最新更新日:2024/04/26 | |
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未定稿下は玄関前に立つ,米田貞一郎元校長先生の「絆」の石碑。校舎が写り込んでいます。堀川をこよなく愛してくださる米田先生の碑に,生徒はいつも見守られています。 昨日の日曜日,堀川の教員の結婚式に行きました。会場は新装された大阪駅の上のビルの28階。式場に入ると,正面と左側が全面ガラス。天井が高くて,とてもすがすがしくて,新しい生活を始めようとするさわやかな二人にふさわしい場所だと思いました。 新婦が父親に伴われて入場し新郎の前に近づいたとき,正面のガラスの壁の,はるか向こうの大きな白い雲を背景に,小さな飛行機がゆっくりと飛ぶのが見えました。 雲の上には澄んだ青い空。 式が終わって退場する二人に,参列していた家族や同僚や友人たちに交じって生徒たちも花びらをまきました。新婦が担任をしている2年生の生徒たちです。披露宴には,彼女が顧問をしている男子バレーボール部の生徒たちが突然入場して,やや照れながら一言ずつお祝いの言葉を贈っていました。 横一列に並んだ生徒たちのいちばん端っこから少し離れて,ドアのすぐ前に,かれらと一緒に来た男性の顧問が大きな体を小さくするようにして立っています。彼は,40号「春一番?」で紹介した,モロヘイヤと素麺の教員です。生徒が話すのをにこにこして見やり,一言もしゃべらず,まったく目立ちません。クロコに徹しています。見事でした。 さて,「校長室から」は45号までお届けしたいと思っています。 今回は,以前に書きかけて途中でやめたものをいくつかご紹介します。 ………………………… 2003年だったか,アトリウムにフーコーの振り子を設置しようとしていたとき,4期生から「抗議文」を受けとりました。 「学校が生徒のためにいろいろと考えてくださっているのは承知しています。しかし,アトリウムはぼくたちの場所です。そこに半永久的に何かをつくろうとするのに,なぜ事前にぼくたちへの相談がなされないのでしょうか。これはまるで無駄なダムと同じです……」 文書はA4用紙で何枚かありました。この文書が届けられる前にひとりの女子生徒が,「いま何人かが先生に言いたいことをまとめています。受けとってあげてください」と頼みにきました。 「生徒の言いたいことなら喜んで受けとりますよ」と答えると,「その文章は,何というか,抗議みたいな文章なんですが,それでも受けとってもらえますか」と,少し心配そうに言います。「内容がどんなものでも,きっちりと言いたいこと言おうとするものなら受けとるから,心配しなくていいよ」と返すと,「よかった。あの人たちは本当に真剣に考えていますから」とにっこり笑って,ぺこりと頭を下げて戻って行きました。この生徒はいまアメリカで,星の誕生について研究しています。 さて,「抗議文」を読んだあと,生徒たちと話しました。事前に伝えて了解を得なかったことは不十分な対応であったと謝りました。また,君たちがアトリウムを自分たちの空間として大切にしていることを知ってうれしいと伝えました。そして,振り子を設置するのは,地球の自転を日常的に目で見て知ってほしいこと,こういった先人たちの工夫や発見によって科学が進歩してきたことについて考えてほしいことなどが趣旨であることを説明しました。加えて,ダムという比喩がこの場合は不適切であることも言っておきました。 実は,私たちも考えていました。それで,邪魔になる場合は鉄球をはずして,ワイヤーは危なくないように固定できる設計にしてもらっていたのですが,だからといって,生徒に伝えていなかったことの言い訳にはなりません。「君たちのために」ということで先回りをして,生徒が考える機会をおろそかにしてしまいました。それを生徒から指摘されました。シマッタとヤラレタを同時に思いました。 ………………………… 2001年の秋,図書館で1期生と話しました。 当時,探究科の海外研修はアメリカの首都ワシントンとボストンのいずれかを選択して,最後にフロリダ州オーランドで合流するというものでした。2001年は3期生が入学した年で,翌年の3月には当然アメリカに行く予定でした。ところが,あの同時多発テロが起こり,事態は急変しました。生徒の研修旅行委員会,アセンブリが何度もありました。なぜこういうことが起きたのかについての勉強会もしました。保護者会も5回行いました。校内での検討を進め関係機関とも協議し,結局,行先をニュージーランドにするということになりました。 そうこうしていた秋のある日の放課後,図書館に行くと3年生の一人に声をかけられました。 「1年生はアメリカに行けないんですか?」 「そうやね。いま検討しているけど,海外研修そのものができるかどうか難しいからね」 「そうですね」 彼女がまだ何か話したそうにしているので「どうしたの?」と尋ねると,アメリカのテレビ局がアフガニスタンで,タリバンと戦う北部同盟の兵士に取材をしていたのを観たと言います。ずっと銃を脇に抱えて緊張している兵士が,最後にインタヴュアーから「もしも戦争がなかったとしたら何がしたかったか」と問われて答えた言葉に驚いたと話してくれました。 「無表情だった兵士が,少しはにかむようにして。そしたら,ずいぶん若い人なんです。私よりもずっと下かもしれないくらい。それで『学校というところに行ってみたかった』と答えたんです」 私は「そう」としか返事ができないまま,生徒が何を見たのかを考えていました。 ………………………… 久しぶりに会う知人と待ち合わせた店に行くと,彼はすでに来ていました。席に着いて,秋に行った韓国の話を私がひとしきりしたあと,聞いてほしいことがあると言って彼はおもむろに話し出しました。 近所の友人が休みに子どもを海に連れて行くことになった。子どもの友だちも行きたいと言う。近所の親しい知り合いの子だ。自分の子ども二人とその子と,三人の小学生を連れて行った。しばらく泳いだが,風が強くなったので帰ることにした。ひとりは浜に上がっていたが,残りの二人が波の流れの中で遊んでいて戻って来ない。早く上がるようにと声をかけたとき,二人は波に引かれて沖に流された。友人は浮き輪を投げた。ひとりはつかまることができたが,もうひとりはそのまま流され姿が見えなくなった。友人は必死に探した。子どもたちに人を呼びに走らせた。波にのまれたひとりはそのあと浜に打ち上げられ,息を吹き返すことはなかった。自分の子ども二人は無事で,知り合いの子が亡くなった。子ども同士は仲良しで,何をするのも一緒だった。友人も,その子の両親と親しくつきあっていた。葬儀で,友人の子どもは棺を抱くようにして泣いた。同級生たちも泣いていた。亡くなった子の父親も体を震わせて泣いていた。友人は黙ってうなだれていた。 一息にそう話したあと,「おれはずっとそばにいるだけで何の言葉もかけられなかった」と知人はつぶやきました。乾ききっているように感じられる知人の眼を,私は見ていました。 ………………………… 生徒への手紙です。 子どものころ影踏みをよくした。地面に映る影は時間によって,季節によって,変化する。面白かった。日が落ちるまで遊んでいた。 夕方の壁に映る影が好きだった。自分の動きをそのまま映す。指でつくる影絵も自在だ。鏡は余計なものまで見えるのでつまらない。壁の影は,形だけを映す。おまけに電信柱の上だけ切り取って,小学生の背丈と同じにしてしまう。木でも鳥でも,色を消して形だけにしてくれる。 ある日,石垣のでこぼこに映った影を見て,自分というものが在るのを感じた。自分の影を見ている自分がいることを知った。音のない影には思いも感情もないだろうに,影の元の自分には声があったり鼓動があったり,気持ちや考えがあることに気がついた。自分以外の人もそうなのだろうかと思った。 あれ以来,その自分を抱えて生きてきた。自分なりにいろいろと知り,さまざまに経験した。失敗もした。迷惑もかけた。 よかったことばかりでは決してない。しかし,後悔したり恨んだりはしないでおこうと思っている。でも,気分のすぐれないときにはあれこれ思う。たまに影を見て,自分を振り返ったりもする。 シッカリシタイナア。 いろいろあるだろうけど,どうか元気で。 43号(2012.03.26)……荒瀬克己 |
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