京都市立学校・幼稚園
最新更新日:2024/04/26
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明日の卒業式についてのご連絡

3年生の保護者の皆様へ

平素は、本校の教育活動に格別の御理解・御協力を賜り、厚く御礼申し上げます。
さて、明日の卒業式についてですが、新型コロナウイルスへの感染事例が急激に拡大している状況を受け、感染拡大をできるだけ防止する観点から、下記のような対応のもと、挙行する予定です。保護者の皆様方には、式への出席にあたりましてこの趣旨を御理解賜り、御協力下さいますよう、よろしくお願い申し上げます。

<対応>

1 時間短縮を心がけつつ、予定通り実施いたします。
2 生徒、保護者の皆様に風邪の症状がみられる場合には、出席・参列を
  見合わせていただきますよう、お願いいたします。
3 開式直前まで換気を励行しますので、寒さ対策に御留意ください。
4 在校生の参列は、生徒会執行部の代表者のみとします。
5 式場入口にアルコール消毒液を設置いたしますので、手指の消毒に御
  利用ください。
6 マスクの着用など、咳エチケットに御協力をお願いいたします。
  また、開式ののちもマスクをしたままで差し支えございません。

次に向かって

 大学入試センター試験のために受験会場に来た19期生たちを,大学の入り口で励ましてくれた「山」の旗が、玄関を入ってすぐのアトリウムに掲げられています。これから毎朝、登校してきた19期生たちをこの旗が出迎え、応援します。

 さあ、これから各自の目標達成に向けて、さらに集中して取り組もう!

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「La Gaya Scienza(楽しい知識)」

 「ラ・ゲーヤ・スキエンツァ」とは、12世紀の吟遊詩人たちが自分たちの詩を創作する技法として名づけたものです。堀川高校では、「知ることは楽しい」という意味で、学ぶことを「楽しい知識 La Gaya Scienza」と呼んでいます。
 疑問が発見を生み、一つの発見が新たな発見を呼び、それらが集積されて知識となり、知識の体系が知恵に結晶する。ひたむきに繰り返されてきた未知の扉を開こうとする人間の営み。
 人類は「知る」ことによって生きてきた。
                     (学校案内より)
 
 本年もどうぞよろしくお願いいたします。

ワケありちりめんじゃこ

 小さい時からちりめんじゃこが好きでよく食べていた。今もよく食べている。先日、ふと感じたのだが、以前食べていたちりめんじゃこと最近のそれとはかなり違っていることに気づいた。
 子どものころ食べていたちりめんじゃこは、形が不揃いで、大き目なものから小さなものまでさまざまな大きさのじゃこたちだった。さらに赤い小エビが何匹か入っていた。子どものころ、食べるときには、大きなじゃこから小さなじゃこをお皿の上に大きさ順に並べながら、小さい方から順番に食べていた。変わった食べ方をしていた。これが好きだった。そして何よりもうれしかったのが、じゃこではなく、赤い小エビだった。たくさんのちりめんじゃこの中から赤い小さな小エビを見つけ出し、それもお皿の上に並べてから食べていた。赤い小エビを見つけた時のうれしさ、ボーナス感は何物にもたとえようのないものだった。今でも覚えている。
 ところが、最近食べているちりめんじゃこは大きさがほぼ均等になっていて、さらに赤い小エビがほとんど見つけられないのだ。なんでだろうと考えてみたのだが、おそらく意図的にそうしているのではないかと考えた。他のさまざまな商品にしても、「不揃い」は敬遠されがちだ。形を整えてきれいに並べるものが、美しく良い印象を与える。確かに私たちはいつからか「不揃い」を敬遠するようになったようだ。なるほど少しずつ整えられた商品、整然とした見た目がよりよいものという価値観になっていたのだろう。だから、ちりめんじゃこを食べ続けてきたが、私も気がつかないうちにそういう価値観に慣れてしまっていたのだろう。

 そんなことを考えていたある日、スーパーでちりめんじゃこを買おうと棚を探していたら、ちりめんじゃこがたくさん並べてある中に、量がそこそこありながらも他のものより安いちりめんじゃこがあった。お得やなぁ、なんでだろう、と思ってパッケージをよく見たら、「ワケありちりめんじゃこ」と書いてあった。ワケありって、ちりめんじゃこにワケありなんてあるのか、なんだろうと思ってよく見てみると、「不揃いちりめんじゃこ」だったのだ。大き目なものから小さなものまでバラバラだった。だからワケありで安くなっていたのだ。私はお得感よりも求めていたものが予期せず目の前に現れ、「これだ!」と思ってニンマリほくそ笑んだ。それは幼いころ食べていたちりめんじゃこだったからだ。すぐに2パック買い物カゴに入れた。
 家に帰って昔のようにお皿の上に大きさ順に並べてみた。これがきれいに大きい方から小さい方にきれいに大きさ順に並べられるのだ。しかも赤い小エビも入っている。なんとちっちゃなタコちゃんとカワハギちゃんまで見つけた。「不揃い万歳!」幸せな夜だった。


 それからしばらく経ったある日、ちりめんじゃこを買おうと棚を見ていると、びっくりするものがあった。それは「小エビ入りちりめんじゃこ」と書いてあり、見てみると形の整ったちりめんじゃこの中に、「入れました」と主張しているように「赤い小エビ」がまとまって入れられていた。じゃこと混ざっているのではなく、じゃこの中に小エビが注入されているというものだった。自然の流れだったものが、意図されたものに作り上げられていた。現代の商品であればそれは当たり前であり、当然の商品開発だ。なんの責められる点はない。が、ちりめんじゃこの歴史を体感した(自分ではそう思っている)私としては、違和感を覚えるのだ。それはちりめんじゃこを提供していただいている主体の責任ではなく、求める私たちのニーズに沿って、それは変化していったと思う。「きれい」「そろっている」「整えられている」「プラスのお得感」などによって商品は作られていったのだろう。ニーズに沿った商品開発は当たり前だ。興味はあったが、その時は買い物カゴには入れなかった。一度買ってみようとは思っている。

 私たちの生きる社会は、いろんな人で構成されている。もちろん同じ目標達成のために集まったコミュニティはたくさんある。その中で一人ひとりの見方や考え方、価値観がその人数分だけ存在する。「ワケありじゃこ」状態だ。そこでお互いを認め合うことで、多様性のよさが表出してくる。大じゃこ、中じゃこ、小じゃこの主張、さらに小エビ、小タコや小カワハギの主張が化学反応をおこし、より良い方向性が見つかってくる。多様性にはイノベーションを引き起こすエネルギーが内在されていると思う。

 私たちはふだんのコミュニケーションにおいても「不揃い」を避けているのではないかと思うことがある。特に、SNSなど通信機器を活用したネット上でのコミュニケーションだ。そこではさまざまなコミュニティが形成されていて、「同じ考え」「同じ趣味」「同じ思い」の人たちの集まりとなっている。通信機器でのコミュニケーションも大切ではあるが、よく考えてみるとネットを通じてのコミュニケーションは、「同じ」がベースとなっている人たちとだけつながろうとしている傾向があるのではないか。それはもしかしたら、違った意見を持つことで傷つくことを恐れているからではないか。多様性を認めよう、受け入れようとすることはもちろん大切であるものの、その前に、自分が「違う」ことや「できない」ことで傷つくことを恐れるのだ。他者を認めようとする前に、傷つくことを恐れる若者たち。ネット社会がこれからも大きく複雑に広がっていく中で、私たちはこれまでのフェイス・トゥ・フェイスを大切にしながら、ワケありじゃこ状態をキープしなければならないのではないだろうか。


 学校長 谷内 秀一


前期終業式でのお話

 前期末考査、お疲れ様でした。
 4月以降半年が過ぎました。19期生のみなさん、文化祭、体育祭をやりきって、総エネルギー量が増え続けています。まだまだ増えます。自己実現の一つである進路実現に向けて、チャレンジし続けていきましょう。20期生のみなさん、探究基礎が終了し、いよいよ進路実現に向けて本格始動となります、進路実現も探究活動そのものです。まだまだ探究活動は続きます。チャレンジし続けてください。21期生のみなさん、入学後半年が過ぎ、少しずつ堀高生として成長してきています。11月の学校説明会では、中学生の皆さんに圧倒的な姿を見せてください。同じく、成長に向けてチャレンジし続けてください。
 今、みなさんにチャレンジという言葉を送りました。目標の達成や夢の実現にはチャレンジ精神が必須です。堀川高校に関わるお二人の方を紹介しながら、チャレンジについて少しお話をします。
 お一人目は、すでに各メディアで報道されている通り、ご存知だとおもいます。カタールのドーハで行われておりました世界陸上選手権大会、男子20キロ競歩で、本校卒業生の山西利和さんが金メダルを獲得しました。来年の東京オリンピック出場も内定しました。山西さんは本校13期生で高校入学後から陸上競技部で競歩を始め、高校2年生でインターハイ2位、3年生では優勝し、ウクライナで行われた世界ユース選手権大会でも日本代表として金メダルを獲得しています。
 今回の世界陸上でのゴール直後のインタビューがとても山西さんらしい謙虚でクールなものでしたので、一部紹介します。
「うれしいのと、ほっとするのと、まだ次があるので、またここで勝ったことで、見える景色とか、また次が見えてくると思いますので、そこに向かっていきたいですし、世界一をとったからどうっと、何かすごいとかいうのではなくて、大事なのは、僕のレースを見て何を感じてくれたのかということであって、ただ僕が勝ってうれしいだけでは、僕たちの競技っていうのは、意味がないと思うので、今日のレースを見て、誰か何かしら感じてくれていたのであれば、競技者冥利に尽きると思います。」
「世界一がゴールではないと思うので、その先が必ずありますし、そこが僕の目指していくゴールだと思うので、この世界一が、すべてではないですし、ただただ偶然一回勝っただけにすぎないという見方もできますから、あの、まあ、うれしいという気持ちもあるんですけれど、やはり僕一人の力だけではく、多くの方の支えであるとか、サポートがあって、初めての僕のレースが一本成り立っていますので、そこに少しでも恩返しのできるレースであったならばうれしいですし、見ている人に少しでも通じるレースであったならばうれしいです。東京オリンピックはほかのオリンピックとは違う意味があると思うので、そこでまた見ていてくださる方々に何か感じていただけるようなレースをしたいと思っています。」
 このインタビューからもわかるように非常に謙虚で、感謝を忘れず、さらに先を見越したチャレンジ精神が伝わってきます。堀川高校時代でもそれは貫かれていました。どんなにつらい練習でも、土曜日日曜日の試合の後でも、学校でのやるべきこと、提出物にしても期限を超えることなく、当たり前のように過ごしていました。この謙虚さとチャレンジ精神が今回の快挙のベースになっているのだと思います。

 実はオリンピックに関わる方が堀川高校にもう一人いらっしゃいます。1925年のことですから90年以上前のことになります。お名前は、人見絹枝さんです。
 人見絹枝さんは、1928年のアムステルダム大会陸上競技女子800m競走で銀メダルを獲得された、日本女性初のオリンピックメダリストです。NHK大河ドラマ「いだてん」でも7月に人見さんが登場いたしました。
 堀川高校の前身の京都市立第一高等女学校(1908年創立の京都市立高等女学校から1922年に改称)が京都市立堀川高等女学校に変わる1925年のことです。人見絹枝さんは当時18歳、4月に京都市立第一高等女学校(その後堀川高等女学校)に赴任された新任体育教師でした。当時はまだ、女性が人前で肌を見せたりすることはタブーとされ、女性スポーツが認知されているとは言えない時代でした。アムステルダム五輪では、本命は100M走での金メダルでした。しかし、それがかなわず、結果が出ませんでした。このまま日本に帰ったら女子スポーツの発展に支障が出る、だから何としてでもメダルをとって帰国しなければならない、という使命感から、これまで走ったことのない800Mに出場することを監督やスタッフに申し出て説得しました。結果は銀メダル獲得。やはり人見さんの志、女子アスリートのこれからの発展という夢の実現への大きなチャレンジでした。
4月に赴任した人見絹枝さんですが、実は、当時は学校の教師はプロと見なされ、競技会の出場が制限されるという決まりがあり、惜しまれながら4ヶ月で堀川高校を去り、母校の体育学校に戻られました。

 山西さんも人見さんも、お二人とも、目標達成にむけた志と努力と実践、そして夢を追い求めるチャレンジ精神を強く持たれています。
それぞれの時代で、人と人がつながり、新たなことに挑戦することで堀川の歴史が刻まれてきました。みなさんは、これからの堀川高校の歴史をつくる若者です。THE NEST OF YOUTH、このBIGBOXで送る時間はもちろん、その先もずっと続くものと考えます。みなさん一人一人の目標と志、夢を実現すべく、チャレンジしていってください。

 謙虚さとチャレンジ精神を持ち続けて自立する18歳に成長してくれることを期待しています。


 学校長 谷内 秀一





「Presence」

 先日、恐竜のスペシャル番組があり、引き込まれた。それは陸上の恐竜ではなく、海の巨大恐竜モササウルスの特集だった。海岸沿いにいるティラノサウルスをも襲っていたそうだ。私はその巨大さに関心があったのではなく、モササウルスの祖先が、実は陸上の小さな恐竜だったというところに一番興味がそそられた。陸上の小さな恐竜が、なぜ海の巨大恐竜となったのか。それは、未来への生きるための命がけのチャレンジがあったからだ。そこに魅かれた。
 ちぃっちゃな恐竜は大きな肉食恐竜に、陸上から、または空から狙われ続けながら生きながらえてきた。そんなある日、追いつめられて、苦手な海へ飛び込んだのだ。そして長い年月をかけて海を生活の場としていった。海への進出には、強い覚悟と大きな希望があったと思う。覚悟と希望が未来につながる大きな架け橋となったのだろう。命を懸けたチャレンジだ。その先にこれまでになかった新しい未来が切り拓かれていったのだ。考えてみるに、「生物」とは、過去を潜在的に内蔵しながら、未来に生きようとすることを基本とするものなのだろう。生きる柱は未来。それに対して「AI」は過去の膨大なデータを吸収してはじめて分析可能となる。生物の存在は未来がベースで、A Iは過去がベースなのだ。
 堀川高校の文化祭も未来志向の堀高生たちが挑戦する最大の場だ。毎年ドラスティックな活動が多数展開される。それは堀高生が、今を力一杯生きるからこそ、未来への新しい、これまでになかった価値の創造が自然発生的に生まれてくるのだろう。「0話から始まる堀川物語」は、まさに未来への新しいチャレンジだ。モササウルスと同じく、未来志向のエネルギーは、堀川高校文化祭に内在されている。「ありがとう」とお互いを認め合いながら、文化祭は生徒たちによって作り上げられていく。今年も生徒たちの無限のエネルギーが掛け算となって増大し、BIGBOXを満たしてくれることだろう。さぁ、新しい堀川物語を未来に向けて紡いでいこう。

   校長 谷内 秀一

(文化祭しおり巻頭言より)



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境界線

 こんな話がある。
 一羽のイスカ(スズメ科の小鳥)がトウヒ(マツ科の針葉樹)の木に止まり、種子をついばむ。そのトウヒの種子が様々な偶然を経て、川沿いの森に根づく。やがて一本の大木に成長する。成長したトウヒの側を流れる川は長い年月をかけて浸食し続け、森に近づく。やがてそのトウヒの大木が川岸に立つようになる。ある年の洪水で、ついにトウヒの木はユーコン川(アラスカにある川)に根こそぎ流される。流されたトウヒの大木は、そのまま旅を続ける。ついにはベーリング海に運ばれ、はるか遠い北のツンドラ地帯の海岸へとたどり着く。海岸に打ち上げられたトウヒの流木は、全く「木」というものの存在しないツンドラ世界では、特に目立った存在となる。その目立つ流木に、一匹のキツネがテリトリーを示す匂いをつける、マーキングをする。何度かマーキングを繰り返すうちに、冬のある日にキツネの足跡を追っていた一人のエスキモーが、そこにキツネを捕るためのワナを仕掛ける。トウヒの木は最終的にエスキモーの家の薪となり、煙突から大気の中にゆっくりとひろがってゆく。 アラスカ内陸部の森で育ち、大木に成長したトウヒはある一羽の鳥の口からこぼれた偶然で生命が始まった。キツネもトウヒにマーキングすることでエスキモーのワナにはまる。大自然の妙である。
 この話は写真家の星野道夫氏が大好きだったアラスカの動物学の古典「Animals of North」(北国の動物たち)第一章のはじめにある「旅をする木」という話である。
 星野道夫氏はアラスカの自然をこよなく愛し、自然の中で暮らし、自然を体験し、写真を撮り続けてきた人である。彼は1996年、42歳で、その大好きな自然の中(ロシア、カムチャッカ半島)、で大好きなヒグマに襲われて亡くなった。
 トウヒの木は「木」としての役割を終えてからも、偶然が重なり、その存在は他の生物や生命に影響を与え続け、自然界に循環していく。さてトウヒの一生はいったいどこで終えているのか。星野氏もまた偶然が重なり、その日の、その場所の、その瞬間にヒグマに襲われたのである。星野氏の生きざまは「真に自然の中に存在」し得た自然物といえはしまいか。瞬間、瞬間が大切な「生」であり、「命」なのだ。今でも、星野氏の存在は多くの人に影響を与え続けている。
 では、「死」とは一体何を指すのか。どこからどこまでが「生」で、どこで「死」になるのか。ということで「境界線」ということについて少し考えてみた。人間レベルで考えてみると、世間では未だに議論されるところであるが、「自然の中の存在」と考えてみると問題はあまりなさそうだ。解剖学者の養老孟司氏が指摘するように、「死」とは、自分自身で体験的に語ることができない「他人事」であることには間違いないのであるから、「死」というものは他者が決めざるを得ない。他者が決める以上、「客観的基準」または「社会的基準」が必要となる。体験的に語ることができないのであるから、「客観的基準」の存在は困難である。残る「社会的基準」が一定しないので困っているのだ。つまり「この人は死んでいるのだ」と全員が認めることの一致点が一定しないということである。そこで養老氏は、人間は「ことば」によって世界を分節したのであるから、「死」も「ことば」で分節するしかないと結論づける。感情を入れてしまうと「死」は揺れ動く。医療技術の発達はすばらしく、否定のしようもないが、境界線が厳密になればなるほど「分節」が「分節」でなくなってゆくことも、否定できない事実となっている。境界線が多すぎるのだ。境界線が作られるならその区分を示す「概念」の名称が必要となる。にも関わらずその名称が存在しない。存在しないから言葉で分節せよというのである。
 先のトウヒの一生においても、一般的には大木に成長して川に流されるまでを一区切りとするのだろう。トウヒの一生は根こそぎ川に流された時点で終える。誰が認定するかといえば、それはその地域の住民たち、そしてトウヒの木に世話になっていた動物たちであろう。トウヒの存在が消えてしまったわけだから、それは「死」という意味合いを持ってくる。ところが、ツンドラ地域に流されてきたトウヒの存在を認めるエスキモーにとってはどうであろうか。トウヒという植物の「生」を感じはしないまでも、「木」としての存在は認める。トウヒは生きていないが、死んでもいないという曖昧な存在となる。そして、人によっても認識は違ってくるだろう。つまりそのトウヒの木を「死」と認める人もいるだろうということである。「生」か「死」か自体も曖昧だが、「生」と認識するか、「死」と認識するかも様々で曖昧なのである。我々の目の前に切り倒された一本の大木を見て、「まだ生きている」と認識するか、「もう死んでいる」と認識するかは人によって違う。木造建築物を見て、材料となっている「木」を「生きている」と認識する人もいるはずだ。そういう感覚だ。一定しない。
 「生」と「死」の境界線の問題は今後も深まっていくと考えられるが、先の「トウヒの一生」や「人間の死」の認識で示したように、その境界線が実は曖昧なものであることも我々は自覚せねばならない事実である。
現代芸術の最先端で人気を博している森村泰昌氏は、古い時代では人間は「境界線」を引くことに専念して、様々な物事に区切りをつけてきたが、現代社会ではその「境界線」を消しにかかっていると指摘している。境界線の引き方に個人差があるため、常識とはかけ離れた行動を人間はとってしまうわけだが、現在の社会状況のまま、その境界線がなくなっていくと一体どうなっていくのか。境界線が融合されることで常識が常識でなくなってゆく社会が形成され、新たな問題をはらむ社会構造を生み出していくとも考えられるが、逆にダイバーシティ的価値観として、新たな可能性が生まれることへの期待の方が大きいのではないだろうか。

 94歳のピアニスト ルース・スレンチェンスカ曰く、
             「老いは、成長の始まりよ。」


 学校長 谷内 秀一

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知の行方

 この世界に存在する「情報」は私たちの生活周辺を取り巻き、時代とともに無限に広がっている。過去からの多くの情報は「知」として文字化し、記録されてきた。紙と印刷技術が発明されてからは、書籍として残されてきている。それは「知」として体系化され、図書館や博物館などの施設で保存され、また身近なところでは教育の中で私たちはそれらの「知」を引き継いできている。いわゆる巨人の肩に乗ることで、自らを高め、さらに前に進んでいく。リアル空間の中で対話し、気づき、学び、成長していく。
 インターネットが構築された現代では大きく状況が変わり、情報は個別化され、すべてを顕在化させ、記録し、そして保存している。そして分析する。ビッグデータとして共有し、還元されることは、スマートフォンなどのデバイスですでに身近に検索利用していることは、多くの人が頷けるところだ。
 一方で、リアル空間での真骨頂であった「知」の体系までも情報としてデジタル化されインターネットを通して、私たちの目の前に瞬時に、どこでも手に入れることができるようにもなってきている。そこには、リアル空間では計り知れなかった「ヒトはどう思っているか」というインビジブル情報までもが顕在化され、そして記録、保存しているのがインターネット世界の強みとなっている。それは検索というエンジンに入力するところから始まる。欲求を文字化して入力することで、答えの候補が目の前に提示されると同時に、欲求として文字化された思いが、データとして蓄積されていく。紙ベースでは考えられないデータ量が瞬時に集められ、蓄えられていく。
 リアルな文字情報の「知」の体系が大きく変わってきている。リアル「知」は洗練され、かつまとめ上げられた情報となって磨き上げられてくる。一方でネット空間の注意すべき点として、ネット上での情報は「知」の洗練より、情報の量を優先するので、フェイクを含めたすべての情報を同等に陳列してしまうところがあげられる。
 ネットを介した「知」の情報は、見極める能力を私たちにつきつけているともいえる。見極める力は、まさにクリティカルな視点、メタ的な視点、そして、ヒトの心理的な分析というリアル感であり、自己実現への礎である。堀川高校の探究の三要素がこれからの世界では必須の観点となっていくことは間違いない。それは、進路実現するプロセス自体が探究活動そのものであることの証ともいえよう。ネット空間とうまく共存するには、リアル空間での探究的学びと気づきが重要となる。

 (進路のしおり「若き狩人」巻頭言より)


 学校長 谷内 秀一


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「あふれ出てくる」ものを「言わずにいられない」自分

 19期生の予稿集の巻頭言では、泉鏡花の『夜叉が池』に登場する人と妖怪たちとの結んだ約束を人間が意識的に破っていくという話から、人の「欲」について述べた。マズローの五段階欲求の「自己実現欲求」を大切にしよう旨についてお伝えした。内的に満たされたい欲求を充足することは自然な流れであり、命ある限り私たちへの試練なのだろう。
 欲はモノに対するものと、心理的な充足欲求とがある。デジタル化が進む情報化社会の現代にあっても欲求の基本形は同じように成り立っているが、スピードとやり取りする空間が大幅に変化してきている。流れる時間のいたるところで欲を充足しようとする営みが成立する。農耕が中心となっていた時代と比べるとその差異が明確に認識される。
 江戸時代後期1800年代の『琴後集』巻十四雑文「河づらなる家に郭公(ほととぎす)を聞くといふことを題にて物語ぶみのさまにならへる文」に、以下のようなやりとりがある。
 初瀬詣でに出かけている筆者が、一夜を明かすために、ある御堂に宿をとっていた。筆者は月を愛でるために宿の横に流れている川のほとりにたたずんでいた。同宿となった別の団体の女房たちの中にも、美しく照り輝く月を眺めようと、宿の端まで出てきて月を愛でている。その様子を外に出ている筆者が目にしている。女房たちは気づいていない。しばらく月を愛でていた時に、郭公の鳴く声を聞いた女房の一人が、
「ここを瀬に鳴くほととぎすかな」
と口ずさんだところ、それに対して別の女房が、
「初瀬川波間に月もやどる夜に」
と返した。そのすばらしく趣深いやり取りを、外で聞いていた筆者は、「かかるをりに歌よまでやはあらむ、よしやうちつけなるわざも、情け知らむ人は、咎めじ」と、我慢できず、
「月見つつ寝られざりけり郭公ほのかになのる声聞きしより」
と歌を詠み、扇の端に書きとどめて、宿の中にいる女房たちの足元におし入れた。自分たちのやり取りを外で誰かが見ているとは知らずに、驚いた女房たちは、扇を手にして部屋の奥へと下がっていった。誰とも知らない人からの歌ではあるが、歌を贈られた以上、歌を返すのが礼儀であるので、女房たちは香を焚きしめた白い紙に、
「郭公月にかたらふしのび音をいづれの雲のひまもらしけむ」
と書いて扇の端に結んで、外にいる筆者に返した。筆者は自分がいきなり歌を贈るということは失礼だと知りながらも、二人の女房のやり取りの趣深い風情に我慢ができず、そして、風流を解する人たちであれば、許してくれるだろうという勝手な判断で歌を贈っている。この我慢ができない、歌を歌わないではいられない、伝えたくてたまらないという欲求は、高いレベルでの自己実現欲求である。和歌を介してのコミュニケーションのひとつであり、流れる時間の中では頻繁にあるものでもなく、絶妙なタイミングでやってくる時間と空間で成立する。そのタイミングが人と人との関わりをより深く結びつける。
 活動録においても同じく、伝えなくてはいられない魂の叫びがこめられている。書き手と読み手は直接的にはやり取りができないが、書き手の魂を読み手が受けとった時間と空間は、先のやり取りと同様、関わりを深く結びつける。

 源公忠曰く、「行やらで山路暮らしつほととぎす今一聲の聞かまほしさに」

 (19期生「探究基礎活動録」巻頭言より)


 学校長 谷内 秀一

自立する18歳の日

本校では、年間10回程度、「自立する18歳の日」を設定しています。
これは、学校活動から一時的に離れ、「ひとり」になってあらゆる活動を振り返り、自分で目標を設定することを通して、社会での貢献や地域・家庭での役割を果たしたり、教養の獲得に向けて自主的に取り組んだりすることに目を向ける日と位置づけて実施しているものです。
今年度は、本日5月21日(火)が1回目の「自立する18歳の日」です。この日は、校内での自主活動や部活動など、あらゆる学校活動を17時までに終えて、すべての生徒が下校します。
学校活動から一時的に離れ、「ひとり」になってあらゆる活動を振り返り、自分で目標を設定することを通して、社会での貢献や地域・家庭での役割を果たしたり、教養の獲得に向けて自主的に取り組んだりすることに目を向ける日となることを期待しています。
また、教職員もこの日を自己の研鑽に努める機会として有効に活用していきたいと思います。

※今年度前期分の「自立する18歳の日」は以下の4回を予定しています。(確定した日程は月ごとの行事予定でお知らせします。また,後期分についても予定が決まり次第お知らせします)

   (1) 5/21(火)   (2) 6/14(金)  (3) 7/ 4(木)   (4) 7/22(月)

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行事予定
3/28 PSTなし

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