京都市立学校・幼稚園
最新更新日:2024/04/01
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洛陽工業高等学校は、平成29年度末をもって閉校し、 創立132年の歴史と伝統を京都工学院高等学校へ引き継ぎます。

工展の歴史

 11月7日(土)、今年も工展が開催されます。第一回目の工展は京都市立工業学校時代の大正10年(1921年)に開催され、その後学校の重要な広報活動の1つとなったと記録されています。展示会に出品した作品は、低価格で市民に販売したので回を重ねるにつれて人気を呼び、やがて京都の名物行事の一つにもなったそうです。
 大正13年の展示即売の記録では、以下のような製品が出展され、朝早くから列ができ開門と同時に、多くの人が目的の実習室に駆け込み製品を買っていったそうです。
・色染科:カーテン、テーブルクロス、浴衣、友禅染、ネクタイ
・機織科:タオル、ストッキング、帯、足袋、
・工業化学科:石鹸、香水
・機械科:アイロン、金槌
・電気科:スイッチ
・金工科:灰皿、カフスボタン、指輪、文鎮
・木工科:椅子、机、本箱
・玩具科:各種玩具類
(洛陽工高百年史より引用)

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京都市立工業学校 創立30周年当時の生徒数

 大正13年(1924年)に染織学校創立のときから30周年を迎えるころ、急激に学校の規模も大きくなり、開校当時は百十数名にすぎなかった在校生徒数は新設の7科を加えて9科合計で796名になっていました。
 当時の定員は本校の甲種6科(色染、機織、工業化学、電気、機械、建築)は750名、分教場の乙種3科(木工、金工、玩具)は108名、合計858名で定員に対してはまだ不足していましたが年を追って増加の兆しが見られました。
(洛陽工高百年史より引用)

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京都市立工業学校 企業求人が急増

 染織学校の生徒はほとんどが西陣をはじめとして全国各地の染織業者の子弟だったため、卒業後は家業につくものが比較的多かったようです。工業学校時代になると工業の急速な発展という社会情勢もあって、新興の企業からの求人がにわかに増え始めました。色染科や機織科の卒業生は従来通り家業を継ぐものが多かったものの、新設科の卒業生は就職する者が次第に増えていきました。
 第一回の求人状況は、工業化学科は卒業生8名に対して求人は10名、電気科は12名に対して20名、機械科は7名に対して13名といずれも求人数が上回っており、求人企業も当時の一流企業だったと記されています。
(洛陽工高百年史より引用)

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京都市立工業学校 校章のデザイン

 染織学校から工業学校に呼称変更された大正8年(1919年) 5月には、校章も新しいデザインのものに改められ、「京一工」時代にも引き継がれました。
 新しい校章は古代エジプトで崇拝されていたスカラブカブトムシを、当時の図案・美工史の担当教員がデザインしたもので、生徒や卒業生たちをスカラブになぞらえて創意工夫に富んだ人間として、社会に飛び立ってほしいという願いが込められていました。
(洛陽工高100年史より引用)

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京都市立工業学校 クラス編成と授業

 大正13年(1924年)、工業学校として3年目を迎えたころの全校生徒数は約60人、教員は20人にすぎず、きわめて家庭的な雰囲気の中で授業が行われたようです。クラス編成は1組が色染・機織、2組が機械・電気・工業化学で卒業までその編成は変わりませんでした。授業は午前中が学科の講義、午後は実習に充てられました。午前4時間、午後3時間、土曜も7時間授業で生徒の疲労も激しく、ほどなく土曜日のみ午前中の授業だけとなったと記されています。
(洛陽工高百年史より引用)

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京都市立工業学校 校舎の増設と池の消失

 京都市立工業学校に大正13年(1924年)、建築科が新設されこれまでの染織学校から名実ともに「工業学校」の実体を持つようになりました。新設学科が設けられたことにより、烏丸の本校は校舎と実習室の増築が急がれましたが、さしあたっては運動場を取りつぶして進められました。このときの工事で教職員や生徒に親しまれてきた「先心池」は埋められてしまいました。洗心池は、「色染科分析室の東と体操場との間が清潔に欠くことから検討の結果、池を掘って浮島を作り、橋をかけ木を植えて庭園とし、池には金魚や鯉を放ち、開園時には職員全員が集まって茶話会を開き投票を行い、池の名称を洗心池とした」とあり憩いの場だった様子が記録されています。
(洛陽工高百年史より引用)
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京都市立工業学校 志望者数が増加

 大正10年(1921年)工業教育に対する意識の高まりにより京都市立工業学校が設立され、総合的な工業学校として再編成されてからは、志望者もにわかに増加の兆しが見え始めました。こうした中、各科とも入学試験が行われるようになり、国語、数学、英語のほか面接が試験科目として課せられました。とくに工業化学、電気、機械の新設各科は年とともに志望者が増え、競争率も高かったようです。この頃の工業化学科の卒業生の回顧録では「志望者数が100名を少し上回ったと思うがこのうちから約50名が入学を許可された」と記されています。
(洛陽工高百年史より引用)

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京都市立工業学校 工業学校時代の課程

 染織学校から再編成された京都市立工業学校は、工業学校規定によって設立された甲種工業学校であると同時に、徒弟学校規定による乙種学科も併せ持つ工業技術者の養成機関として誕生しました。
 本校の色染、機織、機械、電気、工業化学の5学科は甲種の課程で当初の修業年限は3年と定められ、分教場の木工、金工、玩具の3学科は乙種の課程で同じく3年でした。このうち甲種の課程は2年間の予科が設けられ、また必要に応じて別科、速成科を設けることができるようになりました。尋常小学校の卒業生は予科から、高等小学校卒業生は本科に入学していたようですが、大正10年(1921年)4月からは、本科、予科の呼称が廃止され5年制の工業学校になりました。

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染織学校 京都市立工業学校へと再編成

 京都市の工業教育の再編成の動きは、大正6年(1917年)、まさに市の工業発展の機運を背景に始まりました。その年の10月、府知事が府立工業学校の設立を明らかにしました。
これに対して市側は、市長はじめ市立の染織学校拡大を主張、紆余曲折を経て京都市立染織学校は、大正8年(1919年)4月に「京都市立工業学校」として再編成され翌年にかけて新設学科の設置が進められました。
 工業学校として再編成にあたっては、本校と分教場に分けられ烏丸校地は本校として色染、機織、工業化学、電気、機械の甲種5科に、木工、玩具、金工の乙種3科は市立第二商業学校跡(上京区五辻通り浄福寺西入る)の校地・校舎を利用、実習室を増設、諸設備を整えて分教場としました。 
 こうして京都の産業発展の将来的見地からすぐれた技術者および職工の育成により、工業の振興を図るという目標の第一歩が始まったのです。
(洛陽工高百年史より引用)

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染織学校 時代のうねり

 大正4年(1915年)から大正9年(1920年)まで第一次世界大戦による特需が産業界を刺激、京都の産業界もこれまでに類を見ない好景気が続きました。明治末から不況に陥っていた西陣や丹後地方の織物業界も好況に転じ、工場数、職工数も急増、地場産業は息を吹き返しました。
 このような環境のもと大正年間の実業教育は、明治期の模索状態から一歩進んで制度、内容とも秩序正しくなっていき、積極的に教育制度の規模、内容の再検討が始まりました。第一次大戦後、欧米諸国を追うようにわが国も実業教育を教育の中心課題にしようという兆しが現れました。
 京都市の工業教育の再編成の動きは大正6年(1917年)、まさに市の工業発展の機運を背景に始まり、いよいよ「京都市立染織学校」は「京都市立工業学校」となっていきます。
(洛陽工高100年史より引用)

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行事予定
3/18 3学期終業式,新3年教科書販売,さくら咲かそうプロジェクト(東日本大震災被災地支援活動〜21)
3/19 高校生就職ガイダンス(2年),さくら咲かそうプロジェクト(東日本大震災被災地支援活動〜21)
3/20 さくら咲かそうプロジェクト(東日本大震災被災地支援活動〜21)
3/21 さくら咲かそうプロジェクト(東日本大震災被災地支援活動〜21)
3/23 新2年教科書販売(10:00〜13:00)

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