京都市立学校・幼稚園
最新更新日:2024/05/14
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「美術を学ぶ」から「美術で学ぶ」学校へ。美工(美術工芸高校)は、生徒たちに未来必要な力を身に付けさせる教育活動を展開しています。

(アーカイブ2016年7月11日) 普通って何?

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 ふだん“普通”という言葉を何気なくよく使います。「普通は〜こうであるはず」「普通〜そんなことはしない」。様々な事柄について、一般的、標準的なあり様が決まっていて、だからそのあり様から結論も決まっていて、そうでないものは、“特殊”“異常”“イレギュラー”。そういう展開になってしまいます。

 5月に植松電機専務取締役、カムイスペースワーク代表取締役の植松 努さんの講演を聴きました。植松さんは重機のマグネットを製造する会社を経営しながら宇宙開発の仕事、ロケットの開発もされています。補助金もなく、儲けにつながらない、“普通”は企業がやるはずがないことをやっています。なぜ? 植松さんいわく、「どうせ無理」をこの世からなくすため。植松さんは、小学校の時「ぼくのゆめ、わたしのゆめ」という作文で、自分でつくった潜水艦で世界の海を旅したいと書いて先生に叱られたそうです。「そんなこと無理に決まっているだろう」という大人の理屈で子どもの夢を否定される、そんな経験が背景にあります。子どもの頃の写真を見ると、全員がラジオ体操している横で、一人だけ土いじりをしている植松さんの写真も残っています。“普通”の子じゃないと思われていた植松さんは、いろんな“普通”があっていいと言います。

 7月6日、2年生の人権学習の講師として、ジェンダー・セクシュアリティ・フリーサークル「れいんぼー神戸」の内藤れんさんを招き、「LGBT」をテーマにした講演をしていただきました。L=レズビアン、G=ゲイ、B=バイセクシュアル、T=トランスジェンダーという、多様な性のあり方についてのお話を聴いた後、セクシャリマイノリティと呼ばれる人たちが直面する生きづらさ、正しい理解がないことによってどのようなことが起こるか、内藤さん自身の経験も含めて話していただきました。自分の経験と思い込みに基づく“普通”。その“普通”を他者に押しつける怖さを再認識しました。「理解できない」「自分とは異なる」ことを排除したり否定するのではなく、そのこととの共存を考える、という内藤さんのメッセージが胸に残っています。

 特別支援教育について十分認識できていなかった頃は、私たちは、“手がかかる”“言うことを聴かない”“皆と同じようにできない”“普通のことができない”、そんな風に生徒を評価し困りに気付きませんでした。多数の“普通”の生徒と少数の“目立つ”生徒という構図で生徒を観察し、“目立つ”生徒の努力不足に帰結させていたことの見直しから始めました。ありのまま生徒の状態からスタートして、その生徒の困りを理解し、どの生徒も“普通”に学ぶことができる教員のアプローチが求められています。

 “普通”って何?  この問いをもち続けたいと思います。銅駝美術工芸高校に赴任して1年3カ月。多様な表現力、発想力、感性をもった生徒と生活し、対話し、その作品にふれながら、“多彩”“多様”であることがこの世の中の“普通”なのだろうと思っています。中学生の時は、“自分はみんなと違う”“自分は普通じゃない、変わっている”そんな風に思っていたけれど、銅駝美術工芸高校に入学してそんな感覚は無用であると思った、そんな生徒の話を聴きました。多様なものを認め合う、のびのびとした豊かな空間、時間  銅駝の大切な校風です。そういう人やモノと旺盛に接点をもつことで、自分自身のものの見方、考え方は深まり、広がり、柔軟になります。それは喜びであり、楽しみであり、そして自分の感性や認識を研ぎ澄ますことにもなります。

2016年7月11日
           校長  吉田 功

(アーカイブ2016年6月20日)  余白

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 先日来、美術の授業で、「余白」という言葉がよく出されています。1年生「美術探求」では、日本美術史の中で「風神雷神図屏風」を教材に、時代、作者の異なる3点の作品について、グループワークを取り入れながら「風神」「雷神」の描き方、構図、その時代背景などについて意見を出し合いました。また1年生「表現基礎1」の授業では、モチーフ「タオル」「レモン」「植木鉢」の配置について、奥行き、広がり、余白といった観点が扱われたました。2年生の「表現基礎2」では、一人一人が水墨画の題材を描いた後、チームで大きな水墨画を描くという授業で、各メンバーが担当する「山」「川」「竹」「鳥」「魚」「猿」をどのように配置するか、どこまで描いて余白をどう残すかということを考えました。

 昨年、京都市学校歴史博物館で「日本画 余白の美」という企画展があり、本校の前身「京都府画学校」出身の上村松園さん、上村松篁さんらの作品が展示されました。その時の案内のチラシには「日本の絵画は『描かない』余白に大きな意味を込めて、空間の『遠さ』や『広がり』などを表現します。それが日本画独特の詩情を生み、鑑賞者は吸い込まれるように絵の世界に誘われるのです」と書かれていました。「余白」は「あまり」でも「未完成」でもなく、むしろその作品の成立に必要なものであるということでしょう。このことは写真や映像、立体物の作品でも、メインの対象物とそれ以外の部分との関係がとても重要で、その配置、構図によって素晴らしい表現が生まれるのだと思います。

 学校や学校生活の中にも「余白」が必要だと思っています。学校週五日制は「子どものたちの生活全体を見直し、ゆとりのある生活の中で、子どもたちが個性を生かしながら豊かな自己実現を図ることができるよう」「学校、家庭、地域社会の役割を明確にし、それぞれが協力して豊かな社会体験や自然体験などの様々な活動の機会を子どもたちに提供し、自ら学び自ら考える力や豊かな人間性などの『生きる力』をはぐくむことをねらい」(文部科学省HP)として2002年から完全実施となりました。しかしながら学力保障のため平日の授業時間数の増加や、土曜日や休日にある様々な学習活動や部活動、そしてそれを指導する教職員の勤務実態など、1週間の「詰まり」具合の実情には様々な課題があります。青春まっただ中の多感な生徒が、意欲と関心をもって精一杯エネルギーを注ぐ日常はとても大切で、一日が24時間では足らないという感覚をもっている生徒も多数います。しかしその一方で、学校での生徒の様々な表情、保健室の来室状況、発生する様々な出来事を見ていると、やはりどこかで心や体をニュートラルにする時間や空間がないと、新鮮で柔軟な発想や思考力、豊かな感性は伸ばせないと思います。そうなると、予想、期待通りに事態が進まなかった時、経験したことのない事態に直面した際に、そのことに向き合う心と体がスタンバイできず、解決する力も出せなくなってしまいます。このことは教職員の勤務実態にも通じるものがあります。

 「余白」はあまりでも余裕でもなく、豊かな教育に必要なもの  学校の日常において、必要な「余白」を、どこに、どのように保障するか、その観点を落とさないように学校の教育環境の整備、教育計画の立案・遂行をしていかなければならないと考えています。

2016年6月20日              
               校長 吉田 功

(アーカイブ2016年5月16日) ありふれた日常 特別な日

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 5月20日は体育祭。今年度から5月のこの時期に実施することとなり、6月末の文化祭と時期を分けることになりました。すでに、生徒会執行部の生徒が中心になって4月から少しずつ準備を重ねきました。教職員がサポートをするものの、これらの行事は生徒の自主的な思索と実践があってこそ成り立っています。

 体育祭、文化祭だけでなく、研修旅行や入学式、卒業式も含め、高等学習指導要領において「学校行事」としてくくられ、その目標は、「学校行事を通して、望ましい人間関係を形成し、集団への所属感や連帯感を深め、公共の精神を養い、協力してより良い学校生活や社会生活を築こうとする自主的、実践的な態度を育てる。」と書かれています。教科や総合的な活動の時間の学習だけでなく、これらの学校行事は生徒の成長にとって大きな学びの場であり、別の言い方をすれば、まさしく協働的な学習、課題解決学習、アクティブラーニングの場でもあると言えるでしょう。活動が盛り上がり、あるいは感動する展開となって成功すれば、「特別な日」は大切な思い出としていつまでも胸に残ります。行事の後は、個人も集団もひとまわり、ふたまわり成長して新しいステージに上がります。教職員は、クラスの生徒一人一人が積極的に参加し他の生徒と協力し合って成功を収めてくれること、生徒会が各クラスをうまくリードして、準備から当日の運営、後片付けまで上手くやりきってくれることを望むばかりです。

 しかし、生徒の特性や、性格、興味関心は多様で、簡単に“一枚岩”のようにはいきません。自分の思いを出し過ぎたり、自分の気持ちをどう出していいか戸惑ったり、メンバーの一言で気まずくなったり、またメンバーの動き方にイライラしたり、ついていけなかったり。これを単にトラブル、問題発生と捉えるか、成長の過程のドラマだと捉えるか。もちろん解決できないまま仲間を傷つけたり、いじめにつながるようなことはあってはならない。しかし、これまでの経験からすると、準備から当日まで和やかにスムーズに進むことのほうが稀だと思います。以前担任をしたクラスも、気持ちを合わすまでに時間がかかる、中々準備が進まない、一人突っ走り過ぎる生徒がいる、などいろいろありました。私は、毎日放課後、顔を出して声掛けはしていましたが、最終的に調整することには手を出さず、生徒に任せました。それは、4月から少しずつ“耕し”“水遣り”をしてきたクラスの“土壌”に期待したからです。“土壌”とは、生徒どうしで“醸成”“発酵”されてきた集団としての「社会力」*です。それでもうまくいかないことがあれば、私がきちんと“後始末を引き受ける”覚悟をしました。結果は、見事生徒の力で解決し、当日、生徒も私も納得、感動する出来上がり。思い出に残る特別な日となりました。

 特別な日が、特別な重みと感動をもって成功し、いつまでも思い出に残るためには、結局、特別ではない“ありふれた”日常の丁寧な営みが不可欠だと思います。“ありふれた”は、何もしない、平凡ということではなく、“一過性”“瞬発的”な盛り上がりに頼らない地道で継続的なアプローチという意味です。やはり、教育は日常の営みが左右するのだと思います。
 (「社会力」という言葉は門脇厚司著『子どもの社会力』より)
 
 2016年5月16日
               校長  吉田 功

(アーカイブ2016年4月22日) 個と集団から生まれるもの

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 新学期が始まって、約2週間が経ちました。新しい仲間、新しい先生との出会い、新しい科目、新しい授業を経験したところです。私は、機会を見つけて、できるだけ教室へ、グランドや体育館へ足を運び授業の様子を見に行っています。

 すでに学校のホームページでも紹介しましたが、4月14日、授業開始の初日、1年生は「美術入門研修」があり、午前中は京都国立近代美術館で、講義とグループごとの作品鑑賞、ディスカッションとまとめ、全体での発表と、スタートから盛りだくさんな内容でした。iPadも活用したこの学習では、一人一人の鑑賞を大切にしながらも仲間と言葉を交わし、気づきや意見を出し合うことで、自分の感じ方、考え方をより深めることができました。また、グループごとの発表を聴く中で、自分たちとは異なる作品に注目した発表、自分たちと同じ作品を取り上げても違う考えを述べた発表に触れ、より広がりをもった学びができました。

 1年生の専門科目「表現基礎1」では90名の生徒を3講座にし、3教室を割り当て各講座2名ずつの教員が担当します。学習内容を合わせつつ3講座3教室で並行して行うのはよくあるパターンですが、これまでの2回の授業は全員が体育館へ入って6人の教員が様々な役割をしながらチームで指導しました。1回目は「ひとを観察する〜身体に触れ、身体を感じて描くドローイング」、2回目は「ひかりを観察する〜光と影に触れ、光と影を感じて描くドローイング」でした。最初から各講座に分かれて授業をするのではなく、学年全員同じ場所で活動する学び。アイスブレイクを授業の導入に組み込み、教員から課題の提示があったあと90名の生徒が40数組のペアとなって進行します。対象を観察し紙に描くのはあくまで個人。しかし、学習する空間には、様々なポーズをとる生徒とそれを観察して描く生徒が40数組活動している。個別の教室の授業では経験できない、学びのエネルギーがあふれる、そんな授業でした。

 2年生の専門科目「表現基礎2」では、粘土を使った立体ワークショップが行われました。課題として出された言葉についての個々のイメージをグループ内で出し合い、1枚の紙に書き込んでいく。自分のイメージとは異なる仲間のイメージに触れることができる。続いて粘土を使って自分のイメージを立体表現。グループ内で個人が発表したのち、グループ協働で1つの立体表現をする。自分のイメージや表現と仲間のイメージや表現とを言葉を交わしながら、手や指を動かしながら融合させていく、この一連の学習の流れは、個人の観察と制作活動では経験できない深みと広がりを生み出します。そしてそれを講座全体に言葉で伝える、聴くという活動で、学びの質が高まります。今、普通科の科目でも、授業の様々な場面でペアワークやグループワークを積極的に取り入れています。

 Web上に様々な情報が溢れ、指先一つで情報を見聞きできる時代。画面で本を読むことも、大学の講義を聴くことも、絵を描くこともできる、「個」の単位で情報を入手したり、学習したり、「答え」を探したりすることに不自由のない時代になりました。だからこそ学校という場で、学習の中に「個」として取り組む活動と「集団」として取り組む活動を効果的に組み合わすこと、その相互作用から生れる発見や気づき、思考の深まり、あるいは他者への共感、信頼を経験することが大切なのだと思います。やはり学校での教育活動の要は、「個」と「集団」の相互行為であり、その相互作用で生徒が成長していくことではないか、「ICT教育」も「アクティブ・ラーニング」もその観点を外さないようにして授業づくりをしていくことが大切なのでしょう。教員どうし、そして私も一緒に、授業について考え、語り、チャレンジしながら、本校の教育活動を豊かにしていきたいと考えています。

 2016年4月22日
              校長  吉田 功

(アーカイブ2016年4月8日) 第37回入学式 式辞

            式  辞
  
 鴨川の水音があかるくなり、河畔の桜が今を盛りに咲き誇る今日の佳き日、京都市教育委員会をはじめ、PTA役員の皆様、本校にご支援をいただいております交友会、京都パレスライオンズクラブ、銅駝自治連合会のご来賓の皆様、そして多数ご保護者の皆様のご臨席を賜り、平成28年度京都市立銅駝美術工芸高等学校、第37回入学式を挙行できますことは、まことに大きな喜びであり、本校教職員を代表いたしまして、心よりお礼申し上げます。

 ただ今、90名の新入生の入学を許可いたしました。まずは、新入生の皆さん、ご入学、おめでとうございます。教職員一同皆さんを、大切にお迎えしたいと思います。

 保護者の皆様、本日はお子様のご入学、誠におめでとうございます。これからの三年間、教職員一同、力を尽くして、お子様の成長を支援してまいります。ご理解、ご協力を賜わりますようお願い申し上げます。

 本校は、明治13年、1880年に、日本最初の画学校「京都府画学校」として創立され今年で136年、美術工芸科単独の高校として長い歴史と深い伝統をもつ学校であり、本校を卒業された諸先輩方は、美術界、産業界ほか、各方面で活躍されておられます。この歴史と伝統は、本校の生徒が、志高く意欲をもった旺盛な学びを続けてきたこと、そして情熱をもってその成長を支援し、導いてきた教職員の教育の営みがあったからであり、さらに、保護者の皆様、地域・関係団体の方々、諸先輩方のあたたかいご理解とご協力があったからこそであります。

 皆さんは、本日、晴れてこの歴史と伝統のある学校の生徒になりました。銅駝美術工芸高校の生徒としてしっかりとした自覚と誇りをもって、新たな歴史を築いてほしいと思います。高校生活は、社会で自立して生きていく大人になる準備期間です。これまでの義務教育とは異なり、自己選択、自己決定を求められます。また自己理解、他者理解を一層深める時期でもあります。自らを鍛え、他者と言葉を交わし、大人への階段を上って下さい。

 皆さんの新しい始まりの日、校長として2つの「ひらく」ということについてお話しします。
 一つ目は閉じた状態を「ひらく」、「開」(カイ)という字の、「開く」です。皆さんは入学すると、新しい教室の扉を開き、新しい教科書や参考書を開き、画材を開き、授業開きとなります、「開く」ことで新しい活動が始まり、新しいつながりが出来ます。中学校まで、毎年4月にはそのような新鮮な出会いと経験を重ねてきたでしょう。高校に入学した皆さんに、私が特に求めたいことは「自分を開く」ということです。これまでの生活でつながりを持っていたのは、小学校、中学校のある、地元を中心にした限られた範囲だったと思います。その中で、皆さんなりの人間関係をつくり、活動をしてきました。居心地の良い関係ばかりではなく時には辛い、悲しい思いをしたかもしれません。学校では好きな科目、得意な科目に対して、嫌いな科目、苦手な科目もあったでしょう。様々な思い出、様々な経験を抱えてて高校へ入学してきたことと思いますが、一旦それはあなたの体からおろしましょう。大切なことは、忘れるのではなく、おろすのです。なぜなら、そのつながりや出来事がどんな中身であれ、そのことを経験し、悩み、乗り越えて今のあなたが存在するからです。なかったことにせず、その時の自分を否定せず、ここまで成長した今のありのままのあなたをまず大切にしましょう。そして、これまでまったく知らなかった90名の仲間、初めて付き合いが始まる先生に対して、先入観を持たず、自分を閉ざさず、これまでの自分にこだわらず、自分を開いて接してほしいのです。科目の好き嫌いや、得意不得意もいったんリセットし、興味関心の入口を広げ、新鮮な気持ちで学び始めて下さい。
 そして二つ目の「ひらく」。これは何もない荒れ地を切りひらく、「拓」(タク)という字の「拓く」です。皆さんは、これから銅駝美術工芸高校の生徒として「自分を開く」ことで、人のつながりや知識・教養、ものの見方や考え方、感性やスキル、創造力や表現力を広げることができます。そして、皆さんの心もからだも能力もこれまでよりもっともっとしなやかさや深さ、たくましさをつけることができます。つまり「自分を開く」ことが、これまでの自分を変え、自分を成長させ、「自分の未来を拓く」ことになるのです。
 京都造形芸術大学の千住 博さんは、『わたしが芸術について語るなら』という書物の中で、「芸術とはイマジネーションをコミュニケーションしていくこと」「自分の考えを何とかして伝えたいという行動が生むもの」であるとし「芸術とふれあって自分と異なる考え方の人を認め、いろいろな意見があるのだなということを知り、しかし、私たちは皆同じ人間なのだなということにも気づいて心を通わせる」ことだと述べています。

 美術を学ぶことを志して入学してきた皆さん。本校は美術を学ぶだけでなく、幅広い物事に出会い、仲間や先生と様々なコミュニケーションをとり、自分を高め、「自分の未来を拓く」力を身につける学校です。本校での一日一日が未来のあなたをつくります。

 最後に、谷川俊太郎さんの「明日(あす)」という詩を紹介します。

ひとつの小さな約束があるといい
明日に向かって
ノートの片隅に書きとめた時と所
そこで出会う古い友だちの新しい表情

ひとつの小さな予言があるといい
明日を信じて
テレヴィの画面に現れる雲の渦巻き
〈曇のち晴〉天気予報のつつましい口調

ひとつの小さな願いがあるといい
明日を想って
夜の間に支度する心のときめき
もう耳に聞く風のささやき川のせせらぎ

ひとつの小さな夢があるといい
明日のために
くらやみから湧いてくる未知の力が
私たちをまばゆい朝へと開いてくれる

だが明日は明日のままでは
いつまでもひとつの幻
明日は今日になってこそ
生きることができる

ひとつのたしかな今日があるといい
明日に向かって
歩き慣れた細道が地平へと続き
この今日のうちにすでに明日はひそんでいる

 今日から始まる銅駝美術工芸高校での生活。皆さんが、「明日」の自分を思いながら、「今日」を大切に生きる、そのような素晴らしい「今日」を一日一日重ねていってくれることを心より願い、式辞といたします。

 平成二十八年四月八日

        京都市立銅駝美術工芸高等学校長  吉田 功

(アーカイブ2016年4月1日) 新年度のご挨拶

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 桜花爛漫の中、平成28年度が始まりました。

 4月8日には新入生を迎え、新年度の学校生活が始まります。新年度にあたり、一言ご挨拶申し上げます。

 本校は明治13年(1880)年に、日本最初の美術学校「京都府画学校」として創立し、今年度で136年目、日吉ケ丘高等学校美術コースから現在の校地に独立開校して36年目となります。尋常小学校、銅駝中学校の跡地に開校した本校の校舎は、アールデコ様式の重厚で趣のある建物で、本館の廊下や、教室は板張りです。毎年、春季休業中には油引きを行いますので、その直後は独特の匂いがしますが、新学期が始まるころには、それもおさまり、柔らかく光る、艶のある姿になります。廊下や床を歩けば、板張りならではの音がして少々軋むこともありますが、不思議と耳障りではなく、温かみと深みのある余韻が残ります。その余韻は、この廊下、教室を油引きを重ねながら大切に使われてきた学び舎の歴史とともに、児童、生徒、教職員で取り組まれてきた教育の営みの歴史を想いおこさせます。もちろん本校の教育活動は、保護者や卒業生、地域や団体、教育機関、市民のご理解とご支援をいただいてこそ今まで継続してくることができました。あらためて感謝申し上げます。

 国の教育改革においては、この3月末に高等学校教育、大学教育、大学入学者選抜の一体改革として検討されてきた「高大接続システム改革」の最終報告が発表されました。その中では、教育課程の見直し、学習指導方法の改善、教員の指導力の向上、多面的評価の充実、高等学校基礎学力テスト(仮称)の導入や、大学入学者選抜の改革、大学入学希望者学力評価テスト(仮称)の導入が示されています。また、アクティブ・ラーニング、ICT機器の活用、グローバル化への対応など社会情勢を踏まえた諸課題について積極的推進が求められているところです。

 本校では、京都市教育委員会の支援のもと、平成26年度に校内WiFi環境の整備、タブレット端末としてiPadを導入し、授業・学習指導方法の改革に取り組んでまいりました。そして平成28年度入学生からは、保護者のご理解を得てiPadを全員購入していただき、生徒自身のタブレットを教具として校内に持ち込む(BYOD=Bring Your Own Device)環境で教育活動を進めることにいたしました。ICT機器を積極的に活用しながら、一方でICT機器だけに振り回されない豊かな授業、効果のある丁寧な指導を、2年生、3年生も含めて進めてまいります。そして歴史と伝統をふまえ地域との接点を大切にしながら、グローバルな視点で芸術を学ぶ取り組みも進めてまいります。また、障害者に対する「合理的配慮の実施」が明確にされた障害者差別解消法が、4月1日に施行されました。これまでから総合育成支援教育について取り組んでまいりましたが、これを機に研修を深め、学校体制をさらに整備しながら、困りを抱えた生徒への丁寧な指導、支援を進めてまいります。

 平成16年度(2004)年に1科8専攻の美術工芸科への改編という学校改革をして12年が過ぎ、その総括を踏まえ、平成27年度には、これからの本校の在り方を検討しその将来構想をまとめました。歴史と伝統のある美術高校として、未来に向けてさらに飛躍、発展していくために、平成28年度を新しいステージに向かう「改革元年」として、教育活動に力を尽くしてまいります。

 本校教育に、今後ともご理解、ご支援のほど、どうぞよろしくお願いいたします。

平成28年(2016)4月1日 
                  校長 吉田 功  

(アーカイブ2016年3月18日) 終業式  次のステージ 次の自分に

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 本日、終業式。今年度、最後の日となりました。1年生は、春休み中に、大切な学校行事「美術見学旅行」があります。しっかり研修してきてください。

 さて、去年の終業式、1年生はどこにいましたか? 1年前、もちろん1年生はここにはいません。中学校を卒業し、銅駝に入学する準備をし始めた頃です。2年生は、今の場所に座っていなくて、今の1年生のところに座っていました。来年の終業式には、1年生は今の2年生の所に座って居るはずです。2年生は卒業してしまってここにはいません。

 1年単位で考えたら、高校3年間は、ここに居なかった自分がここに座り、隣りの学年の場所に移って、そしてそこからいなくなる。それだけのことです。しかし高校3年間はそんなに軽いものではない、とみんなは反論したくなりますよね。その通りです。そんなに軽いもの、簡単なものではありません。けれど、今年度1年間、そう思って一日一日を大事に過ごせたでしょうか。1年経てば同じ季節が巡ってきますが、同じ季節が来ても、座る「位置が変わる」ということは、人として、「次のステージ」に移っていくということです。同じ季節が来ても、もう1年前とは「違う自分」になっているということです。 

 「違う自分」今年度を振り返って、1年前と「違う自分」になった、そう実感できていますか。相変わらずの自分ですか、成長しましたか、ちゃんと大人に近づきましたか。自分のいる位置が変われば、同じものを見ていても形が変わって見える、影の形も違う、美術を学んでいる皆さんは十分知っていることです。位置が変わっても、相変わらずの自分ではいけません。もし悩み事があったとしても同じことで同じ悩み方をしていてはいけません。解決の糸口を見つけ出しましょう。

 皆さんは4月から新しい学年、新しいステージに立ちます。来年の春、自分で納得できる、「違う自分」「次の自分」になっているために、春休みの約3週間、この1年間の自分を振り返り、これから1年後の「なりたい自分、なっていたい自分」の姿をイメージしておいてください。
私も1年先、見た目はしわが1本増え、髪の毛が10本くらい抜けているかもしれないけれど、「違う自分」「次の自分」になっていられるよう、4月から何をすべきか、この春休みに考えたいと思います。

 では、この春休み、今日の話を頭のどこかで点滅させながら過ごしてください。

2016年3月18日 終業式    
               校長 吉田 功

(アーカイブ2016年3月11日) 3月11日

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 3月11日 あの東日本大震災が発生して5年目を迎えます。あの震災で大切な方を亡くされた方、大切なものを失われた方、生活の場所を離れなければならなくなった方、体や心に傷を負われた方、今なお行方不明の方、そういう方々のことを思い心が痛みます。

 本日11日、本校でも防災避難訓練を実施し、改めて防災に対する危機管理、命を守る行動への意識と実践力を高める取り組みを行いました。

 本校に在籍する清水里織さんは、震災前宮城県に住んでいましたが、震災の影響で中学に入ると同時に京都に引っ越し、2年前本校に入学してきました。親戚や友達が宮城にいながら自分の家族だけが引っ越したことが苦しみであり悲しみであった、一緒に支え合いたいのに何もすることができないという自分にもどかしさを感じていた、と言います。本校に入学して「あなたの絵を贈ろう」という震災復興支援の取り組みと出会い、自分も力になれるとこの活動に関わってきました。「こんなに誰かを思って絵を描いたのは初めてだった。言葉にはできないけれどこの絵を見た方に私の想いが伝わるように精一杯描いた。」そう振り返っています。

 この活動は被災地の宮城県宮城野高校、東北生活文化大学高等学校、仙台二華中学校・高等学校と、北海道おといねっぷ美術工芸高校、そして銅駝美術工芸高校が一緒になって取り組んできた「復興へ!高校生が架ける虹のアートプロジェクト」の一つで、校内での支援の呼びかけに応えて生徒が絵を描き被災地の皆さんにプレゼントしてきました。このプロジェクトをきっかけに本校は宮城県宮城野高校美術科との交流が始まり、生徒会の代表生徒を夏休みに宮城県へ派遣し、津波の被害があった現場や仮設住宅を訪問し、現地の方からお話を聴いたり、高校生と交流したりし、学校へ戻って全校生徒に報告するという活動が始まりました。また宮城野高校美術科の生徒の皆さんが研修旅行で京都、奈良を訪れた際、本校に立ち寄っていただき生徒どうしの交流会を行ってきました。清水さん自身も夏休みに帰省を兼ねて生徒会代表生徒とともに現地に行った際、仮設住宅の住民の方が、高校生の作品を熱心に見ていただきながら「毎年このイベントが楽しみなんです」「絵を部屋に飾るだけで部屋も気分も明るくなるんです」と声をかけていただく経験をし、「自分が学んでいる芸術にはこんなに素晴らしい力があるんだ」と気づきました。
 
 3月11日が来るたび、私は、震災から10日遅れで行われた気仙沼市立階上中学校の卒業式で梶原裕太さんが読んだ答辞を思い出します。「階上中学といえば『防災教育』と言われ、内外から高く評価され、十分な訓練もしていた私たちでした。しかし、自然の猛威の前には人間の力はあまりにも無力で、私たちから大切なものを容赦なく奪っていきました。天が与えた試練というには、むごすぎるものでした。つらくて、悔しくてたまりません。時計の針は十四時四十六分を指したままです。でも時は確実に流れています。生かされた者として、顔を上げ、常に思いやりの心を持ち、強く、正しく、たくましく生きていかなければなりません。命の重さを知るには大きすぎる代償でした。しかし、苦境にあっても、天を恨まず、運命に耐え、助け合って生きていくことが、これからの私たちの使命です」。この思い、決意の言葉に触れ、被災地から離れた私たち自身も震災から何を学び、何をなすべきか、ずっと問われているのだと思っています。

 美術を学ぶ本校の生徒が、専門高校としてその特殊性を大切にし専門的な力を伸ばしながら、社会の諸課題との接点を持ち、問いを重ね、課題に立ち向かう普遍的な力を身につけて未来の担い手に育ってほしいと願っています。


 2016年3月11日     校長 吉田 功

(アーカイブ2016年3月1日)第36回卒業式 式辞

             式 辞

 風光る三月を迎え、巣立ちの日を知っていたかのような名残の雪に包まれる今日の佳き日、京都市教育委員会をはじめ、PTA役員の皆様、並びに、多大なご支援をいただいております、京都パレスライオンズクラブ、交友会、銅駝自治連合会よりお越しくださいましたご来賓の皆様、そして多数の保護者の皆様のご臨席を賜り、第三十六回京都市立銅駝美術工芸高等学校卒業式を挙行できますことを、心より感謝し、教職員を代表いたしましてお礼申し上げます。

 先ほど、九十一名の生徒の皆さんに、卒業証書を授与いたしました。卒業生の皆さん、ご卒業おめでとうございます。三年間の学びを全うし、ここに晴れて卒業の日を迎えられたこと、心よりお祝い申し上げます。
 保護者の皆様、お子様のご卒業、誠におめでとうございます。お子様は立派に本校での学びを遂げられ、大きく成長されました。この三年間、本校の教育活動に深いご理解と温かいご協力を賜りましたこと、高い所からではございますが厚くお礼申し上げます。
 卒業生の皆さん、皆さんは明治十三年、一八八○年に創立された京都府画学校以来一三六年の歴史と伝統をもつ美術学校の卒業生として、社会に巣立ちます。その誇りと大きな志をもって、新しい歩みを始めてください。

 卒業する皆さんに二つのことをお話しします。
 私は、昨年の夏、長野県上田市にある無言館という美術館を訪問しました。そのきっかけになったのは、十年前京都で開かれた展覧会で、その美術館の所蔵する絵を見たことに始まります。作品は、すべて戦争で兵士として召集され、志半ばで画家になる夢を断たれた戦没画学生のものです。画学生が制作した家族や風景、自画像などの作品を鑑賞するにあたり、作者が出征する直前まで絵筆を動かしていた戦没画学生であるという情報が加わると、その作品はさらに無数の意味を生み出し、鑑賞者の心を揺さぶります。展覧会で購入した図録を書棚に置きながら、いつか長野県上田市にある無言館を訪問したいと思い、十年が経ちました。今年こそ、と私を突き動かしたのは、昨年四月本校に着任して、その無言館に、皆さんの先輩にあたる京都市立美術工芸学校卒業生の工芸作品が所蔵されているとわかったからです。無言館の静寂の中、作品と向き合った私は、戦後七○年の歳月を越え、画学生の創作、表現した作品から様々な問いを投げかけられた思いでした。皆さんは、三年間本校で美術を学び、対象と向き合い、思索を巡らして多くの作品を創作してきました。どうかこれからも、一人の人間として対象にしっかり向き合うこと、自分の体全身で対象を受け止めてしっかり考えることを、たゆまず続けて下さい。美術の創作活動に限らず、十八歳選挙権が実現した今、社会の諸課題と向き合い、グローバルな視点をもって、問いを重ね、行動してください。

 二つ目の話。私は昨年四月に本校に着任し、皆さんと出会い、皆さんの学びに関わることをきっかけに、今までの人生ではなかったほど多くの美術作品を見る機会を得ました。私は今、「見る」と言いましたが、人間の得る情報の八割から九割は、「視覚」に由来すると言われています。ならば、「目の見えない」人は美術作品を鑑賞するという素晴らしい経験をできないのか。東京工業大学リベアルアーツセンター准教授の伊藤亜紗さんは、その著書『目の見えない人は世界をどう見ているのか』で、この問いに鋭く迫っています。「目の見えない」ことと、「目をつぶる」ことは違う、と伊藤さんは言います。「目をつぶる」ことは視覚情報の遮断。「目の見えない」ことは、単なる情報の遮断ではなく、違う形でものを見ているのだと。そして、二〇一三年、水戸芸術館で開催された「視覚に障害がある人との鑑賞ツアー」に参加し、これまでの自分の思考を転換します。この鑑賞は、「目の見えない」人が、手の触覚を通して立体作品に触れるものではありません。「目の見える」人が「目の見えない」人に解説をするものでもありません。では、どうやって「見る」のか。それは、グループに分かれて、「目の見える」人がどんな作品かという情報を「目の見えない」人に伝え、「目の見えない」人が「目の見える」人に質問をし、作品についてみんなで語り合いながら鑑賞を進めるという方法です。「ソーシャル・ビュー」と呼ばれるこのワークショップは、「見えるか見えないか」という視覚に左右されるのではなく、決定的に重要なものは「言葉」です。作品に関する客観的な情報を共有しながら、主観的な意味・解釈について論じるプロセスが要となるこの活動は、「目の見える」人にとっても新鮮で、「美術作品は視覚で鑑賞する」ということを当たり前だと考えていては成立しない経験です。「当たり前からの脱却」。このことを皆さんに贈ります。二十世紀は、情報処理力が求められ、一つの正解を速く見つけるというジグソーパズル型学力を身につけること、みんなが一緒であることに重きをおく社会であった。それに対し二十一世紀は、情報編集力、様々な情報から納得できる解を導き出す力、レゴ型学力を身につけること、一人一人の個性、特性を大切にする社会へと転換している、そう言われています。違いを認め合いながら斬新な発想を出し合い、共に課題解決することで、みんなが納得できる解を見つけることが、社会をより良い方向へ発展させていくのだと思います。
 先日インターネット上で話題になった東北芸術工科大学プロダクトデザイン学科四回生の鈴木完吾さんは卒業制作として、自作の四〇七個の木製パーツを組み合わせ、時刻を書いて知らせる「書き時計」を制作しました。本人曰く、「人間がやったら単純なことでも機械がやったら大変なこと」を機械にさせてみたのだと。彼の発想は、「人間がやるには複雑なことを機械にさせて早く簡単に済ませる」という、誰もが疑わない現代の「当たり前」をひっくり返したわけです。モノと情報があふれ、簡便性、スピードの速さに価値の優位が与えられる社会であっても、皆さんが「違い」を壁や優劣としない、出てきた結果だけで評価を決めるのではない、「当たり前からの脱却」「当たり前を疑う」観点と、他者と言葉を交わす事を大切にして、創作活動、そして課題発見、課題解決に果敢に挑戦されることを、強く望みます。

 銅駝美術工芸高校で、感性を磨き、豊かな発想力で作品を制作してきた皆さん、この世になかったものを新たに創造してきた皆さんの成長は、本校の誇りです。本校で学んだこと、出会った人々、経験したすべてをかけがえのない宝物として、胸を張って社会に出て行って下さい。目の前に現れるのは「壁」ではない、ひるむことなく、必ず開けられる「扉」だと信じ、自らの手で「扉」の向こうへ進んでください。GReeeenの「扉」という曲の歌詞「新しい扉のその先に きっと出会える 次の自分に」というフレーズに思い込め、皆さんの未来が輝くこと、そして皆さんが未来を輝かせてくれることを願い、式辞といたします。

 平成二十八年三月一日
          
  京都市立銅駝美術工芸高等学校     校長 吉田 功 

(アーカイブ2016年2月17日)  風光る

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 立春が過ぎると、まだ寒さが残る日と春の気配を感じる暖かい日が交互に訪れます。歳時記には「余寒」「冴返る」とともに「春めく」「春兆す」という季語が出てきて、2月から3月のこの頃の気候をうまく表現した日本語に出会います。

 2月に入ると3年生は、学校が定めた登校日以外の日、卒業準備の期間として思い思いの時間の使い方をします。もちろん国公立大学二次試験、私立大学一般入試を受験する生徒は、まだまだ勉強の真っ最中。学校では美術系大学実技試験に向けた補習を行っており、真剣な眼差しで、毎日長時間、課題に取り組んでいます。中には画塾へ通って実技試験に備える生徒もいて、受験生は気を緩めることなく果敢に進路目標に挑んでいます。

 一方、すでに進路先が決定している生徒の中には、卒業に向けた思い出の品の制作に取り掛かっている姿もみられます。私も先日依頼を受けていた原稿を手渡したところです。預かった2枚の紙、1枚はメッセージ、1枚は名前を書いてほしいとの依頼でした。これまで挨拶やメッセージ、原稿を書く機会は数え切れないほどありましたが、今回、ただメッセージを書くだけでは、と大それたことを考え始め、結局、全くの素人ながらその紙に絵を描くことにしました。当然のことながら生徒のような素晴らしい作品にはなりません。小学校の時以来「社会」の次に好きな科目が「図画工作」、高校時代も美術と工芸を選択した経歴(?)をもとに、拙い技量ながら銅駝美術工芸高校の校舎とグラウンドを色鉛筆で描きました。昨年4月に着任して以来、季節の移り変わりとともに眺めてきた本校の校舎、まだ少し冷たさが残る風に凛とした姿を見せている校舎の姿を、私なりの思いで小さい紙に残しました。

 「風光る」。私の好きな季語です。春の気配を感じる日差しの中で新しい生命が生まれ、木々が芽吹く季節、本来色のない風に輝きを感じるという、何とも美しい言葉です。
卒業を間近に控え、高校生活の思い出を束ねて形にしようとする生徒、新しい進路を目指してひたむきに努力し挑戦している生徒。「風光る」季節。静けさの中に確かな息吹を感じる日々が続いています。

 そして今、中学3年生が、新しい進路を目指して力を尽くす高校入試が始まっています。本校も前期選抜入試を16日、17日に行いました。検査会場の様子は、頑張れと心の中で叫びたくなるような一所懸命な姿ばかりでした。

 成長した高校生の巣立ち、新しい生徒を迎える準備。「風光る」季節の学校は、一年の中でも特別な時間を刻んでいます。

2016年2月17日       
             校長 吉田 功


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9/2 2年実技模試
9/4 3年センター試験説明会(放課後)

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