京都市立学校・幼稚園
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1月17日

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ライトアップされた東寺五重塔



 昨日は1月17日。1995年のあの日から17年が経ちました。
 朝,5時前に起きて,新聞を取りに。京都版を開けて,まず京都市長選挙の特集。16日の夕方に朝日新聞社から明日掲載するという連絡が入っていました。
 記者の方に尋ねました。
 「高校入試や学級定員などの制度に関することや,統廃合とか耐震対策とかといったことや,また,教職員や教育委員会に関すること,まさに昨日出ていましたが,国旗国歌関係の問題であるとか,教職員数のこととか,そういったことなら市長選挙の争点になるかもしれないけれど,とりわけ義務教育ではない,しかもこれだけ学校の特色化が進んでいる状況で,高校の取り組みが選挙の話題になるのでしょうか?」

 中学生がどの高校に行くかを選択する際には,その機会が平等でなければなりません。現在京都市および隣接する乙訓地区の普通科第1(本当はローマ数字なのですが,このソフトでは使えません。以下同様)類(学力充実コース)で実施されている総合選抜は,どの高校に行くかを選択しないという条件で,中学校の学習状況と入学検査の成績によって,高校入学が可能になります。しかし,この「どの高校に行くかを選択しない」ということに対して賛否両論があります。普通科第2類(学力伸長コース)や第3類(個性伸長コース),また専門学科は,すでに単独選抜(行きたい学校を受けて合否が決まる)になっています。
 これまでも普通科第1類の入試制度には変更が加えられ,特色選抜(定員の15%を学力検査なしに面接等で合否決定)や特別活動・部活動による入学者枠(定員の20%を総合選抜による合格者の中から決定)によって,行きたい学校を選べるようにしてきました。このような選抜制度は全国的に見てもわずかで,そのあり方についての検討が現在行われています。

 さて,記事は「教育モデル校」に対する賛否という構図になっていました。堀川は高校改革の「パイロット校」ですので,必ずしもモデル校ではありませんし,また,私としては高校教育がどのようにあるべきかについて話したつもりでしたが,対比ないしは対立する形を作らなければなりませんから,仕方ないのでしょう。こうは言っても,文句をつけているのではありません。記者の方もさまざまですが,今回のインタヴューは実に誠実に行われました。しかし,明示されたテーマに沿って直接議論をしたのではなくて個別の取材に基づく記事ですから,話がかみ合っているとは言えません。編集をされた方々のご苦労を思いました。
 私の1月17日は,こうして始まりました。

 朝,8時過ぎに学校へ。
 進路指導主事(進路部長)からセンター試験の集計結果の報告。全国平均予想はまだわかりませんが,堀川としてはほぼ例年どおりだろうということです。
 何人かの3年生とやりとり。「もうすでにセンター試験は過去のもの。行きたいところに行くことが基本。事情があって対応を変更するにしても,データを見てから。一喜一憂をしていないで,前を向きなさい」。

 3年生の担任と立ち話。「これからですね」。
 よかったにせよ,よくなかったにせよ,多くの生徒が揺れるこの時期。我に返ることを促すのが担任の重要な役割。

 企画会議。将来構想についての議論。選抜制度の変更があった場合,堀川はどのように対応していくか。
 「カンカンになって進めていく人が必要になりますよ」。
 もちろん,その人とは別に,冷静に,むしろ逆に批判的に意見を展開する人も。

 来年度人事異動について副校長と打ち合わせ。校内人事についても。遅ればせながら,各教職員のキャリア計画を参考にした校内人事を行うために,教職員からの提案に基づき「キャリアプラン申告書」を作成中。申告書の様式について提案者と相談。

 進路部長に,新学習指導要領実施後の大学入試センター試験について高校としての意見集約を月末の進路指導研究協議会で行うよう依頼。
 「ただし,すでに考えているカリキュラムを入試対応で変更するといったことは本末転倒。教育課程は学校の教育方針を具体化したものだから,入試対応も考慮する必要はあるが,本来どういう教育をしてどんな生徒に育てたいかということをぶれさせてはいけない」
 「わかっています」
 「『はい』だけでよろしい」
 にやりとして,
 「はい」

 英語科主任と新学習指導要領に基づく英語授業についての打ち合わせ。
 「何もかも,寝ている生徒を起こすのも,文法の説明も,すべて英語でやるように」
 「え? そうなんですか?」
 「ということが重要なのかどうか,All Englishの趣旨を正確に」
 「はい」

 メールを読み,一部に返信。電話を2本。かかってきたのも2本。

 2時間目が終わった後にやっている教職員連絡会で,センター試験集計結果報告を受けて,教職員に感謝。「結果はみなさんの尽力のたまもの」。
 さらに,「どこそこ大学に何人といった数値目標は設定しないが,センター試験は数値目標設定ができる標準的問題。目標に達しなかった教科・科目の担当者は分析を。また,標準単位数を超えている教科や習熟度別授業を行っている教科も効果測定を」。
 堀川の最高目標は「自立する十八歳の育成」。その達成のためにも,そこにつながる学力向上は第一優先事項。

 1年生の海外研修のことで,学年主任と一緒に旅行会社の方と打ち合わせ。なぜ円高が旅行費用に直接反映していないのか理由を確認。保護者への説明文書を依頼。

 朝日の朝刊を読んだという保護者から連絡。
 1月17日であったことをあらためて認識。去年の1月17日は月曜日。子息が去年,前日の日曜日から神戸に入って,慰霊の竹筒の灯を準備するボランティアに参加。少し仮眠をした後に,何食わぬ顔で登校したことを知り,感激したことを思い出す。
 奇しくも副校長が,「彼は今年どうしたでしょうか」。

 書きかけの「校長室から」を断念して食堂へ。居合わせた教員と,カレーと餃子の店についてあれこれ。後から来た教員が「生徒が新聞に校長先生が出てはったと言ってましたよ」。そのあと廊下ですれ違った教員も,「今日は朝一番に新聞でお会いしました」。

 昼休み,研修旅行委員会の生徒男女2人ずつが,旅行の冊子への原稿依頼に。
 「残念ですが,まだ実感のない人もいるので,もう目の前に迫っているぞ,というように活を入れる文章をお願いします」
 それぞれの将来の夢を聞く。
 「君たちの話を聞いて,共通して大事になることを三つ考えました。国際社会との関わりと,経済学的視点と,そして哲学。哲学というのは,自分としてどのように考えるかという軸」

 午後に洛陽工業高校である生徒指導研究会に出席するためバスの系統を確認。副校長が,「四条堀川から特13番です」。
 洛陽工業高校の恩田徹校長にこれから伺うという電話をしたら,今日は日経の佐藤編集委員の総合的な学習の時間の授業があるとのこと。副校長に,「会議に出て挨拶して,そのあと授業を見せてもらって,生涯学習部の会議に行って,今日はもう戻りません」と告げて外出。

 1時29分のバスに乗るべく四条堀川で信号待ち。お年寄りと一緒の女性が,「2年生でお世話になっている○○です。お父さん,堀川高校の荒瀬先生」。ご挨拶をしたら,「私も堀川高校。同窓会長の市田ひろみさんと同じ2期生でした」。

 バス停で待っていると,東の方から盲導犬。ハーネスに「お仕事中」,「訓練中」と書いた札。道理でビデオを回している人もいて,総勢5人。
 研修会で聞いた松永さんのお話を思い出す。「盲導犬は数が少ないから,めったに会わないと思います」。
 バスが来て乗ってからも,松永さんの声。「目をつぶるとバランスがとりにくくなります。だから,バスに乗ると怖い。立っているのは,空席がわからないから。視覚障害者を見かけたら,空席を教えて座らせてあげてください」。

 バスの中は暖か。風もなく日差しもあって春を感じさせるような。旅行者みたいな気分でいるうちに西大路駅前。
 洛陽工業高校の門を入ると生徒部長さんのお出迎え。グラウンドでは体育の授業。旧知の先生と挨拶を交わして校長室へ。隣の会議室が生徒指導研究会の会場。時間があったので少し授業を拝見したあと会議室に。
 会場校の恩田校長のご挨拶。「いろいろと問題が起こってその対応に追われることもあるが,後追いにならない,キャリア教育につながるような生徒指導を」。
 私も会長として挨拶。堀川の組織改編の予定,研究会の体制について。
 その後,3階に上がって「創造基礎」の授業見学。ティームティーチング形式。30数人の1年生たちに日本経済新聞社編集委員の佐藤徳夫氏が質問中。全員が机の上に朝日新聞を広げている。あれ,日経じゃないの? 「新聞は毎回違います。今回は先週金曜日に朝日を渡しています。今朝の先生の記事もつけましたよ」と恩田校長。見学者は,下京中学校長と,教育委員会の首席指導主事がお二人と私。

 黒板には,「何のために勉強しているの?」。そのあとに,「自立すること」,「社会のためになること」。
 阪神淡路大震災の日ということで,震災に関する授業。6時間目は佐藤氏の講義。7時間目はグループワーク。実に面白い。(詳細は,いずれ洛陽のHPに出るかと思いますが,過去のものは,
https://cms.edu.city.kyoto.jp/weblog/index.php?...
 見せてもらってよかった。「地震の影響は何県にまたがっていたか?」という佐藤氏の質問に,生徒の一人が「全国」。「全国って,そうか?」。「だって,原発の影響が……」。
 この「だって」が特によかった。自分の思いや考えを伝えようとしている。すばらしい。
 もう一つ驚いたのは,休憩時間。佐藤氏が,席から離れた生徒の椅子に座って私と話しておられたときのこと。始業のチャイムが鳴って,戻って席に着こうとした生徒の椅子には佐藤氏が着席なさったまま。するとその生徒,全く自然に,教室の後ろにあった椅子を持ってきて座った。なんと状況に応じた行動か。あとから彼を称賛したら,その照れるところがまたよかった。
 終了後,毎回あるという別室での補習に私も参加。3人の生徒が出席。佐藤氏と恩田校長と,こちらも3人でスタート。このやりとりもとても面白かったが,詳細は割愛。

 5時半ごろに大変興味深い経験をした洛陽を辞して,九条通りに沿って東へ。途中で副校長に電話。学校の様子を聞いたあと,歩いて九条大宮まで行くと言ったら,「ウォーキングですか。気をつけてくださいね」。
 冬至から間もないのに,すでに長くなっている夕方の洛南をテクテク。
 九条坊城。国道1号線の曲がり角。前方に東寺の塔が見える。携帯電話でカシャッ。あっ,ぶれた。
 大宮通りを渡って進むと,東寺駅手前に九条近鉄のバス停。九条大宮のバス停は大宮通りだったか。戻ろうかとも思ったが,よし,地下鉄京都駅まで歩こう。

 四条駅で降りて歩いていると,地下道を向こうから女子生徒。会釈する彼女らに「さよなら」,「さよなら」。
 四条通りに上がると,今度は男子生徒が二人。「さよなら」。びっくりしたのか,「あっ,こんばんは」。
 室町通りを北に曲がって気がついた。迷わずに歩いている方向は堀川高校。今から行くべき場所は富小路蛸薬師アガル。反転して蛸薬師通りを東へ。暑くなって,途中でマフラーを取り,手袋をはずし,6時半の会議の5分前に無事到着。
 人づくり21世紀委員会。会議中なにも発言せずにずっと考えていたのは,「人づくり」ってどういうことかなあということ。

 8時に会議が終わって,再び地下鉄四条駅へ。
 阪急電車のほうから地下鉄に下りる階段辺りで誰かに呼ばれたような気がして,でも違っていたら恰好悪いので,そのまま改札口に向かって歩いていたら,前に回り込むように二人の女子生徒。元気に笑いながら,はあはあと息が荒い。
 「あ,校長や,と思って追いかけて」
 「先生と言いなさい」
 「校長先生がおられると思って走って来ました」
 「何していたの?」
 「ご飯食べて,もうおなかいっぱいで」
 「走ったから苦しいです」
 「どうぞお大事に」
 少し歩いて,
 「どこまで帰るの?」
 「私は宇治です」
 「私は北大路まで。先生と近いですよ」
 「ふうん。ではさようなら」
 健康のために私は階段を。気にする必要のない彼女らはエスカレーターで。
 竹田行きが来て,一人が「さよなら」。
 「気をつけて」
 国際会館行きが来て乗り込む。夜の電車は車輪の音を響かせて揺れる。
 北大路で降りてもう一人と改札口で,「さよなら。気をつけて」。
 この飽き飽きする日常が,かけがえのないものであることを知っているかい?
 地上に出ると,夜の冷気。
 ポケットから歩数計を出して街灯にかざしてみたら,13,120歩。

 長い一日。こうして今年の1月17日が終わりました。

                      37号(2012.01.18)……荒瀬克己

センター試験

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左:1月8日,東大寺二月堂からの夕焼け   右:二月堂の常夜灯。
ふっと「西方浄土」という言葉が浮かびました。


 小寒を過ぎ,寒さが本格的になってきました。そんな中,今度の土日は大学入試センター試験です。今年の堀川は2会場で,同志社大学新町校舎と京都教育大学。
 多くの学校がなさっていますが,堀川も当日は会場前で生徒たちの受験確認と本番直前の応援を行います。今年は初めて2会場になることもあり,3年生の学年主任は準備に余念がありません。その指揮のもと,例年ですと担任を中心に20人余りの教員が,200人ほどの生徒たちが入場するのを待ちます。
 待っているからよいという訳でもありませんが,普段の調子で本番に臨めるようにという,よく言えば師匠ないしはコーチの親心,実はやや甘めの取り組みです。いつもは「不親切」を心がけていますので,その場で驚く生徒もいます。本番で驚かせては意味ないじゃないかとも思いますが,恒例なので,3年生諸君,どうぞ落ち着いて,普段の力を発揮してください。
 同志社新町校舎は新生7期生以来5年目です。同志社のみなさん,毎年お騒がせして申し訳ありません。今年は,教育大のみなさんにもお世話になります。どうぞよろしくお願いします。
 当日の朝に生徒が体調を崩したり,交通機関の遅れで影響が出たりといった不測の事態に対応するために,学校で待機する連絡係もいます。追試験を含め,具体的な手続きは個々の対応となりますが,センター試験の制度上,在校生には学校が相当に関与します。
 いっぽう卒業生はというと,まったくの個人対応です。すべて自分でします。昨秋も受験用の調査書の交付申請に来た懐かしい顔に多く会いました。偶然に試験会場が同じになることがあります。そんな時は,少し照れくさそうです。
 卒業生諸君,この一年の取り組みの成果をいかんなく発揮してください。

 何年か前のことですが,京都府立医科大学が会場だった時,大学1年生の卒業生が後輩たちの応援に来てくれたことがあります。みぞれまじりの雪の降る寒い朝でした。
 この生徒は小さい時から子どもが好きで,幼稚園の先生か小児科の先生になりたいと思っていました。高校に入ってからもその思いを持ちつつ,しかし,しだいに別の進路を考えるようになっていきました。高校3年生の夏,思うように勉強がはかどらないで苦しんでいたときに,自分が何をしたかったのかということをあらためて考え直してみて,そのときに,医療に携わりたいという思いを新たにしたそうです。高3の秋,彼女は担任にその旨を伝えました。意志の強さを受け取った担任は,「それじゃあ,がんばってみるか」。

 一概には言えないだろうと思われるかも知れませんが,どういう生徒が合格しているかというと,次の7項目(順不同)に数多く該当する生徒です。
○学ぶことが好きで,多くのことに疑問をもつ
○いろいろなことに興味をもって取り組む,取り組もうとする
○楽しいことも楽しくないことも,なぜそうなのかを言語化できる,言語化しようとする
○よかったことを素直に喜べる,よくないことを他人のせいにしない
○自分の強みと弱みを知っている,知ろうとしている
○他人と一緒に楽しむ,楽しもうとする
○将来への志をもっている,もとうとしている

 簡単に言うと,「自分でやってみる」,「むやみに頼らない」ということになるでしょうか。これは塾や予備校に頼っているだけではだめだし,残念ながら,実は学校に頼っているだけでもだめだということです。
 なるほど,上の7項目に多く該当するような生徒なら合格するだろうが,そうでない生徒はどうするのか,と思われる方もいらっしゃるでしょう。そうですね,だからこそ「教育」が重要になります。
 堀川は「自立する十八歳」を育てることをめざしていますが,それは,近い話で言えば大学合格にもつながるものです。生徒が学ぶことで,周囲からの視点に言い換えれば,学ぼうとするきっかけを用意することで,さらに言うと,内発を促す外発をしかけることで,「自立する十八歳」を育てることができる,と私たちは考えています。まだまだ十分ではありませんが,生徒たちが近い進路にも,遠い進路にも,あるいは眼前の課題にも,自ら立ち向かっていく力を身につけてくれることを願って取り組んでいます。

 昨年末,医師になりたいという希望をもっている生徒が少し悩んでいる,と担任から聞きました。会ってみたら,小児科医になりたいとのこと。ふと,この子には彼女の話がいいかもしれないと思いました。先ほど紹介した医大生は,すでに研修医になっています。連絡をしたら,「ええっ! 私で役に立つでしょうか。うーん,ともかく伺います。でも時間がなかなか約束できなくって」。
 はたしてその当日,急患が入ったということで,遅刻する旨の電話がありました。会議室で待っている3年生のところに行ったら,本を開いて勉強していました。
 「少し遅れるそうです。医者は大変やね。悪いけど待っていてください」
 「はい」
 しばらくして,医者の卵の到着。寒いのに上気しています。「遅れてすみません」。その後1時間半ほど話してくれました。時折,廊下まで笑い声が聞こえていました。
 終わった後の立ち話。
 「どうでしたか?」
 「ありがとうございました。とても参考になりました」
 「えー,ほんと? 私ばっかりしゃべって,ごめんね」
 「いいえ」
 「この人は高校時代も思ったことをどんどん言う人やった。校則のコートの色がおかしいと言ったことも」
 「あれはおかしかったですよ。だって黒と紺はいいけど,グレーがだめやとか」
 「だから,その通りだと思ったからすぐに変更したやんか」

 その後,進路部長も交えて近所で食事をしました。
 「まじめな子ですね。とってもいい感じ。ところで先生,私いろいろ言いましたけど,結局,小児科には進まないんですよ」
 「どうして?」
 「小児科って,内科中の内科なんです。診察して検査して総合的に診療計画を立てる。そういう仕事は,本当に頭のいい人がやるべきなんです。私はそんなに頭がよくないし。悩みました」
 開けっぴろげに話してくれる表情に,悩みを何とか乗り越えた人の静かな落ち着きを感じました。
 「小児科医が少ないと言いますが,私の同期でも結構多くの人がめざすんです。でもぶち当たる壁の一つが親です。学校でもモンスターとかと言うでしょ。病院でもそうなんですよ。その対応に参ってしまう人が出てしまう。でも私は平気なんです。まあそりゃあ自分の子どもが病気なら,親は必死になるわなって思えますし,そういう親と話すのも苦にならないですから」
 「子どもは好きやけど,でも内科には向いていないように思うし,一時は医者をやめようと思ったこともありました」
 「他にもいろいろあって,1年くらいは死んだみたいになっていました。そんな中で,研修でやった外科の手術が結構得意で。私,家庭科が好きだったんですよ。裁縫とか料理とか得意で。手先が器用なんです。自信もあります。まだまだ技術を上げる必要は当然ありますが,子どもを主として診る形成外科医になりたいと思うようになりました。それから生き返って,必死で勉強して,ここに行きたいと思う病院に採用されたので,来年からそっちへ行くことになりました。子どもが怪我したり,生れつき何か障害があったりして外科手術をしないといけないとなると,子どもももちろんですが,親御さんもすごく心配じゃないですか。そういうときに役に立てる医師になりたいって思います。やっと自分の役立つ場所が見つけられて」
 一気に話す彼女を見ていると,高校3年生の7月,雨の西京極球場(現在の「わかさスタジアム」)のスタンドで,傘もささず柵にしがみつき,ずぶぬれになって同級生の応援をしていた姿が浮かびました。あの子が,こんなに大きくなった。
 「そうか,自分の場所を見つけたか」
 「はい,やっと」
 そう言ってサラダをほおばる彼女に,
 「ところで,君さっきからずっと話してくれてるけど,後輩へのアドバイスも長かったし,そんなに話し続けて疲れない?」
 「疲れますよお。眼の下なんかクマができてるし」

 今年は元旦から多くの神社仏閣へお参りしました。数多く祈りました。すべての誠実ないのちに,この大地に,幸いがもたらされますよう。

                      36号(2012.01.10)……荒瀬克己

グー・チョキ・パー

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昨年12月27日の,夕日を受けた富士。
この日,中教審高等学校教育部会で堀川の取り組みを紹介しました。
いつもながら,意余って力足らず。
その帰り,トンネルを抜けるとほのかにオレンジ色のかかった富士。
あわてて撮りましたので少し傾いていますが,いつも,富士は実に大きい。
  冠雪の富士越えていく鳥もあるべし  宜礼



 新しい年が明けました。
 今年は年賀状を一枚も書けていません。
 この場を借りて,早々にお送りいただいた皆さまに非礼をお詫びします。
 昨年までのご厚誼に感謝するとともに,この後も変わらぬご鞭撻をお願いいたします。

 転勤してきて1年目の教員と新年のあいさつを交わしたら,「もう今日から生徒が学校に来ていますね」と驚きの感想。部活も初練習ですが,自習室や図書館や進路資料室にも生徒が三々五々いて,廊下ではヒサシブリーとかオメデトーとかと,ひとしきり賑やかでした。

 校長室にいると,開け放した扉の前を通る教員たちが入ってきて,オメデトウゴザイマス,今年モドウゾヨロシクオ願イシマス。私も立ち上がって,ヨロシクオ願イシマス。
 進路部長がやってきて,しばらく話しました。これからの堀川のことやキャリア教育のことなど。お昼時になったので一緒に食事に。帰ってきてもそのまま話が続いて,「では,そろそろ」と退室する彼を見送って廊下に出たら,3年生の女子生徒がふたり。オメデトウゴザイマス。オメデトウゴザイマス。
 進路部長に数学の質問に来て,待っていたようでした。では3分後に,と言われたふたりは横の階段を上がって,自習室に行くのかと思いきや,そのまま階段の途中に立ったまま。ふと,じゃんけんをして勝ったほうが勝ち方の数だけ段を上がるゲームを思い出しました。
 それを話すと,
 「やりましたよ,よく」
 「グーはグ・リ・コで3段,チョキはチ・ヨ・コ・レ・エ・トで6段,パーはパ・イ・ナ・ツ・プ・ルで6段やったよね」
 「チョキかパーで勝たないと損やね」
 「でもグーでこまめに稼ぐことも大事やし」
 一緒に盛り上がっていると,進路部長が,「それ,どれを出すのがよいかという問題が東大入試にありましたよ」。
 すぐに問題を見せてくれました。

 1992年前期の理系の6番。
 A,Bの二人がじゃんけんをして,グーで勝てば3歩,チョキで勝てば5歩,パーで勝てば6歩進む遊びをしている。1回のじゃんけんでAの進む歩数からBの進む歩数を引いた値の期待値をEとする。
(1)Bがグー,チョキ,パーを出す確率がすべて等しいとする。Aがどのような確率でグー,チョキ,パーを出すならば,Eの値は最大となるか。
(2)省略(こちらは難問)

 「ええー! チョキはチ・ヨ・コ・レ・エ・トで6つなんとちがうの?」
 「チョ・コ・レ・エ・ト?」
 「チ・ヨ・コ・レー・ト?」
 進路部長から教わった私が,「東京では数え方が違うということやね。では解説しよう。つまりこの場合,答えは全部チョキ。なぜかと言うと,チョキでグーに勝ったら,(と言ってしまって)あれ? どういうこと? わからなくなった」。
 すかさず進路部長,「あとは自分で考えろ,ということですね」。
 生徒たちが上を向いて思案顔。そして笑って,
 「あ,そうか!」
 明るい声で,
 「先生,今度じゃんけんゲームしませんか」
 「いいね,5階まで使ってやろう。でも手が見えるかなあ」
 「そうか,相当差がついたら無理ですね」
 見上げる仕草に,子どもの無邪気さ。

 ふたりの内のひとりは,夏に別の生徒と一緒に明かりを消した進路資料室に座っていたことがありました。何をしているのかと尋ねると,
 「節電中です」
 「暗いと目が悪くなりますよ」
 「心の節電です」
 「え?」
 「ちょっと,いろいろと,ありまして」
 「電気は節約しましょうということだけど,心は節電しないほうがいいよ」
 「はい」
 思いが交錯する時をいくつも重ねて,生徒たちは大きくなっていきます。

 今日は薄暗く,寒さは厳しく,風は強く,さっきは雪が斜めに降っていました。
 明日は自然科学部を中心とした,希望者によるSSHフィールドワーク。舞鶴にある京都大学フィールド科学教育センター(舞鶴水産実験所)での研修と舞鶴引揚記念館の見学があります。天候が心配です。
 「8時に出発なので,7時半ごろに最終判断をします。舞鶴に電話をしたら,いまはみぞれ。本格的な冬将軍ではないようです」。
 みんな,気をつけて。

 2012年が始まりました。しかし,2011年が終わったわけではありません。変わることなく,この国に住む人間の叡智と誠実が厳しく問われています。
 明日のことを考え,今日を生きていくことの,切ないほどの大切さ。
 生徒たちと,教職員と,そのことを胸に刻んで,日々を重ねていきたいと思います。

                      35号(2012.01.04)……荒瀬克己

どうぞよいお年を

今回は週刊月曜日になりました。


 年の瀬。雪が舞う,底冷えの。
 いろいろなことを考えることになった,この年が行こうとしています。
 こんなことをやった,こんなことができた,と言えればよいのですが,残念なことに,そうではない1年が過ぎようとしています。

 講演会が続きました。12月17日には宇宙船地球号の山本敏晴さん。12月21日にはJAXAの白石紀子さん。写真や生徒の感想は,HPの「学校の様子」でご覧ください。

 山本さんのお話でもっとも興味深かったのは,アフリカで医師(看護師)を育てるということ。自分がそこにいなければどうにもならないというのでは,本当の国際協力にはならない。次につなぐという強い意志に,雷に打たれたような衝撃を受けました。

 白石さんのお話では,H-IIBロケットチームの150人に,1人たりとも必要のない人はいないということ。一緒に取り組むだれもが役割をもっている。そんなあたりまえで大切なことを忘れかけていたかもしれない,という思いになり,ちょっと慌てました。
 さらには,H-IIAロケット6号機のこと。白石さんが初めて発射指揮のアシスタントをした6号機は,発射後に固体ロケットが分離せず,危機回避のため指令により破壊されました。徹底した原因究明。設計変更と全体計画の見直し。そして製造された7号機。
 スタッフは,この7号機をRTF1号機と呼んだそうです。リターン・トゥ・フライト。失敗を乗り越えて,再び飛ばしたい。実用可能な,信頼性の高いロケットを開発する。それが実現されて,H-IIAロケットプロジェクトは解散し,民間移管へ。
 「さびしかったけど,『もう開発の必要がない。運用が始まるんだ』と思いました」

 最近の生徒との会話から。
 進路の話をいろいろとしていて,
 「先生は,十八歳のときに教師になろうと思ってたんですか?」
 「いや,思ってはいなかった。単純な発想だけど,法学部に行って法曹になろうと思ってた。でも,入れなかったから,あきらめてしまったんやね,結局」
 「いま十八歳に戻ったとしたら,やっぱり法学部を受けますか?」
 「え? うーん,いや,受けないと思う。いまなら,哲学をやってみたいと思う。あれ,さっき君,哲学って言ってたよね」
 哲学をしたいと思う十八歳。「君,本当にするのか」と思いながら,少しうらやましく感じました。

 <探究>で『宮澤賢治の詩におけるローマ字表記の意味』という論文を書いた生徒。
 「君は賢治の詩でどういったところが好き?」
 「あの,『春と修羅』で,本当におれが見えるのか,というところが」
 「君もそうか。あそこはいいね。小澤俊郎という,筑摩の校本賢治全集の編集をした先生から,賢治の詩はよくわからないけど,わかる所だけを読んでも,とってもいいんだと言われたことがある。気が楽になりましたよ。そうか,全部わからなくっていいんだって」
  ……
  草地の黄金をすぎてくるもの
  ことなくひとのかたちのもの
  けらをまとひおれを見るその農夫
  ほんたうにおれが見えるのか
  まばゆい気圏の海のそこに
  (かなしみは青々ふかく)
  ZYPRESSEN しづかにゆすれ
  鳥はまた青ぞらを截る
  (まことのことばはここになく
   修羅のなみだはつちにふる)
  ……

 放送部の女子生徒四人が,昨日の日曜日にあった全国高校駅伝大会の開会式と閉会式の司会をしました。今日の毎日新聞に大きく紹介されて,きれいに並んで澄まし顔。
 開会式では,「名前を間違えないのはもちろん,選手たちが『がんばろう』と気合が入るような声で読み上げたいと思います」。
 閉会式では,「おめでとうという思いを込めて,笑顔で務めます」。
 男子の最後に帰還したコザ高校の最終走者に,スタンドから大きな拍手。
 結果は揺るぎない事実。されど,走り切ったすべての選手たちが当然受けるべきものは,あたたかい声援と心からの賞賛。

 明日はまた東京です。中教審の高等学校教育部会。雪が少し心配ですが。

 今年もまた,さまざまな方々から,そして生徒から,力をもらいました。
 新しい年を,希望を失うことなく迎えたいと思います。
 みなさん,どうぞよいお年を。

                      34号(2011.12.26)……荒瀬克己

ひまわり

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 週間火曜日(水曜日?)を読んでくださった方から,丁寧なメールやご連絡をいただいています。心から感謝します。
 きちんとご返事ができていないのを心苦しく思っています。申し訳ありません。


 震災後,生徒会が「京都堀川ライオンズクラブ」と「堀川と堀川通りを美しくする会」のお世話になり,仙台市立仙台高校に激励のメッセージを送りました。天井から床までを超える長さの懸垂幕で,脇に「つらいことがあったら声に出して吐き出そう。みんなが味方」とあって「心はひとつ」と大書されています。言葉は生徒から募集したものを生徒会執行部がまとめました。
 先日,修学旅行で京都にやってきた仙台高校の生徒たちの訪問を受けました。飾られた懸垂幕の写真と,袋にいっぱいのひまわりの種を届けてくれました。応対した生徒会担当によると,付添いの先生が,ひまわりの種は放射線量を計測してあるので大丈夫だと説明なさったそうです。
 長さ1センチ,幅5ミリほどの黒い無数の種。この一粒ずつが,希望の種になることを祈ります。

 過日,高校の担任の古希を祝う会がありました。先生は,在職中に8回の卒業生を出しておられます。3年ごとに8回。最年長は私たちで,50代から30代までの卒業生が集まりました。
 その中に,毎日新聞の編集委員をしている後輩がいて,「赤ちゃんへの手紙」について教えてくれました。「未来への手紙プロジェクト」というそうです。
 送られてきた資料によると,「生まれてくる,あるいはすでに生まれた赤ちゃんに手紙を書こうという運動です。赤ちゃんが生まれたときの感動や喜びを文字にして残し,大きくなった赤ちゃん,つまり子どもに伝えようとする試みです。同時に児童虐待が5万件を超す今の時代,親が年月を経た自分自身に伝えるメッセージという意味も込めています。当たり前ですが,赤ちゃんは自分が生まれたときのことを書き残せませんので,ぜひ伝えてあげてください。自分が祝福されて生まれてきたという事実を,反抗期を迎えたときにも確認させてあげてください。そして親自身も将来,そのときの感動を思い出すことで子育ての悩みを緩和できるように願っています。ということで『未来への手紙』なのです。赤ちゃんが生まれたときには手紙を書く,ということが社会の習慣になることを目指しています」。
 春の初めに未曾有の災害があった今年,だれもが自分たち自身と自分たちの周りを見つめ,大切にしようとしています。7月から始まったこの運動にはスポンサーもつき,FMの放送や毎日新聞の掲載もあって,徐々に動き出しているようです。
 よいヒントをもらった気になりました。どこかで生徒たちに伝えたいと思っています。

 四条烏丸近くのすし屋に行ったら,卒業生が一人で三人の子どもを連れて来ていました。この店は,彼の同級生が夫と二人で切り盛りしています。
 「先生,ご無沙汰しています」
 「こちらこそ」
 「今日はヨメサンが外出しているもので」
 「何年生?」
 「……」
 女の子は恥ずかしそう。
 そこへいちばん小さな子が入ってきて,
 「みっつ」
 「そう。きみは,なんねんせい?」
 「1ねん。ぼくサッカーやってるねん」
 「へえ,そうか。いいなあ」
 「つよいで。レイソルとやったら,かつもん」
 「すごいなあ」
 「『あかつき』や」
 「そうか『あかつき』か」
 「しってるの?」
 「しってるよ。『あかつき』はつよいからなあ」
 「あのなあ,こうこうって,ちこく3かいで,1かいけっせきやろ」
 「え,なんでしってるの?」
 「しってるで。ちこく3かいで,1かいけっせきや」
 卒業生が割って入って,
 「なんで,おまえそんなこと知ってるんや?」
 卒業生は,もう44歳になったでしょうか。三年生のときに担任をしました。なかなかのやんちゃ坊主で,欠席も遅刻も周到に計算していました。彼はいま,京都市内に数軒の焼肉レストランをもつ実業家。おいしいという評判の店です。
 「先生,このままずっと堀川ですか?」
 「さあ。自分で決められへんからね」
 「娘はいま三年生で,あと6年で高校なんですが,そのとき堀川に,いはりますか?」
 「ははは。それは無理やねえ」
 仕事の話になって,まだ店を増やすのかと尋ねると,
 「ぼくは今のままで十分なんですが,若い社員の気持ちを考えると,いろいろとチャンスを広げておかないといけないかなと思いますね」
 「なるほど,トップは大変やね」
 話す間も,まとわりついてくる息子と娘たちに話しかけ,あいづちを打ち,食事をとらせる姿が板についていて微笑ましい。
 「いいおとうさんやね」
 「そうですか。ぼくは趣味もないし,子どもと一緒に遊んでいられたら……」
 幸せ,という言葉をビールと一緒に飲みこんだ横顔が頼もしく見えました。

 廊下を歩いていたら,一人の教員が話しかけてきました。
 「少し話していいですか」
 「いいですよ。どうぞ」
 「学校の前で乳母車を押す母親を見ました」
 「まさかぶつかったんじゃないでしょうね」
 「先生。それは大丈夫です」
 「よかった。失礼しました」
 「母親の両側に小さな姉妹が乳母車をつかんで歩いていました」
 街路樹のイチョウが葉を落とした,北風の吹く堀川通りを歩く母親と幼子たちを想像して,ふと高校時代に読んだ千家元麿の詩を思い出しました。
 「そしたら,下のほうの子がつまずいて転んだんです。すると反対側にいた上の子が,母親の後ろを回って妹のところに行って,助け起こして,手を握って,その手を大きく振りながら,大きな声で歌いだしたんです」
 ああ,そんな光景を見たのか。熱いものを感じます。
 「感動しました。母親は何も言わずに,その親子は御池通りのほうに歩いていきました」
 話してくれた教員の目は光っていました。笑うと,その光が頬を伝いました。
 彼はうれしいときにうれしい顔をする,素直な人です。
 お姉ちゃんもまた,そのようにしてもらったことがあったのでしょう。たぶん母親に。何度もあったのかもしれません。だから自然に振舞えたのでしょう。
 子どもたちは,希望です。

 今日で平常授業が終わりました。
 2年生のアセンブリーがあり,実に普通のことを話しました。我ながらあきれるくらい普通のことです。しかし,生徒たちはじっと見つめて聞いてくれていました。ありがたいことです。内心はいざ知らず,と言うのを控えなければならないと思うほどの,まなざしの素直さ。
 明日からは冬休み。ですが,まだいろいろとあるのが高校生の厳しい現実です。
 からだに気をつけて。しっかりと,目の前のことを。もちろん,遠くを見つめつつ。
 ひまわりの花言葉は,あこがれ。

 明日はいよいよ,JAXAの白石紀子さんの日です。

                      33号(2011.12.20)……荒瀬克己

“May I help you?”を日本語で

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月蝕の翌々日。出張からの帰りに地下鉄から出てきてふと見たら,東の空に雲をまとって月が昇っていました。にじんだように見えるのは,私の技術のつたなさゆえです。



 「耳が聞こえないと何に困ると思いますか?」
 何人かの教職員が答えます。
 「それも近いけど,聴覚に障害があると困るのはコミュニケーションです。一方,私のように目が見えないと,情報が入って来ません。人間が生きていくための情報は80パーセントぐらいが目によります。文字情報が入らないのは,移動も含めて本当に困ります」

 「視覚障害者と話すときは,うなずいてもわかりませんよ。『はい』とか『いいえ』とかとはっきり言ってください」

 「自分が見えていたころは,目の不自由な人への接し方がわからず,かわいそうな人とか不幸な人とかとしか思えませんでした」

 「知らなかったら考えられない。ぜひ知ってください」

 「網膜色素変性症が悪化して,私は40歳で見えなくなりました。自分の手を目に近づけてまだ見えているという状態がだんだんと見えなくなっていった。いまどんな感じかというと,全部灰色です。目が覚めても,朝か夜かはわからない。全部灰色。それまで勤めていた児童養護施設を退職し,京都ライトハウスで中途失明者生活訓練を受けました」

 松永信也(まつながのぶや)さんのお話に引き込まれました。松永さんは,京都府視覚障害者協会副会長,京都市社会福祉審議会委員で,『風になってください』(2004年,法蔵館),『「見えない」世界で生きること』(2008年,角川学芸)という本も出しておられます。管理職研修でお話を聞いた副校長と教頭が,ぜひ校内研修にということで,先週あった教職員人権研修会にお招きしました。

 「駅のプラットホームを歩くのは怖い。見えないから階段の場所がわからない。横断歩道も,音が鳴っても上からで,まっすぐには歩きづらい。音が鳴らない横断歩道では,車の音で見当をつけて歩いています」

 「電車の中でも,バスの中でも,空いている席を教えてください。目をつぶって立ってみたらわかるはずですが,バランスをとるのにとても疲れますし,危ないです」

 「どうか声をかけてください。白い杖を持っている人に。『お手伝いしましょうか』と。数少ないけれど盲導犬を連れている人にも。盲導犬は万能ではない。コンビニへ行けと言っても連れて行ってはくれません」

 「私も見えていたときには声をかけられませんでした。断られたらどうしようと思ったから。声をかけたのに,もしも断る人がいたら,どうか『お気をつけて』と言ってください」

 副校長は管理職研修で,「かけてくれる声は英語のほうが多い」と聞いたそうです。講演の中でも松永さんは,駅のプラットホームに安全柵をつけることも大事だが,人の声が聞きたいとおっしゃっていました。
 “May I help you?”この言葉を,ぜひ日本語で。

 「あるとき,生まれつき見えない女性が私に言いました。『松永さんは何色が好き?』 私は見えていたから色がわかるけど,この人にはわからないはずだから,どう答えたらよいかとためらっていると,『あのね,私の好きな色はピンク。小さいときに服を買ってもらって,みんなが可愛い,可愛いって言ってくれて,その色がピンクって聞いたから,ピンクがいちばん好き。だから,私の持ち物はピンクが多いんや』。その女性のうれしそうな声」

 「花見に行くんですよ。花びらに手を触れさせてもらって,ああ桜や,柔らかい花びらやって,うれしくて」

 「見えなくなるのはつらいけど,仕方がないとあきらめられる。あきらめるときは見えないことに向かい合うときです。見えないということを受けとめる。しかし,社会に参加できないのはとても悲しい」

 昨日は東京に行っていました。東京駅から丸ノ内線で霞が関へ。丸ノ内線はワンマン運転しているためか,早くに安全柵が設置されたように思います。
 東京の地下鉄は案内表示が行き届いています。改札口までの距離表示があちらこちらに。案内表示も途切れることなく,目的の場所まで導いてくれます。少し前になりますが,駅や地下通路に,「立ち止まって見ていただけないのが誇りです」といったようなポスターがありました。まさにそのとおり。一瞬で視覚に訴える見事さ。立ち止まらずに歩けます。このことは掛け値なしにすばらしい。
 東京の生活に慣れた人が京都に来ると困るかも知れません。東京の人のみならず,地下鉄京都駅で降りて南口から近鉄京都駅に行こうとして,迷子になった人がいます。これは相当に「改善の余地あり」です。
 東京でも京都でも,駅や町の表示はとても重要ですが,もちろんそれだけでは十分ではありません。それを補完する,いや,町を人間の住む場所にする,そのためには,人間の心や言葉が欠かせません。
 松永さんのお話を聞いていろいろと思いがめぐりました。

 人があたりまえに生きるというのはどういうことか。
 そのために,社会はどうあることが求められるのか。
 そこで人はどうすることが求められるのか。

 東京駅の照明がずいぶん明るくなりました。まだすべてが点いているわけではありませんが,最近のことでしょうか,9か月前に比べるといろいろな光が戻ってきました。
 これが被災地の復旧に比例しているのならば,と思います。

 今朝5時過ぎ,外に出たら西の空のまだ高いところに皓々(こうこう)と冬の月。北の空を見ましたが,月光が空に映えて星は見えませんでした。
 11月ごろには,ひっくり返った北斗七星がありました。そこからこぼれ落ちたような,小さなしずく。
 北極星。
 この星を見ると,背筋がしゃんとするような気がします。

                      32号(2011.12.13)……荒瀬克己

とっておき

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2011年1月22日,宇宙ステーション補給機「こうのとり」2号機(HTV2)を搭載したH-IIBロケット2号機が,種子島宇宙センターから打ち上げられました。(写真はJAXAホームページから)




 週刊火曜日がまた遅配しました。
 申し訳ありません。
 その代わりと言ってはなんですが,とっておきのお知らせです。

 12月21日(水)に,白石紀子さんをお迎えしてコミュニティカレッジ講演会を開きます。
 白石紀子さんは,独立行政法人宇宙航空研究開発機構(JAXA)のロケット発射指揮者で,写真のH-IIBロケット2号機の発射は,白石さんの指揮によるものです。
 2009年9月に初めて打ち上げられたH-IIB ロケット試験機(1号機)は,国際宇宙ステーション(ISS)へ補給物資を届けるために開発された無人の宇宙船・HTV(こうのとり)を搭載していました。その発射の指揮にあたったのも白石さんです。

 私は,2009年の発射に際して放送されたNHKニュースの特集で,白石さんを知りました。
 JAXA初の女性発射指揮者。その指が,打ち上げ270秒前の「自動カウントダウンシーケンス開始」の発令ボタンを押す。数少ない発射可能なタイミングに向けて,さまざまなシーンで起こるトラブルを克服してきた150人のスタッフの期待が,その指にかかる。そのプレッシャーの中で厳しく求められる冷静で的確な判断と行動。そして,それをやってのけたあとの笑顔。
 感動しました。

 その白石さんが,12月21日に堀川高校で話してくださいます。
 どうぞお越しください。
 詳しくは,堀川高校HPの「コミュニティカレッジ」から「本年度開催予定」にお進みください。http://www.edu.city.kyoto.jp/hp/horikawa/commun...

 以前,的川泰宣(まとがわやすのり)さんにお会いしたことがあります。的川さんはJAXAの技術参与で名誉教授です。教育にも熱心で,「宇宙教育の父」と呼ばれている,とてもすてきな方です。横浜でシンポジウムがあって,そこでご一緒したのですが,その前日はロケットの発射で種子島におられたということでした。
 控室で話していたときに「いやあ,きれいな,いい発射でした」と穏やかな笑顔でおっしゃいますので,「どんな発射が『きれい』とか『いい』とかなんですか」とお尋ねすると,「ははは,そりゃあ成功したらみんなですよ。それで,島の漁師さんたちと一緒に祝賀会でしたよ」と本当にうれしそうでした。
 ちなみに,その会場にノーベル化学賞の田中耕一さんが来ておられて,終了後にお話しさせていただきましたが,それはさておき,ロケットの発射というものが,どれほどの周到な準備が必要で,どれほどの緊張が伴うものかということを,初めて想像しました。それまでロケット発射の成功や不成功は,ニュースの中の出来事でしかありませんでした。
 目の前にいる人が関わっていて,そのほかにもいっぱいの関係者がいて,おびただしい時間と労力が注がれ,指示が飛び交い判断が重ねられ,地球の位置も天候も深く関係した,その先にロケットがあって,何もかもすべてがぴったり交わったとき,その巨体が閃光と轟音と白煙の中を上昇する。
 アメリカのフロリダ州にあるNASAのケネディ宇宙センターに行ったときは確かに感動しました。しかし,実際にロケットに関わっている人と話すことの感動がまったく異なるものであることを,的川さんにお会いして知りました。

 堀川高校の数学科の教員に,井尻達也という人がいます。実は,彼はJAXAに勤め,国際宇宙ステーションの日本実験棟「きぼう」の製作に深く関わっていましたが,自分の経験したことを高校生に伝えたいということで,教員を志しました。周囲の反対も強かったようですが,彼の意志はそれ以上に固く,惜しまれつつJAXAを後にして堀川にやって来ました。
 堀川の教員たちはユニークな人が多くて,一緒に仕事をしていて実に楽しいのですが,彼もまた興味深い人物です。彼の話は何時間聴いていても飽きません。いろいろなことを教えてくれました。その話だけで何万字も書けるほど。
 「自分で作ったものなのに,不具合が生じたからといって,宇宙へ直しに行くことができません。だから,不具合が生じないようにということが第一ですが,不具合の起こる可能性をゼロにすることはできませんから。そういう場合は,宇宙飛行士が直せるようにしておく必要があります」。
 そうか,と思いました。彼の言葉は当然と言えば当然ですが,それを,「自分で育てた生徒なのに,うまくいかないことがあったからといって,その場へ助けに行くことができません。だから,うまくいかないことがないようにということが第一ですが,失敗の起こる可能性をゼロにすることはできませんから,そういう場合は,本人自身が乗り越えられるようにしておく必要があります」と置き換えてみるとどうでしょうか。私たちは当然のことができているか,ということを問われているように思いました。
 さて,彼に会えたことでもまた,宇宙への思いが深まりました。ただ,しばらく前に子どもさんが生まれて,なかなか忙しいのでゆっくりと話す時間のないのが残念です。彼に数学を習っている生徒たちをうらやましく思います。
 2年前に,白石紀子さんのことを話したら,すぐにメールを送ってくれました。白石さんからの返信は,まことに誠実な内容でした。その白石さんに会えて,直接お話を伺える。とても幸せです。

 私は小学生のころ,大きくなったらロケットを作りたいと思っていました。少年雑誌の付録か何かで読んだ,アメリカの宇宙ロケット開発の指導者であるブラウン博士の話に引き込まれてしまったからです。ブラウン博士については後に伝記を読んで,いろいろと考えさせられましたが,それはともかく,博士は少年時代に,火薬を詰めたロケットを作って飛ばすのに夢中だったそうです。あるとき,点火したあとロケットが倒れてしまって,近所の鶏小屋だったか牛小屋だったかに突っ込んで,大騒ぎになってひどく叱られたというようなエピソードが載っていました。
 これは子どもにとって,とても魅力的な話でした。母親が買い物に出たのを見計らって,すぐに家にあった花火の火薬を取り出し,ついでにマッチの頭のリンもいっぱい集めて,新聞紙で作ったロケット状の筒にそれらを詰め込み,残念ながら近所に鶏小屋も牛小屋もなかったので,うちの犬小屋に狙いをつけて点火したところ,わがロケットは,ブシュッ,ブワッと音を立てて,犬小屋をかすめて飛んで行きました。私は大変満足しました。犬小屋から何食わぬ顔で犬が出てきたので,思い切りなでてやりました。
 しかし,しばらくして買い物から帰った母が燃えカスを見つけたのは誤算でした。問いただされ,顛末を白状させられ,こっぴどく叱られ,その日のおやつをもらうことはできませんでした。ブラウン博士と同じく私もひどく叱られましたが,その後ロケット開発に従事することにはなりませんでした。
<子どもたちへの注意> 火遊びは危険です。おとなの人がいないところでは,絶対にしないように。

 前回の「本番」で曲の紹介が間違っていましたので,密かに訂正しました。申し訳ありません。
 「バッハ,パルティータ2番ハ短調よりシンフォニア」と書くべきところ,「ハ短調」が「ハ単調」となっていました。記事を読んだピアニストに指摘してもらいました。
 「本番」は消しゴムのない世界。自分の甘さを恥じます。

 白石さんもまた,消しゴムのない世界に生きる方。
 どんなお話を伺えるか,本当に楽しみです。

                      31号(2011.12.07)……荒瀬克己

本番

 18日に開催した第12回教育研究大会には,北海道から沖縄まで,200名を超える方にお越しいただきました。ご参加いただいたみなさんとご協力いただいた方々に,心からお礼申し上げます。
 今回は全学年のすべての授業を公開しました。
 一つ心配がありました。生徒が居眠りをしないだろうか?
 「生徒諸君,寝るな!」と放送しようかと研究開発部長に言ったら,笑われました。
 以前,秋田高校にお邪魔したときのこと。26教室も回ったのに,誰ひとり居眠りをする生徒がいません。驚きました。そのことをアセンブリで話しました。秋田高校と交流する生徒を募集したあと,廊下で会った生徒に「行かないか」と声をかけたら,「居眠りのできない学校には行きたくありません」と言われてしまいました。あらら。感心してしまいました。それはそれで,タイシタモノです。
 さて,研究大会当日。教室を回りましたが,心配は杞憂でした。寝ていた生徒も少しいましたが,寝方が上品でした。それで喜んではいけませんが,安心しました。
 25日に四校会があって,膳所高校と奈良高校の先生方と一緒に,姫路西高校に伺い授業を見せていただきました。それぞれが実に上質の授業でした。そして,まことに数少なくはありましたが,寝ている生徒がいました。失礼ながら内心ホッとしました。
 研究大会では多くのご指摘を頂戴しました。現在,研究開発部がまとめています。いただいたご指導を今後に生かすべく精進してまいります。
 本当にありがとうございました。

 22日の午後4時45分。
 ピアノは小ホールの中央にあって,少し落とした照明を受けて黒く光っていました。
 後ろと両側には暗幕。
 この小振りのグランドピアノは,そこにあるだけではただのモノでしかありません。これが楽器になるには,弾き手という条件が加えられなければならない,などというあたりまえのことを考えていました。

 客席では,演奏を待つというのには少し不相応な,しかし高校生にはありがちな,にぎやかで生意気な会話も飛び交っていました。
 「このリサイタルのために,職員会議がなくなったそうやで」
 「へえ,そうなん」 
 「いまごろ,あいつ幕の向こうで着替えてるんやで」
 「このピアノって調律してあるんかなあ」

 別に言わなくてもよかったのですが,
 「職員会議じゃなくて,2年生の担任会がなくなったんですよ」
 「そうですか。その割には先生が少ないですね」
 「ピアノは,今日のために調律したそうです」
 「そうなんですか」

 私は中央より上手側の席にいました。ここからだと手の動きが見えないなと思い,席を替わることも考えましたが,夏にコンクールに行ったときと同じ角度であったので,あのときのぞくぞくする感じを再び味わえるかと思い返して,そのまま座っていました。

 ピアニストの登場。
 感謝の言葉。曲の解説。椅子の位置を決めて,何の合図もなく手が鍵盤に向かったかと思うと,ピアノは見事な楽器に変貌し,音響のよくない小ホールは,ピアノとピアニストの音楽によって充たされました。
 時折の間。静寂をも音楽に変え。余白の美のような。
  バッハ,パルティータ2番ハ短調よりシンフォニア。
  リスト,B-A-C-Hによる幻想曲とフーガ。
  ショパン,練習曲作品25-1。
  ショパン,スケルツォ第2番作品31。

 最後のショパンはコンクールで聴いた曲でした。
 アンコールが2曲。圧巻の1時間でした。

 明るくなった会場で,2年生の生徒と話しました。
 「どうでした?」
 「すごかったです」
 「そうでしたね。言ってたとおりに,ピアノが鳴っているのか,弾き手が一緒に鳴っているのか,というような感じだったでしょ」
 「確かに」

 開演前とは違って,洗われたような,雷にでも打たれたような,神妙な表情をしていました。その場にいた誰もが興奮気味で,しかもしばらくすると,なぜか打ち解けた雰囲気になっていました。一つの出会いが何かを動かしたのでしょうか。
 上気した生徒が,目を輝かせて話しかけてきました。
 「本当にすごかったですね」

 ピアニストと話しました。
 少し意地悪な質問。
 「どの曲がいちばん好きですか?」
 「一番となると,ぼくはやはり,コンクールでも弾いたショパンですね」
 「知り合いの声楽家が,歌う曲はすべて好きになるって言ったけど,どう思う?」
 「それ,まったくそのとおりですね。いちばん好きなのはと聞かれたからショパンと言いましたが,好きでない曲は弾けないですから」

 握手をすると,普通の手にしか思えません。
 演奏の終わったピアニストは,2年生の男の子に戻っていました。

                      30号(2011.11.29)……荒瀬克己

ケヤキ

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グラウンドの傍らに立つケヤキ。
左は今日の午前10時35分に撮影。すでに上部は相当伐られています。
右は午後1時15分に撮影。切り口の白さが目立っていました。



 「ケヤキが茂りすぎて,グラウンドから時計が見えないということなので……」
 「動けば見えるでしょう。北側のクラブハウスにも時計はあります」
 「……」
 「だいたい時計が見えないというなら,時計を移せばいい」
 「葉が密集しているので,そのままにしておくと木が弱るとも言われまして……」
 「……」

 結局,枝を落とすことを承知しました。
 以前,堀川北門側のユリノキが伐られたことがありました。
 それ以来,どの木も切ってはいけないと言いました。その結果,木々は伸び,夏の光の中で誇らしげに葉を輝かせるようになっていたのです。
 しかし木が弱ると言われては仕方がありません。

 そして今日,ケヤキの枝がはらわれました。
 欅という文字のままに,空に向けて広がっていた無数の枝葉が伐られ,黒い幹と枝だけになりました。
 青い空の下,冷たい風が裸のケヤキを吹き抜けていきます。

 ひと月ほど前の「ココロザシ」で,取っておきの写真だとして今年の初夏に撮ってもらったクスノキを紹介しました。知恵を象徴するクスノキは,横に広がるとともに空に伸びていこうとしています。
 このクスノキは3本あるように見えますが2本で,1本が根元近くから枝分かれしています。これがなぜ「とっておきの写真」であるかというと,この木こそが旧校舎からの唯一の樹木であるからです。
 旧校舎から現在の校舎に移ったのは平成11(1999)年春。移転直前まで旧校舎を使っていましたから,しばらくの間,新旧両方の校舎がありました。
 堀川通りから見ると,立派な玄関のあるベージュ色の旧校舎,図書館や会議室のあるA館,生物や地学の実験室と講義室のあるB館が建ち,A館とB館の奥に真新しい校舎の上部がのぞいていました。
 クスノキは旧校舎西南の塀際の,A館との間に立っていました。その位置は,高等女学校の旧正門の北側にあたります。門は石柱でした。石の門は旧校舎が解体されるまであって,新校舎でも使う予定でいたのですが,調べるとひび割れが激しく危険であるということで断念しました。
 クスノキの立っていた場所は校舎と塀に画された狭いところで,枝はいつも幹近くで伐られていました。移す際,そんなことをしないでよいところに植えようと考えて,現在の場所に決めました。
 植え替えて12年,クスノキは枝を広げ,下に立つとさやさやと葉ずれが聴こえます。ただ,旧校舎時代から頻繁に伐られたためか,幹がいびつに曲がったまま大きくなっています。
 四条堀川の北東角に,やはりクスノキがあります。こちらの幹はまっすぐで,木の形は堀川のクスノキよりもきれいです。京都大学の時計台前にあるクスノキも実に立派です。
 しかし,まことに手前味噌で身びいきではありますが,たとえ形はいびつでも,私は堀川のクスノキの伸びて広がる姿が大好きです。伐られても,伐られても,いのちをつなぎ,新しい場所に移されても根付いて成長し続けてくれていることに畏敬と感謝の念をもちます。

 旧校舎には,北翼と西翼に囲まれて,狭いけれどきれいな中庭がありました。そこに伸びやかなソメイヨシノが数本植えられていて,春の花から初夏の青葉,そして秋には紅葉を楽しみました。
 平成11年3月末,新校舎に移転したあと,解体を待つ旧校舎の中庭で最後の花見をしました。最後となったのは,ソメイヨシノが移植できないと判断されたからです。
 薄曇りの昼下がり,入れ替わり立ち替わり教職員が花を愛でました。みんなの心中には新しいことが始まる高揚もあったはずですが,むしろ一つの時代が終わる寂寥のほうが大きくて,あまり華やいだ気分にはなれないようでした。
 旧校舎に別れを告げるという感傷の一方で,新校舎に移る一年生と二年生の学習や高校生活をどのように支えるかという仕事とともに,新しく入ってくる新入生をどのように迎えるかという未知の仕事があります。
 私も,感傷よりも,それを覆う不安が重かったのを覚えています。それまでの数々の苦労や,行き違いや,受けた批判や,体制を変更することの困難さを改めて思い返していました。しかも,工事用の塀の向こうに立つ新校舎でのこれからに,なんらかの約束がなされているわけではありません。
 最後の花見は,言葉数少なにして終わりました。
 その後ソメイヨシノは伐採されました。旧校舎の跡地は1年がかりで現在のグラウンドになりました。そのグラウンドも人工芝の耐用年数が超え,今年度中に全面改修が行われます。
 花見をしたのは3面あるテニスコートの中央コートの東側辺りで,時々北館の階段の踊り場からその場所を眺めて思い出すことがあります。


 今日は放課後に5階の小ホールでピアノリサイタルがありました。8月に「ピアノ」を載せましたが,そのときの生徒が4曲を弾きました。バッハとリストとショパンが2曲。
 いまは,すごいと言うのがやっとです。
 あのときも書きましたが,人がピアノを弾くのか,ピアノが人を弾くのか,ピアノが鳴っているのか,人が鳴っているのか……あのときに感じた眩暈を,もう一度味わいました。
 先週末の研究大会のこととともに,次回にお届けします。

                      29号(2011.11.22)……荒瀬克己

子どもたちが育つために

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那覇港の一角。フェリーの向こうに見える白い建物や平坦な部分は米軍施設。日章旗とともに星条旗が翻っていました。



 「週刊火曜日」のはずが水曜日になってしまいました。どうもいけません。

 先週土曜日,琉球大学附属中学校の研究集会に伺いました。附属中学校は琉球大学のキャンパスにあります。琉球大学はずいぶん以前に一度行ったことがあるのですが,あんなに広いとは知りませんでした。
 授業をいくつか拝見し,研究協議も拝聴し,午後の出番に備えました。まとまらない話でしたが,熱心に聴いていただいたおかげで,なんとか務めを終えることができました。夜には慰労会があり,お招きを受けて参加しました。附属中学校の先生方のエネルギッシュなこと。昼間も夜も,本当に楽しい時間を頂戴しました。勉強になりました。心から感謝します。
 1年生の男子生徒が面白い作文を書いていました。数学の先生が授業中に何度「な」という確認の言葉を使ったかを記録し,それが時間の経過とともに変化していったのを分析したものです。「これはこういうことだ。な」,「わかったよね。な」といった「な」です。
 5月ごろには数十回発しておられたのが9月になると十数回になったそうです。それは,入学してきたばかりの自分たちに何度も確認する必要があったのが,しだいにその必要がなくなったので回数が減ったのではないか,という分析でした。
 作文コンクールの審査員になったつもりでクラスメートの作文を評価しようという授業で,いくつかの視点が挙げられていて,その中に,「事実や具体例が示されてわかりやすいか」というものがありました。この視点から選ばれた作文が,「な」の分析です。
 慰労会で,その数学の先生にお会いしました。若くて快活な方です。「生徒が先生の『な』を分析していましたが,実際はどうなのでしょうか」と尋ねると,「いやあ,生徒の言ったとおりですよ」と笑ってお答えになりました。
 その様子から,生徒と教員の間に生まれている信頼を感じました。

 昨日,学校の廊下で若い英語の教員とすれ違ったときに声をかけられました。
 「私,小学校の時に肥後守を使っていました。学校で全員が持たされたんです。砥いだりすることはありませんでしたが」
 「え,どこの小学校?」
 「向日市の……」
 京都の小学校でもそういう学校がありました。知らないことだらけです。
 その話を職員室でしていたら,化学の若い教員が,「ぼくも使ってましたよ」。
 彼の場合は肥後守ではなくて鞘に入った小刀でした。それで工作をしたとのこと。はさみを振り回す子どもがいたそうですが,小刀を振り回すことはなかった,と言っていました。
 英語の教員がまっすぐにこちらを見て,
 「刃物って使うときに緊張するというか,とっても怖かったのを覚えています」。

 保護者の方からメールをいただきました。
……時々,ピアノのお稽古の帰り道のことを思い出します。子どもの足で歩いて20〜30分かかるところへ習いに行っていました。冬の寒い日,先生の家を辞して歩き始めると,ほどなく日が暮れ始め,手足の先から寒さがしみ込んできます。でも,歩かなければ家には帰れない。ポツリポツリついている人家の灯りを見れば一層心細く,泣きそうになりながらも,家までてくてく歩きました。歩かなければ家には帰りつけなかったからです。
 そうして玄関に立ち,家の明かりの中に飛び込んだとき,むっとした蒸気の中で,台所の母が「おかえり」と言ってくれました。そのとき安心感と嬉しさは他に代えがたい喜びでした。でも,母は,私の心細さと寒さを知っていても,そんな贅沢は許されるわけもなく,「送迎」などは絶対してくれませんでした。
 国民全体の生活レベルが上がり,生活そのものの質の変化も加わり,世の中の危険が犯罪の増加や常識を超えたものとなり,現在の子どもたちを守り育てる環境は,大事に育てるあまり,実はその思いとは逆に,もしかしたら,子どもたちを知恵と心の貧しい者につくり上げているのかもしれません。私の子どもたちも然りです。……

 「でも,歩かなければ家には帰れない」という言葉が印象的です。寒さや心細さの中で,それでも「歩いた」という経験を重ねることによって,人は深く広くなるのでしょうか。
 「泣きそうになりながらも,家までてくてく歩きました。歩かなければ家には帰りつけなかったからです。」
 「歩く」理由が,歩かなければ家には帰りつけないからだ,ということにもまた心打たれました。冬の夕暮れを足早に,けなげに歩く少女を思いました。「家」は帰らなければならないところというよりも,なんとしても帰りたいところであり,そこには温かさと安らぎと確かさがある。待っていてくれる人がいる。

 そういう場所があってこそ,安全と安心と愛情に支えられてこそ,危険と不安と試練が子どもを大きくするのでしょう。そのことを思うにつけ,現実に気持ちがふさぎます。
 「大事に育てるあまり,実はその思いとは逆に,もしかしたら,子どもたちを知恵と心の貧しい者につくり上げているのかもしれません」。
 その思いを持ちつつ,私たちはどうすればよいのか。子どもたちを取り巻く現実がよりよいものになるために,私たちは何をすればよいのか。突き付けられている問いは重く,容易に解を見つけることはできません。しかし,その問いに向き合っていくのが私たちおとなの務めです。

 18日金曜日は堀川高校の第12回教育研究大会です。生徒との信頼や成長過程の体験の重視を前提に,公開授業と各教科や探究,学校改革の分科会で,教育の「いま」と「これから」について,全国のみなさんとご一緒に勉強したいと思います。

                      28号(2011.11.16)……荒瀬克己

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行事予定
2/3 一斉清掃
2/4 PST(9:30〜16:00)
1年:学研ハイレベル模試,2年:進研プロシード模試
2/6 スクールカウンセラー来校日
2/7 適応マラソン大会(雨天時:金曜授業,一斉清掃)
2/8 3年I類追試
京都市立堀川高等学校
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