5銭と記録されており比較すると当時の授業料が推測できると思います。

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染織学校 予科

 染織学校は、開校当初は小学校卒クラスの実業学校として出発しましたが、その後いくたびか校則を改正して、次第に工業学校としての実体を整えていきました。明治30年(1897年)5月の改正では、本科の入学資格を高等小学校第2学年修了以上として、別に修業年限2年の予科が設けられました。これは尋常小学校卒業者のために設けられたコースでした。
その後、明治32年(1899年)5月の改正を経て、明治38年(1905年)4月の改正では、本科の修業年数を4年とし、予科が廃止されましたが尋常小学校との接続が不可能となったため、明治41年(1908年)には、再び修業年限2年の予科が設置され、予科では工業学校規定により、修身・読書・習字・作文・算術・地理・歴史・理科・図画などの普通教育が行われました。
(洛陽工高百年史より引用)

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染織学校 本科教科課程

 染織学校本科の入学資格は、昨日触れたように年齢12歳以上、および尋常小学校卒業のものとされており、修業年数は3年、速成科は織物部が1年、染物部は各科ごとに3カ月となっていました。普通教科では、修身、読書、作文、習字、算術、理科、図画があり専門教科は「実修」という名称で染色実験、織物実験などがありました。
 第3学年では下の表のように週38時間の授業がありましたが、上記の「実修」に38時間すべてが割り当てられており、より実践的な教科に重点が置かれていたことが分かります。
(洛陽工高百年史より引用)

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染織学校 履修コース

 染織学校の歴史を年代に沿って紹介してきましたが、ここで履修コースについて振り返りたいと思います。京都市染織学校は徒弟学校規定によって設立され、組織的な教育による職工の養成を目的としていました。したがって学則も徒弟学校規定に準拠して定められていました。教科はもとの染工講習所からの染物部に加えて織物部が設けられ、履修コースは当初、本科、速成科、専攻科、復習科の4科に分かれていました。専攻科は本科の卒業生を対象にしたもので卒業後さらに学習を続けようとする者は、専攻科に残ることができました。
 復習科は速成科の修了生を対象としていました。修了生は希望すれば、復習生として専攻科目を学習することができました。専攻科の期限は1年と定められていましたが、復習科には期限がありませんでした。
 本科の入学資格は年齢12歳以上、および尋常小学校卒業の者とされていましたが、それ以外の者も学校長の許可があれば入学が可能で、これらを対象にしてのみ入学試験が行われていました。(洛陽工高百年史より引用)

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染織学校 ユニークな運動会

 染織学校時代の行事の中で、何といっても呼び物は秋の運動会だったそうです。運動会は「秋季陸上大運動会」として毎年創立記念式前後に行われ、学校の広報活動として重要な役割を果たしていました。
 運動場には楽団が勇壮な演奏で雰囲気を盛り上げ、接待室では来賓が茶果のもてなしを受けたそうです。また、毎年小学生が招待され高等小学校優勝競走、尋常小学校優勝競走などの種目が盛り込まれていました。
 染織学校独特の競技種目として、浸染競走、捺染競走などがあり、浸染競走は染液の中に布切れを浸して絞を染める速さを競ったり、捺染競走は二人一組になって白地の金巾に日の丸を染めて、高く掲げて場内を一周する競技でした。そのユニークさから市民の人気を集め毎年2000人を超える入場者があったと記録されています。
(洛陽工高百年史より引用)

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染織学校 学芸大会

 染織学校の学芸大会は、春季、秋季、冬季と年3回行われ、内容は学芸部主催の雄弁を競う弁論大会でした。各級からの代表者1、2名がそれぞれ思い思いの演題をひっさげて登壇、弁舌をふるっていました。審査は教員と幹事生徒によって行われ、1等から3等までの入賞者には賞品が与えられたとあります。
 演題は多岐にわたり、「大国民の品格」、「本校生徒として」、「修養の初歩」、「自立自営の目的」、「不動心」といった精神道徳に関するものから、「工業について」、「日本画と染色術」、「維新後の織物の進歩」、「嗚呼西陣」など直接専門に関するもの、その他「地球反対論」、「岩崎弥太郎」、「我国体」など様々でした。余興としては、唱歌、詩吟、手品、尺八吹奏、落語、謡曲、美文朗読、英語劇などがあり学芸会を盛り上げたようです。
 当時の講演会方式の学芸大会は雄弁術を鍛えると共に、道徳教育の一環として行われていましたが、同時に幅広い知識を身につける機会をも提供していたと当時の記録に記されています。
(洛陽工高百年史より引用)

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