京都市立学校・幼稚園
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中学3年生対象「実技講習会」(6/8開催)の申込受付は終了いたしました。

(アーカイブ2017年1月10日) 新年のメッセージ 生徒の皆さんへ「人差し指の話」

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 皆さん 新年おめでとうございます。
 2017年という年が、皆さんにとって充実した年になることを祈っています。新年にあたり皆さんにメッセージを送ります。今回は「人差し指」の話。

 私ごとですが、年末にスマートフォンが壊れて新しいものに変えました。カバーは、相変わらず好みの色の青にしましたが、これまでより少しいいカバーにしました。気のせいか、新しいスマートフォンは前のものより人差し指のスイスイ感が気持ちよく、ちょっとウキウキして使っています。
 
 年末、私はあるワークショップに行ってきました。ワークショップのテーマは、「カカオから考える食の未来」。インドネシア産のカカオ豆について勉強した後、そのカカオ豆を使ってチョコレートを作るワークショップでした。日本は、チョコレートの原料カカオ豆をほとんどアフリカのガーナから輸入しています。しかし、カカオ豆の生産量は、ガーナが世界第3位で、インドネシアが第2位です。なぜインドネシアのカカオ豆が輸入されないのか、そんな世界の農業、経済の仕組みを学んだあと、カカオ豆を実際にひたすらすりつぶして、チョコレートを作る体験をしました。カカオ豆がすり鉢とすりこぎだけで本当にチョコレートになるのです。今の時代、気になることわからないことは携帯、スマートフォンホで人差し指をスイスイ動かせば、すぐに情報は手に入ります。なのに、なぜそこに出掛けていったのか。それは専門家から生の話が聞きたかったのと、自分の手で豆からチョコレートを作ってみたかったから、そして参加者が、学生から年配の方までいろいろで、職業も多様な人が集まるからです。新しい体験、一まわり広げた人とのつながりを経験すること、身近なチョコレートについて広く、深く考えることが、自分にプラスになると考えたからです。もちろんそこでの出会いが、今後SNSでのつながりにもなるのですが、多様多彩な人と同じ場所と同じ時間を過ごすことに、大きな価値があったと思っています。

 人差し指をスイスイ動かすだけで、未知のこと、遠いところのことも自分にすぐ引き寄せられる時代です。しかし、本当に人差し指に頼るだけで、問いが解決できるのか、気になることが解消できるのか、疑問です。新年を迎え、皆さんは、卒業、進級まであとわずかとなり、頭の中は当面あと何をしなければならないかということが優先されていると思いますが、どうか、今年はこれをやってみようという新しい夢をもってください。そして人差し指だけに頼らず、実際に自分の体を動かして人と出会って、もう一まわり広く、もう一段深く考えたり、行動する人になってください。これが1つめの話です。

 「人差し指」について2つ目の話。携帯電話、スマートフォンなどが普及し、人差し指は、一日中よく働きます。一方、自分の思いを書き込みSNS上にあげる時にも活躍します。しかし、世間ではその書き込んだこと、人差し指で「ひょい」と送信ボタンを押したことで、人を悲しませたり、傷つけたりすることがしばしば起こっています。顔を合わすことなく、あるいは顔を知られないことを幸いに、指一本で自分の感情を満足させ、自分の安全だけを守る、そんな働きをもしてしまう、その指が人差し指です。書き込みだけでなく、あの人はこうだ、あの人のここがだめだ、あの人は嫌いだと、他人のことを取りざたするときも、いわば、人差し指を人に向けているのと同じ行為をしています。一度、人差し指を人に向けてみてください。中指・薬指・小指の三本は自分を向いていませんか。人差し指1本で書き込みをしたり、送信したり、あるいは他人のことを取りざたするとき、自分が考えるべき事がその3倍あると考えてみてください。たとえば、立場が逆で自分に向けられても納得できる内容か、そのやり方で自分の思いは相手にうまく届くのか、相手にダメージを与えることが目的になっていないか、というふうに。

 最後にもう一つ。人差し指は「オンリーワン」の「ワン」、1をも表します。気の合う合わない、知っている知らないに関わらず、世界人口73億人分の1として人が存在する尊さは同じです。自分を大事にすることと、他の人に思いをはせて大事にすること、その両方ができる人になってください。

 新年にあたり、「人差し指」について話をしました。夢をもって、今年一年素晴らしい年にしましょう。

2017年1月10日
                 校長  吉田 功

(アーカイブ2017年1月4日) 新しい年を迎えて

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 2017年が始まりました。平和で穏やかな一年であることを願います。

 2016年の年頭も同じような気持ちでスタートしましたが、昨年は心穏やかではおれない様々な出来事がありました。学校では、生徒に様々な機会に、社会に目を向けること、社会とつながることの大切さを話してきました。美術を学ぶ、自分の思いを作品として表現することの素晴らしさとともに、「社会の中にいる自分」「社会と関わっている自分」「社会を動かしていく自分」ということを美術専門の高校生として常に考えてほしいと願っています。

 昨年4月に熊本地方で大きな地震が発生したとき、本校生徒は何か自分たちも行動したいと考え、街頭募金を行いました。そして募金していただいた方にプレゼントするオリジナル缶バッジのイラストは、全校生徒に呼びかけて集めました。東日本大震災の復興支援活動をしてきたこれまでの取り組みとそれを継承してきたことがその行動のエネルギーになったのだと思います。年末に開催された「市立高校生と京都市会議員との意見交換会」には本校から7名の生徒が参加しました。3年生は美工作品展の卒業制作で発表した外国人への観光マナーをテーマにした作品を元に、1年生は総合的な学習の時間「美術探究」の課題研究「京の美を探る」で取り組んだことを踏まえ、事前学習やミーティングをして当日を迎えました。美術の学びをもとにした意見表明をし、他校生、市会議員の方と一緒に積極的な意見交換をすることができて、18歳選挙権が実現した中、“教科書で学ぶ”のではないさらに広がりをもった学びの機会でした。そして、恒例になっている銅駝学区の地元の方をモデルにした似顔絵の授業、こどもみらい館のイベントでのお子さんをモデルにした似顔絵ボランティアの活動、そのようなアートを通して地域社会とつながる学びを通して生徒が様々な成長をしてくれています。

 そして新年を迎えて、京都市の成人の日の式典会場に、本校生徒が取り組んだアートの作品が参加させてもらうという新しいステージを作っていただきました。また新たに、地域の高齢者施設に訪問し利用者の方とアートを通して活動する機会、さらには、高齢者施設に生徒の作品を展示していただく機会も作ることができました。「アートは裏切らない」「アートの力を信じて」、12月に特別講師でお招きした大阪芸術大学の森口ゆたか教授はホスピタルアートをテーマにそのように話されました。年末に新しい学習指導要領の答申が出され、「いかに進化した人工知能でも、それが行っているのは与えられた目的の中での処理であるが、人間は、感性を豊かに働かせながら、どのような未来を創っていくのか、どのように社会や人生をよりよいものにしていくかという目的を自ら考え出すことができる」とし、予測困難な時代に一人一人が未来の創り手となる力を身につけることが重要であると示されました。社会とつながる、社会と関わる美術専門教育はますます重要になってきています。

 本校は、1880年(明治13年)に日本最初の美術学校として創立し、今年で138年目に入ります。この歴史と伝統、積み上げてこられた美術教育の力を大切にしながら、21世紀のまっ只中を生きていく、未来を創る青年を育てるため、もうひと回り広げる、もう一段深める教育活動を進めていきたいと考えております。

 本年も本校教育活動へのご理解とご支援のほど、どうぞよろしくお願いいたします。

2017年(平成29年)1月4日
               校長  吉田 功

(アーカイブ2016年12月12日) 他者を感じる 他者に想いを馳せる

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 11月末に、全国高等学校長協会 人権教育研究協議会 熊本大会が開催され、参加してきました。研究協議会は月曜日の午後からでしたが、熊本へは前日の日曜日に入りました。それは、震災によって損壊した熊本城の状況を見たかったこと、もう一つは、本校生徒が行った2回目の熊本震災復興支援募金活動で集まった募金を直接熊本県庁へ届けるためです。熊本到着後熊本城へ向かいましたが、現在中へ入ることはできません。堀より外の駐車場や周辺道路からしか見ることはできませんが、それでも城壁の崩落や天守閣の損壊がはっきり見えました。明治初めにも地震の被害を受けたそうですが、今回の被害は、17世紀初めに加藤清正が築城して以来最大の規模だそうです。そして築石の修復は、震災前の写真や図面をもとにすべて番号をつけて位置を特定した上でもとに戻すため、周りの建造物の復旧も含めて城の復興には約20年かかるとのことでした。翌日午前中に熊本県庁へ出向き、募金を渡した担当主任の方からも復興事業のたいへんさを聞きました。熊本城は単に歴史的建造物、観光の名所だけでなく、熊本の人々にとって日常生活とともにあるシンボルであり、永きに渡り損壊の姿を目にし続けることの哀しみはいかばかりかと思いました。

 先日、NHKのETV特集で「15歳 私たちが見つけたもの 熊本震災 3年3組の半年」を観ました。私は今回熊本市内のごく一部しか見ていませんが、番組では震源地となった益城町の中学生が取り上げられていました。震災の甚大な被害の映像は重いものでした。震災のあと、我が家に住めず離れたところに住むことを余儀なくされた、あるいは違う中学校へ一時通わなければならなかった中学生。授業や行事、クラブ活動、そして進路。中学生最後の大切な時期に “日常”が一瞬にして寸断され、思いもしなかった生活を送ることになった中学生の葛藤や悩み、苦しみ、そして様々なきっかけでそれを乗り越える力を呼び醒ます姿を観ました。この厳しい状況で支えになっていたのは、人と人の繋がりと思いやりです。地域にとって子どもや学校はとても大切な存在であるということも改めて痛感しました。損壊した我が家が解体される日、中学生が言葉で表せないような哀しい眼差しで見つめる中、祖母が「積み上げていくのはたいへんだけど崩すのは簡単」と言った言葉が印象に残っています。

 “当たり前の日常”に浸かり切っていてその“日常”の中にある大事なものに気づかなかったり、軽く流してはいないだろうか、その大事なものをかけがえのないものだと認識しながらしっかり守っていくことで、“特別”な出来事、“非日常”に遭遇した時にそれを乗り越える力を引き出せるのだと思います。映像の中で様々な壁に直面する中学生が、それを乗り越えて成長する姿を観ていると、乗り越える支えになっているのは、言葉でのやりとりだけでなく言葉に出さなくても“日常”の中で中学生一人ひとりの中に醸成されてきた他者を感じる力、他者に想いを馳せる力ではないかと思いました。

 本校生徒の東日本大震災、熊本震災への復興支援の活動は今も続いています。“特別”な出来事に対する“特別”な想いと行動をたいへんうれしく思っており、大いに支えていきたいと思っています。加えて“日常”の中で他者を感じる力、他者に想いを馳せる力が生徒の一人ひとりの中に醸成されていくことを願ってやみません。
 
2016年12月12日        
              校長  吉田 功

(アーカイブ2016年11月21日) 未来をひらく学び

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 11月19日(土)、「第14回S&Eフォーラム」が開催され、本校も発表生徒と見学生徒9名が参加しました。このフォーラムは、高等学校コンソーシアム京都と洛南ライオンズクラブの共催で開催されたもので、高校生と企業経営者、人事担当の方々が一堂に会し、特に専門学科、専門コースの生徒が日頃の課題研究の成果を発表し、午後は高校生と企業の方と懇談をしてキャリア意識の向上を図る企画です。

 今回の発表は、市立高校では、銅駝美術工芸高校(京の美を探る〜明治建築に見る美と価値)の他に、日吉ケ丘高校(私たち日吉ケ丘高校国際コミュニケーションコースです)、伏見工業高校(空間情報技術を活用した伏見工業高校における3D-VRの構築)、洛陽工業高校(小学生に教えるプログラミング教室)、そして府立高校では、田辺高校(田辺高校自動車部の取組)、南丹高校(総合学科テクニカル工学系列の取組)、桂高校(極太九条ネギを未来へ〜新たな機能性の発掘へ)、北桑田高校(木でつなぐ)、そして昨年度に続いて今回も市立大原中学校(大原に移動動物園を/1Dayライブラリー/大原八朔踊り)が参加しました。タイトルからもわかるように、高校は専門分野の発表が中心で全く異なる専門分野で学ぶ生徒が聴いて興味をもつのだろうかと思われがちですが、実際は全く逆。どの発表も参加者を引きつける興味深い内容でした。

 各学校の取り組みで注目すべきは、まず、企業やNPO法人、行政機関、諸施設、イベント実行委員会など、学校外の人々とつながり、そのつながりの中で調査、聞き取りし、またヒントや支援をもらいながら研究課題を深め、解決の糸口を見出そうとしたこと。2つ目には、取り組みの途中でうまくいかなかったり、予想と異なったりしたときに、解決のために修正したり立ち止まって別の方法を考えたこと。3つ目には、取り組んだ成果を自分たちだけにとどめず、地域の小学生、中学生に体験の機会をつくったり、イベントで記念グッズにしたり、試食してもらったり、施設と共同で開発したり、またコンテストや大会に挑戦したりしたこと。さらに今回特筆すべきは、発表の後、参加している高校生から積極的な質問が出され、鋭い質問にも発表者が精いっぱい答えていた姿です。驚きや気づき、もっと聞きたいという気持ちになる発表ばかりで、発表が終わるたびに、大きな称賛の拍手が贈られました。

 美術工芸を専門に学ぶ本校の生徒も、普段仲間と学んでいる分野とは別世界の話を聴けて大いに刺激になったようです。本校の発表、総合的な学習の時間「美術探求」は、「作品との対面力を養う」というねらいがあります。「表現者としての自己」と向き合い「表現するとは何か」「美とは何か」という“答えのない問い”に向かい続ける学びを進めています。本校の発表の後、他校の高校生から「グループで学習するときは、話し合って1つの答えを見つける、答えに到達することが目標なのに、答えのない問いに向かうというのはどういうことか」という鋭い質問がありました。本校生徒の答えは、「美術を学ぶ私たちは作品を制作するが、作品の制作にはこれが正解という答えがない。美とは何か、自分が何に美の価値を見出すかということを一人一人が出し合うことに学びの意義がある」、と。秀逸でした。

 このフォーラムで生徒たちが見せた学びの姿は、まさしく21世紀に生きていく上で必要な「主体的な学び」「対話的な学び」「深い学び」。多様な専門分野の学びを貫く、普遍的に大切なもの再認識するフォーラムでした。 

2016年11月21日
             校長 吉田 功


(アーカイブ2016年10月31日)  時間を創る

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 後期始業式に、時間を「創る」という話をしました。1分は60秒、1時間は60分、1日は24時間、誰にとっても長さは同じで、それを変えることはできないけれども、その時間の中身はいかようにも「創る」ことができる。これからの時間をどのように「創る」か、そのことを大事に考えて後期を過ごしてほしいと話しました。時間の中身を充実させて豊かな時間を生きる、ということを伝えたかったのです。

 10月初めの美工作品展4日間で7200名を超える方々にご来場いただき、作品を観ていただきました。作品制作は、様々な悩みや苦しみもあったでしょうが、自分の力を出し切って完成させた作品。その制作していた時間は、言葉で簡単に表現できないような濃密な時間であっただろうと思います。作品を自分の手から離して展示をすると、今度は鑑賞者の心に様々な感動を与え、鑑賞者にとっても豊かな時間になったと思います。私も作品一つ一つを鑑賞しながら、あの生徒がこの作品を、とか、あの生徒が実習室で取り組んでいた作品はこんな風になったん、と心を揺さぶられました。 美工作品展が一つの大きな目標であるため、美工作品展が終わると空虚な気持ちになるかもしれません。しかし、 美工作品展は大事な到達点であると同時に次に向かうスタート地点でもあります。次の扉を開けてまた豊かで中身のある時間を創ってほしいと強く願っています。

 先日、前任校で12年前に卒業した教え子10名ほどと会う機会がありました。卒業後も1年に1回は会う機会をつくってくれて色々な話をして盛り上がります。その学年と過ごした3年間は本当に濃密な3年間で、「過ごした」というよりもやはり一緒に時間を「創った」という感があります。いろんなことが起こったし、いろんなことを乗り越えた、担任として、学年主任として彼ら彼女らの成長と関わりながら、発見や、気づき、喜びがたくさんありました。ある生徒は、この学校での出会いと経験は一生の宝だという言葉を残しています。生徒たちが時間を「創る」ことができたのは、多様な人や学びに出会ったこと、積極的に様々な経験をしたこと、人とつながったこと、失敗や行き詰まりを様々な方法でやり直したことがあったからだと思います。彼ら彼女らは、今は、仕事や子育てをしながらさらに先の夢をもってたくましく生きています。12年経っても私の方が刺激を受けることがいっぱいありました。

 10月21日は、全学年美術見学の日でした。2・3年生は専攻別に研修。1年生は「京の美を探る」というテーマで市内フィールドワークに出かけました。これは、各グループの研究テーマに合わせて、京都の伝統・文化・学術に関わる施設や工房など訪問させていただき調査、体験、情報収集をしてくるもので、事前学習、事後の研究まとめの作成、発表に至るまで丁寧に積み上げていく学習です。私は、午前・午後3か所ほど生徒の様子を見に行きましたが、1年生ながら礼儀正しく熱心に取り組んでいました。iPadや書籍等で事前に調査しただけでは見えなかったものを、現地で体感し、しっかり聴き取りもしてくるという濃い内容を、グループに分かれた数名の生徒だけでやりきってきたことは立派でした。教室内の学習では得られない時間を「創って」きました。そして生徒のそういう姿を見て、私自身も新鮮で豊かな時間に身をおくことがきました。
 
 「時間が過ぎる」というより「時間を創る」。
銅駝の生徒とはまだ2年間の付き合いですが、日々発見、納得、感心し、自分自身が取り組むべき課題に気づかされています。まさに銅駝の生徒と新しい時間を「創っている」真っ最中です。 

2016年10月31日
            校長 吉田 功   

(アーカイブ2016年10月7日)  経験を力に

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 10月4日、前期終業式にあたり、私の「ひじき嫌い」の話をしました。私は、長い間、食べ物の中で「ひじき」が嫌いでした。何よりも形が嫌い、色が嫌い、食感が嫌い、もちろん味も嫌いで、食卓に並んでも、弁当の副菜でついていても“姿を見せないで”、という心持ちでした。「しいたけ」も小さい頃から駄目でしたが、小学校高学年頃、そうめんのつゆがきっかけで「好き」に転じました。しかし、「ひじき」だけは人生長い間ずっと無理でした。それがある時、その場の雰囲気で久方ぶりに食べざるを得ない状況になって、しかたなく口に運びました。「あれ? いい味がする」、それが感想でした。よくある「ひじき」の煮物でしたが、頭の中で「おいしい!」という感覚が芽生えました。長らく「ひじき嫌い」で生きてきて、今から5年ほど前でしょうか、「おいしい」と思ったのです。そうなると、形も、色も、食感も、「嫌い」という感覚はいつのまにか失せました。今は、ひじきの煮物は好んで食べています。「ひじき」という食べ物を拒否しなくると、食事のときも、弁当を選ぶ時も、定食を食べる時も、最初から構えず、ゆったりした気持ちで過ごせます。

 終業式の話で校長の好き嫌いの話を言うのも、と思いましたが、そのことを前置きにして話したかったことは、「嫌い」「合わない」「無理」というような感覚で、すべてを拒否してしまいシャッターを下ろして鍵をかけてしまうのはいかがなものか、ということです。経験の広がりは、その上に積み上がる力や技量も大きく、厚く、多様になるだろうから、最初から経験の入口を狭めないでほしいということが言いたかったのです。これは、教科・科目の好き嫌いでも、他者との関係性においてもあてはまると思います。

 本校は2年生から専攻の学習が始まりますが、1年生の間は最初8分野の学習をすべて学習しながら専攻を徐々に絞っていく、一方1年生から2年生の間に専攻に関わりなく美術の基礎教育を共通で学びます。生徒はこの仕組みのなかで美術の学びを深めますが、高校入学時にすでにカチカチに固まっている普通科目の好き嫌い、あるいは得意不得意の感覚はなかなか克服できないようです。そして最近、生徒どうし、他者との関係においても、受けとめる入口が非常に狭いように見受けられます。悲しい、辛い、苦しい経験をあえて求める必要はないし、経験しない方がよいのは当然ですが、そういう経験を恐れるがあまり、最初から入口を狭く、さらには目の細かい網を張って限られたものだけを通すというスタンスは、物事への対応力、課題解決力、生きる力を弱めることになります。先入観やこれまでの経験則だけに頼らず、「経験は力になる」という構えで間口を狭めないこと、そして何かに直面した時は、困りを覆い隠したり辛抱するのではなく他者の支援を求め、「経験を力にする」行動に出てほしいと願っています。もちろん私たち教員は、その見守りと必要かつ適切なサポートしなければなりません。もっと言えば、まずは教員こそが自らの専門性によりかからず、間口を広げ、多様な経験をすべきなのだと思います。

2016年10月7日 
               校長  吉田 功 

(アーカイブ2016年8月31日) 過ぎゆく夏に

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 昨年、着任して以来、美術の実習授業をよく見に行っています。小学校の時から「図画工作」が一番好きな科目で、高校時代の芸術科目は「美術」「工芸」を選択したという私にとって、美術の専門高校の実習授業は強く興味をひかれます。もちろん普通科高校に通っていた私が取り組んだ課題とはかけ離れた内容ですが、生徒が、目を輝かして真剣な眼差しで制作に取り組んでいる姿に心を動かされています。そして率直なところ自分も「やってみたい」という気持ちをひそかにもちながら過ごしてきました。

 基礎、基本をしっかり学ばず興味本位で「やってみたい」というのはいかがなものか、と思ってきましたが、夏季休暇中の中学生対象のオープンスクール「わくわくART!」で、楽しそうに体験学習に取り組む中学生の姿を見ていて、子ども時代の自分の気持ちがもちあがってきました。美術専門高校に勤めているのだから、体験しておくのはきっと“プラス”になると自分に妙な言い聞かせをして、専攻の教員に「やってみたい」気持ちを打ち明けました。

 そんな経過で8月のはじめ、染織専攻の教員にお願いして、手ぬぐいの型染めを体験させてもらいました。専攻教員制作の夏らしい柄の型を使って、染料を合わせるところから指導してもらいました。染料の見た目の色合いと実際に布に色を置いた色合いとは異なります。また刷毛で布に色を付けるのは、紙に絵の具で色を付けるのとは全く異なる感覚。色を定着させるための処理、糊を落とすため水ですすぐ感触、水の中で染めた色が揺らぐ姿、糊が落ちて白い絵柄があらわれる美しさ。染織を実体験した約2時間は感動そのものでした。

 体験をしながら、作品を制作するということは、布や染料、使う道具についてよく知ることが大切だと専攻の教員から教えてもらいました。自らの感性や創作力、表現力を自由に発揮する作品制作という場面であっても、まずは謙虚に画材や道具について学ばなければならない、よく見ること、気持ちをしっかり対象に向けることの大切さを、自分自身が制作をしながら実感しました。生徒が学んでいることからすれば、ほんの一部分をかじった程度ですが、制作に取り組む基本を体で学んだ気がしました。

 この夏、生徒はそれぞれ貴重な経験をしたことと思います。布を染めるこの経験は、私にとってとても貴重でした。作品制作ということのみならず、対象と向き合う、よく観察する、気持ちを注ぐ、目と心を対象から逸らさない、これまでの経験だけで“処理”せず新鮮な気持ちで取り組む、教育という場面にも通じることだと思っています。

 2016年8月31日    
                  校長  吉田 功

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(アーカイブ2016年8月19日) 地域の中の学校

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 今年も8月15日、16日の2日間、本校グラウンドで、銅駝区民盆踊り大会が開催されました。16日はあいにくの大雨となり早めの終了となりましたが、両日ともたくさんの方が参加されました。グラウンド中央には櫓が組まれ提灯も吊るされます。小さい子どもさんから年配の方まで、また地域の方だけでなく外国人の旅行客も興味津津で会場へ。この盆踊り大会は今年で37回目。銅駝中学校が柳池中学校へ統合(その後京都池中学校へ統合)された37年前、地域の方が地元への熱い思いをもって銅駝音頭を手作りで作られ、毎年この盆踊り大会を盛大に開催されてきました。本校はその銅駝中学校の校地のあとに、日吉ケ丘高等学校美術コースから、美術専門の単独高校「銅駝美術工芸高等学校」として開校し37年目を迎えています。この間、地域の皆様のご理解ご支援をいただきながら教育活動を続けてきました。年月の重みを感じます。

 京都は明治の初めに全国に先駆けて、町内の住民の出資で小学校を設立・運営してきた歴史があります。1869年(明治2年)に開校した「上京第三十一番組小学校」は、1875年(明治8年)に「銅駝校」(銅駝尋常小学校)となり、戦後の学制改革で「銅駝中学校」となりました。現在の校舎は昭和期の校舎と言われ、たいへん趣のある重厚で温かみのある建物です。

 全国どこでも、地域における小学校・中学校に対する住民の思いはたいへん熱く深いものがあります。学校は地域の子どもの教育の場であることはもちろん、学校が地域のつながりのよりどころとなってきました。本校は美術専門の高校であり、地元中京区出身の生徒もわずかに在籍していますが、ほとんどの生徒は京都市全域、そして京都府下から通っています。また地元に専攻・学科が設置されていないということで他の都道府県からも本校に入学してくる生徒もいます。やはり高校は、小・中学校に比べると“地域の子ども”の学び場という色合いは薄れてくるのが一般的です。しかし本校が他の高校と異なる点は、住民に支えられ、地域の中心として歴史を歩んできた「銅駝」の校地を学び場として使わせていただいている点です。地域に出て行ってのスケッチや地元商店街での調査に基づく課題制作、地元の方をモデルになっていただいて人物画制作(似顔絵講座)、地元の協力による防災訓練、学校施設の地域開放、地域の集会場「銅駝会館」の教育活動での借用など、地域との相互理解の中でこそ実現できているものが数多くあります。ほとんどの生徒が地域外から通う学校であっても、地域によって支えられ、また見守られていることで、生徒は“地域”の大切さ、人と人とのつながり、相互支援、相互理解の大切さを経験的に学んでいます。かけがえのない教育環境だと思います。

 グローバル化の進む中、世界に目を向けた学び、国際理解の学習がますます重要になってきていますが、地域社会とのつながり、地域連携を基盤とした教育活動を充実させてこそだと考えています。美術専門高校としてこの地で開校して37年目、第37回銅駝区民盆踊り大会の開催を機に、あらためてその思いを深めたところです。

2016年8月19日
           校長 吉田 功



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(アーカイブ2016年7月11日) 普通って何?

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 ふだん“普通”という言葉を何気なくよく使います。「普通は〜こうであるはず」「普通〜そんなことはしない」。様々な事柄について、一般的、標準的なあり様が決まっていて、だからそのあり様から結論も決まっていて、そうでないものは、“特殊”“異常”“イレギュラー”。そういう展開になってしまいます。

 5月に植松電機専務取締役、カムイスペースワーク代表取締役の植松 努さんの講演を聴きました。植松さんは重機のマグネットを製造する会社を経営しながら宇宙開発の仕事、ロケットの開発もされています。補助金もなく、儲けにつながらない、“普通”は企業がやるはずがないことをやっています。なぜ? 植松さんいわく、「どうせ無理」をこの世からなくすため。植松さんは、小学校の時「ぼくのゆめ、わたしのゆめ」という作文で、自分でつくった潜水艦で世界の海を旅したいと書いて先生に叱られたそうです。「そんなこと無理に決まっているだろう」という大人の理屈で子どもの夢を否定される、そんな経験が背景にあります。子どもの頃の写真を見ると、全員がラジオ体操している横で、一人だけ土いじりをしている植松さんの写真も残っています。“普通”の子じゃないと思われていた植松さんは、いろんな“普通”があっていいと言います。

 7月6日、2年生の人権学習の講師として、ジェンダー・セクシュアリティ・フリーサークル「れいんぼー神戸」の内藤れんさんを招き、「LGBT」をテーマにした講演をしていただきました。L=レズビアン、G=ゲイ、B=バイセクシュアル、T=トランスジェンダーという、多様な性のあり方についてのお話を聴いた後、セクシャリマイノリティと呼ばれる人たちが直面する生きづらさ、正しい理解がないことによってどのようなことが起こるか、内藤さん自身の経験も含めて話していただきました。自分の経験と思い込みに基づく“普通”。その“普通”を他者に押しつける怖さを再認識しました。「理解できない」「自分とは異なる」ことを排除したり否定するのではなく、そのこととの共存を考える、という内藤さんのメッセージが胸に残っています。

 特別支援教育について十分認識できていなかった頃は、私たちは、“手がかかる”“言うことを聴かない”“皆と同じようにできない”“普通のことができない”、そんな風に生徒を評価し困りに気付きませんでした。多数の“普通”の生徒と少数の“目立つ”生徒という構図で生徒を観察し、“目立つ”生徒の努力不足に帰結させていたことの見直しから始めました。ありのまま生徒の状態からスタートして、その生徒の困りを理解し、どの生徒も“普通”に学ぶことができる教員のアプローチが求められています。

 “普通”って何?  この問いをもち続けたいと思います。銅駝美術工芸高校に赴任して1年3カ月。多様な表現力、発想力、感性をもった生徒と生活し、対話し、その作品にふれながら、“多彩”“多様”であることがこの世の中の“普通”なのだろうと思っています。中学生の時は、“自分はみんなと違う”“自分は普通じゃない、変わっている”そんな風に思っていたけれど、銅駝美術工芸高校に入学してそんな感覚は無用であると思った、そんな生徒の話を聴きました。多様なものを認め合う、のびのびとした豊かな空間、時間  銅駝の大切な校風です。そういう人やモノと旺盛に接点をもつことで、自分自身のものの見方、考え方は深まり、広がり、柔軟になります。それは喜びであり、楽しみであり、そして自分の感性や認識を研ぎ澄ますことにもなります。

2016年7月11日
           校長  吉田 功

(アーカイブ2016年6月20日)  余白

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 先日来、美術の授業で、「余白」という言葉がよく出されています。1年生「美術探求」では、日本美術史の中で「風神雷神図屏風」を教材に、時代、作者の異なる3点の作品について、グループワークを取り入れながら「風神」「雷神」の描き方、構図、その時代背景などについて意見を出し合いました。また1年生「表現基礎1」の授業では、モチーフ「タオル」「レモン」「植木鉢」の配置について、奥行き、広がり、余白といった観点が扱われたました。2年生の「表現基礎2」では、一人一人が水墨画の題材を描いた後、チームで大きな水墨画を描くという授業で、各メンバーが担当する「山」「川」「竹」「鳥」「魚」「猿」をどのように配置するか、どこまで描いて余白をどう残すかということを考えました。

 昨年、京都市学校歴史博物館で「日本画 余白の美」という企画展があり、本校の前身「京都府画学校」出身の上村松園さん、上村松篁さんらの作品が展示されました。その時の案内のチラシには「日本の絵画は『描かない』余白に大きな意味を込めて、空間の『遠さ』や『広がり』などを表現します。それが日本画独特の詩情を生み、鑑賞者は吸い込まれるように絵の世界に誘われるのです」と書かれていました。「余白」は「あまり」でも「未完成」でもなく、むしろその作品の成立に必要なものであるということでしょう。このことは写真や映像、立体物の作品でも、メインの対象物とそれ以外の部分との関係がとても重要で、その配置、構図によって素晴らしい表現が生まれるのだと思います。

 学校や学校生活の中にも「余白」が必要だと思っています。学校週五日制は「子どものたちの生活全体を見直し、ゆとりのある生活の中で、子どもたちが個性を生かしながら豊かな自己実現を図ることができるよう」「学校、家庭、地域社会の役割を明確にし、それぞれが協力して豊かな社会体験や自然体験などの様々な活動の機会を子どもたちに提供し、自ら学び自ら考える力や豊かな人間性などの『生きる力』をはぐくむことをねらい」(文部科学省HP)として2002年から完全実施となりました。しかしながら学力保障のため平日の授業時間数の増加や、土曜日や休日にある様々な学習活動や部活動、そしてそれを指導する教職員の勤務実態など、1週間の「詰まり」具合の実情には様々な課題があります。青春まっただ中の多感な生徒が、意欲と関心をもって精一杯エネルギーを注ぐ日常はとても大切で、一日が24時間では足らないという感覚をもっている生徒も多数います。しかしその一方で、学校での生徒の様々な表情、保健室の来室状況、発生する様々な出来事を見ていると、やはりどこかで心や体をニュートラルにする時間や空間がないと、新鮮で柔軟な発想や思考力、豊かな感性は伸ばせないと思います。そうなると、予想、期待通りに事態が進まなかった時、経験したことのない事態に直面した際に、そのことに向き合う心と体がスタンバイできず、解決する力も出せなくなってしまいます。このことは教職員の勤務実態にも通じるものがあります。

 「余白」はあまりでも余裕でもなく、豊かな教育に必要なもの  学校の日常において、必要な「余白」を、どこに、どのように保障するか、その観点を落とさないように学校の教育環境の整備、教育計画の立案・遂行をしていかなければならないと考えています。

2016年6月20日              
               校長 吉田 功

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