京都市立学校・幼稚園
最新更新日:2024/04/01
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洛陽工業高等学校は、平成29年度末をもって閉校し、 創立132年の歴史と伝統を京都工学院高等学校へ引き継ぎます。

京都市立第一工業学校 体操部の台頭

 昭和12年後半から20年頃にかけて、クラブ活動では体操部の活躍も挙げられます。体操部は昭和11年(1936年)に誕生しましたが、当時満足な器具や指導者もなく部員たちは京都師範や京都三中の練習を見学して、練習法を工夫し大会に臨みました。その結果、大会で初出場ながら団体の部でシニア(4・5年)、ジュニア(1〜3年)とも3位に入賞、これを契機に体操競技の本格的な取り組みが始まりました。
 昭和13年には京都大会団体の部で、シニアは初優勝に輝き個人の部でも鉄棒で優勝、8月の全日本体操選手権に出場し吊環で3位、鉄棒では優勝を果たし鉄棒の京一工として全国的に名前を知られるようになりました。京一工には体育館も器具も十分ではなく、工業学校の特色を活かして鉄棒、吊環、平行棒、あん馬などの器具を自分たちでつくったと記録されています。
 当時の写真は、「洛陽工高百年史」には掲載されていませんが、代わりに自動車部や相撲部の土俵開きなどが紙面に飾られています。
(洛陽工高百年史より引用)

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京都市立第一工業学校 グライダー部の活躍

 昭和13年ごろになるとグライダー部は全国的にもトップクラスとなり、グライダーの製作、訓練と共に中等学校をリードする存在でした。工業学校ゆえに機体製作ができるという強みもあり、学校独自あるいは外部の依頼を受けて次々にグライダーを製作、昭和16年には府下中等学校体育連盟の依頼により、文部省一型滑空機を2機製作、比叡号、愛宕号とそれぞれ名づけられました。
 また、昭和17年(1942年)に製作したグライダーは文部省指定機となりました。機体の設計は機械科の教諭が担当、製作は課業の余暇に木工工場で行われたと記録されています。
(洛陽工高百年史より引用)

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京都市立第一工業学校  野球部の活躍

 昭和14年、京一工では、野球部の健闘ぶりが目立った年でした。この年は平安中、京都商業、京都師範につづく有力校として春から注目を集めていました。7月から始まった大阪朝日新聞社主催の全国中等学校優勝野球大会京都府予選では、1回戦で大谷中相手に圧勝しましたが、2回戦で優勝候補筆頭の平安中と対戦し敗北しました。
 新チーム結成後は雪辱の意欲に燃え、秋のリーグ戦を勝ち進み、大谷中、同志社中、桃山中、京都二商といずれも5回コールド勝ちしたと記録されています。
 また、府立中等学校大会では京都一商に勝ち、優勝戦で平安中と対戦、6-4で初優勝を飾りました。当時の優勝チームのメンバー表が洛陽工高百年史に記録されています。
(洛陽工高百年史より引用))

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京都市立第一工業学校 弁論部の活躍

 昭和12年から20年頃まで、京一工では、射撃部、グライダー部などと共に弁論部が活躍し、明るい話題を提供しました。
 弁論部は昭和12年(1937年)から13年にかけて、各大会で上位入賞は果たしつつも優勝からは見放されていました。転機は、昭和14年(1939年)大阪城東商業学校の優勝弁論大会で工業化学科4年生の生徒が優勝、他に建築科4年生、機械科4年生など各科の生徒が各地の優勝弁論大会で上位入賞し、「雄弁の京一工」が復活したと記されています。
(洛陽工高百年史より引用)

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京都市立第一工業学校 好調な就職

 産業界の活発化につれて、昭和13年(1938年)頃の京一工の求人状況は、きわめて好調でした。昭和13年(1938年)3月卒業生は、本科生177名のうち自営業・進学者を除く7割が就職希望者でしたが、採用申込みが殺到し応対に苦慮したそうです。
 機械科は20倍、電気科は15倍、工業技術科は13倍におよび、他の科もほとんど前年の7月までに内定してしまうほどの盛況でした。また、昭和14年(1939年)3月卒業生も前年までに就職先はほとんど内定、翌年の卒業生に対する採用申込みまで多数あったと記されています。
 就職先は、色染・機織・工業化学は、人絹工場、染料工場、紡績工場、製薬工場など、電気科は、鉄道・電力・航空機・機械工場などで、機械科は航空機関連が最も多く、汽車・自動車関連工場もあったようです。
(洛陽工高百年史より引用)

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京都市立第一工業学校 入学試験

 昭和13年ごろの入学試験は、府学務課の方針により、内申・口頭試問・身体検査を総合して合否の判定が行われていました。例外的に色染・機織・建築の三科のみ指定の図画が課されていたようです。翌14年については、府の方針で国語のうち綴り方が学力検査として実施され課題は「友達」で所要時間は60分だったと記録されています。
(洛陽工高百年史より引用)

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京都市立第一工業学校 工業大意・実習講習会開催

 昭和16年(1941年)8月1日から6日間にわたって、京一工工業普及館では「工業大意ならびに実習講習会」が開催されました。これは京都市主催の研修会で、工業立国、科学振興という時代要請に基づくもので、国民学校理数科の主任約60名が参加、講師は各科目とも京一工の教諭が務めたそうです。
 研修の内容は、紡織工業、色染法、化学工業、電気工業、一般機械製作法、自動車工学、建築一般と多岐にわたり、京一工が学校教育だけにとどまらず、ひろく京都の工業教育の一翼を担う存在であったことを示しています。
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京都市立第一工業学校 工業普及館

 京都市立第一工業学校では、創立50周年事業の一つとして昭和13年(1938年)に「工業普及館」を開設しました。木造平屋建て85坪、陳列場は150人収容の講堂と映写設備があるだけの小規模なものでしたが、全国でも初めての試みで、関係諸方面から注目されました。
 工業普及館は生徒の生きた学習の場とすると共に、小・中学生、一般市民の工業知識の普及に貢献することが何よりの狙いでした。開館まもなくのころは、設備費、経費もなく運営は職員・生徒の創意工夫と関係各方面の援助に委ねることになったようです。
 このようにして開館した工業普及館には、官公庁・企業・有志家の寄贈品、学校所有の器具、標本、生徒の実習作品、研究試作品が展示され、内容的にも充実した学校博物館となり、全国的にも新しい試みとして高く評価されたと記されています。 
(洛陽工高百年史より引用)

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京都市立第一工業学校 課外講義

 京都市立第一工業学校のユニークな教育に、「特別研究」に加えて「課外講義」が挙げられます。
 これは昭和10年(1935年)ごろに始まった新しい試みで、分野ごとの専門家による講義や実習で、各科別に実施されていました。機織科では鐘紡の主任技師による講義・実習指導、色染科では風俗研究所長による「服飾史」「染織史」の講義、機械科は島津製作所の技師による「鋼焼入れ理論」や実習、工業化学科は第一工業製薬の工場長や研究部長による石鹸製造法など実務家による研修だったと記されています。
 課外講義は、実務を具体的に教育しなければならないという当時の教育方針に基づいたものだったようです。
 (洛陽工高百年史より引用)
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京都市立第一工業学校 特別研究

 京都市立第一工業学校のユニークな教育のあり方として、「特別研究」が挙げられます。現在の選択科目に似たものを自由研究方式で学習させるというもので、第三学年以上を対象とし毎週木曜日の午後の3時間、原則として生徒は自分の好きな教科を選んで自主的に研究するというシステムで、それぞれに指導の教員が付けられました。それぞれの専門分野を研究する生徒や、国語で俳句を選択したり、数学を選択する生徒とさまざまだったようです。
 生徒たちはそれぞれのテーマについての研究を一年間続け、学年末には代表者が講堂で全生徒を前に7分間、成果発表を行って締めくくるというもので、発表者に対して講評がありそれぞれの研究部のメダルが与えられました。特別研究は全国の中等学校初めての試みで、内外から注目され見学者も多かったと記されています。
(洛陽工高百年史より引用)

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