京都市立学校・幼稚園
最新更新日:2024/05/20
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中学3年生対象「実技講習会」(6/8開催)の申込は、来週24日(金)17時までとなっています。参加希望の方は、本校ホームページのトップ画面左側のカテゴリ「中学生のみなさんへ」をクリック!そこから申し込みをしてください。

(アーカイブ2016年12月12日) 他者を感じる 他者に想いを馳せる

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 11月末に、全国高等学校長協会 人権教育研究協議会 熊本大会が開催され、参加してきました。研究協議会は月曜日の午後からでしたが、熊本へは前日の日曜日に入りました。それは、震災によって損壊した熊本城の状況を見たかったこと、もう一つは、本校生徒が行った2回目の熊本震災復興支援募金活動で集まった募金を直接熊本県庁へ届けるためです。熊本到着後熊本城へ向かいましたが、現在中へ入ることはできません。堀より外の駐車場や周辺道路からしか見ることはできませんが、それでも城壁の崩落や天守閣の損壊がはっきり見えました。明治初めにも地震の被害を受けたそうですが、今回の被害は、17世紀初めに加藤清正が築城して以来最大の規模だそうです。そして築石の修復は、震災前の写真や図面をもとにすべて番号をつけて位置を特定した上でもとに戻すため、周りの建造物の復旧も含めて城の復興には約20年かかるとのことでした。翌日午前中に熊本県庁へ出向き、募金を渡した担当主任の方からも復興事業のたいへんさを聞きました。熊本城は単に歴史的建造物、観光の名所だけでなく、熊本の人々にとって日常生活とともにあるシンボルであり、永きに渡り損壊の姿を目にし続けることの哀しみはいかばかりかと思いました。

 先日、NHKのETV特集で「15歳 私たちが見つけたもの 熊本震災 3年3組の半年」を観ました。私は今回熊本市内のごく一部しか見ていませんが、番組では震源地となった益城町の中学生が取り上げられていました。震災の甚大な被害の映像は重いものでした。震災のあと、我が家に住めず離れたところに住むことを余儀なくされた、あるいは違う中学校へ一時通わなければならなかった中学生。授業や行事、クラブ活動、そして進路。中学生最後の大切な時期に “日常”が一瞬にして寸断され、思いもしなかった生活を送ることになった中学生の葛藤や悩み、苦しみ、そして様々なきっかけでそれを乗り越える力を呼び醒ます姿を観ました。この厳しい状況で支えになっていたのは、人と人の繋がりと思いやりです。地域にとって子どもや学校はとても大切な存在であるということも改めて痛感しました。損壊した我が家が解体される日、中学生が言葉で表せないような哀しい眼差しで見つめる中、祖母が「積み上げていくのはたいへんだけど崩すのは簡単」と言った言葉が印象に残っています。

 “当たり前の日常”に浸かり切っていてその“日常”の中にある大事なものに気づかなかったり、軽く流してはいないだろうか、その大事なものをかけがえのないものだと認識しながらしっかり守っていくことで、“特別”な出来事、“非日常”に遭遇した時にそれを乗り越える力を引き出せるのだと思います。映像の中で様々な壁に直面する中学生が、それを乗り越えて成長する姿を観ていると、乗り越える支えになっているのは、言葉でのやりとりだけでなく言葉に出さなくても“日常”の中で中学生一人ひとりの中に醸成されてきた他者を感じる力、他者に想いを馳せる力ではないかと思いました。

 本校生徒の東日本大震災、熊本震災への復興支援の活動は今も続いています。“特別”な出来事に対する“特別”な想いと行動をたいへんうれしく思っており、大いに支えていきたいと思っています。加えて“日常”の中で他者を感じる力、他者に想いを馳せる力が生徒の一人ひとりの中に醸成されていくことを願ってやみません。
 
2016年12月12日        
              校長  吉田 功

(アーカイブ2016年11月21日) 未来をひらく学び

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 11月19日(土)、「第14回S&Eフォーラム」が開催され、本校も発表生徒と見学生徒9名が参加しました。このフォーラムは、高等学校コンソーシアム京都と洛南ライオンズクラブの共催で開催されたもので、高校生と企業経営者、人事担当の方々が一堂に会し、特に専門学科、専門コースの生徒が日頃の課題研究の成果を発表し、午後は高校生と企業の方と懇談をしてキャリア意識の向上を図る企画です。

 今回の発表は、市立高校では、銅駝美術工芸高校(京の美を探る〜明治建築に見る美と価値)の他に、日吉ケ丘高校(私たち日吉ケ丘高校国際コミュニケーションコースです)、伏見工業高校(空間情報技術を活用した伏見工業高校における3D-VRの構築)、洛陽工業高校(小学生に教えるプログラミング教室)、そして府立高校では、田辺高校(田辺高校自動車部の取組)、南丹高校(総合学科テクニカル工学系列の取組)、桂高校(極太九条ネギを未来へ〜新たな機能性の発掘へ)、北桑田高校(木でつなぐ)、そして昨年度に続いて今回も市立大原中学校(大原に移動動物園を/1Dayライブラリー/大原八朔踊り)が参加しました。タイトルからもわかるように、高校は専門分野の発表が中心で全く異なる専門分野で学ぶ生徒が聴いて興味をもつのだろうかと思われがちですが、実際は全く逆。どの発表も参加者を引きつける興味深い内容でした。

 各学校の取り組みで注目すべきは、まず、企業やNPO法人、行政機関、諸施設、イベント実行委員会など、学校外の人々とつながり、そのつながりの中で調査、聞き取りし、またヒントや支援をもらいながら研究課題を深め、解決の糸口を見出そうとしたこと。2つ目には、取り組みの途中でうまくいかなかったり、予想と異なったりしたときに、解決のために修正したり立ち止まって別の方法を考えたこと。3つ目には、取り組んだ成果を自分たちだけにとどめず、地域の小学生、中学生に体験の機会をつくったり、イベントで記念グッズにしたり、試食してもらったり、施設と共同で開発したり、またコンテストや大会に挑戦したりしたこと。さらに今回特筆すべきは、発表の後、参加している高校生から積極的な質問が出され、鋭い質問にも発表者が精いっぱい答えていた姿です。驚きや気づき、もっと聞きたいという気持ちになる発表ばかりで、発表が終わるたびに、大きな称賛の拍手が贈られました。

 美術工芸を専門に学ぶ本校の生徒も、普段仲間と学んでいる分野とは別世界の話を聴けて大いに刺激になったようです。本校の発表、総合的な学習の時間「美術探求」は、「作品との対面力を養う」というねらいがあります。「表現者としての自己」と向き合い「表現するとは何か」「美とは何か」という“答えのない問い”に向かい続ける学びを進めています。本校の発表の後、他校の高校生から「グループで学習するときは、話し合って1つの答えを見つける、答えに到達することが目標なのに、答えのない問いに向かうというのはどういうことか」という鋭い質問がありました。本校生徒の答えは、「美術を学ぶ私たちは作品を制作するが、作品の制作にはこれが正解という答えがない。美とは何か、自分が何に美の価値を見出すかということを一人一人が出し合うことに学びの意義がある」、と。秀逸でした。

 このフォーラムで生徒たちが見せた学びの姿は、まさしく21世紀に生きていく上で必要な「主体的な学び」「対話的な学び」「深い学び」。多様な専門分野の学びを貫く、普遍的に大切なもの再認識するフォーラムでした。 

2016年11月21日
             校長 吉田 功


(アーカイブ2016年10月31日)  時間を創る

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 後期始業式に、時間を「創る」という話をしました。1分は60秒、1時間は60分、1日は24時間、誰にとっても長さは同じで、それを変えることはできないけれども、その時間の中身はいかようにも「創る」ことができる。これからの時間をどのように「創る」か、そのことを大事に考えて後期を過ごしてほしいと話しました。時間の中身を充実させて豊かな時間を生きる、ということを伝えたかったのです。

 10月初めの美工作品展4日間で7200名を超える方々にご来場いただき、作品を観ていただきました。作品制作は、様々な悩みや苦しみもあったでしょうが、自分の力を出し切って完成させた作品。その制作していた時間は、言葉で簡単に表現できないような濃密な時間であっただろうと思います。作品を自分の手から離して展示をすると、今度は鑑賞者の心に様々な感動を与え、鑑賞者にとっても豊かな時間になったと思います。私も作品一つ一つを鑑賞しながら、あの生徒がこの作品を、とか、あの生徒が実習室で取り組んでいた作品はこんな風になったん、と心を揺さぶられました。 美工作品展が一つの大きな目標であるため、美工作品展が終わると空虚な気持ちになるかもしれません。しかし、 美工作品展は大事な到達点であると同時に次に向かうスタート地点でもあります。次の扉を開けてまた豊かで中身のある時間を創ってほしいと強く願っています。

 先日、前任校で12年前に卒業した教え子10名ほどと会う機会がありました。卒業後も1年に1回は会う機会をつくってくれて色々な話をして盛り上がります。その学年と過ごした3年間は本当に濃密な3年間で、「過ごした」というよりもやはり一緒に時間を「創った」という感があります。いろんなことが起こったし、いろんなことを乗り越えた、担任として、学年主任として彼ら彼女らの成長と関わりながら、発見や、気づき、喜びがたくさんありました。ある生徒は、この学校での出会いと経験は一生の宝だという言葉を残しています。生徒たちが時間を「創る」ことができたのは、多様な人や学びに出会ったこと、積極的に様々な経験をしたこと、人とつながったこと、失敗や行き詰まりを様々な方法でやり直したことがあったからだと思います。彼ら彼女らは、今は、仕事や子育てをしながらさらに先の夢をもってたくましく生きています。12年経っても私の方が刺激を受けることがいっぱいありました。

 10月21日は、全学年美術見学の日でした。2・3年生は専攻別に研修。1年生は「京の美を探る」というテーマで市内フィールドワークに出かけました。これは、各グループの研究テーマに合わせて、京都の伝統・文化・学術に関わる施設や工房など訪問させていただき調査、体験、情報収集をしてくるもので、事前学習、事後の研究まとめの作成、発表に至るまで丁寧に積み上げていく学習です。私は、午前・午後3か所ほど生徒の様子を見に行きましたが、1年生ながら礼儀正しく熱心に取り組んでいました。iPadや書籍等で事前に調査しただけでは見えなかったものを、現地で体感し、しっかり聴き取りもしてくるという濃い内容を、グループに分かれた数名の生徒だけでやりきってきたことは立派でした。教室内の学習では得られない時間を「創って」きました。そして生徒のそういう姿を見て、私自身も新鮮で豊かな時間に身をおくことがきました。
 
 「時間が過ぎる」というより「時間を創る」。
銅駝の生徒とはまだ2年間の付き合いですが、日々発見、納得、感心し、自分自身が取り組むべき課題に気づかされています。まさに銅駝の生徒と新しい時間を「創っている」真っ最中です。 

2016年10月31日
            校長 吉田 功   

(アーカイブ2016年10月7日)  経験を力に

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 10月4日、前期終業式にあたり、私の「ひじき嫌い」の話をしました。私は、長い間、食べ物の中で「ひじき」が嫌いでした。何よりも形が嫌い、色が嫌い、食感が嫌い、もちろん味も嫌いで、食卓に並んでも、弁当の副菜でついていても“姿を見せないで”、という心持ちでした。「しいたけ」も小さい頃から駄目でしたが、小学校高学年頃、そうめんのつゆがきっかけで「好き」に転じました。しかし、「ひじき」だけは人生長い間ずっと無理でした。それがある時、その場の雰囲気で久方ぶりに食べざるを得ない状況になって、しかたなく口に運びました。「あれ? いい味がする」、それが感想でした。よくある「ひじき」の煮物でしたが、頭の中で「おいしい!」という感覚が芽生えました。長らく「ひじき嫌い」で生きてきて、今から5年ほど前でしょうか、「おいしい」と思ったのです。そうなると、形も、色も、食感も、「嫌い」という感覚はいつのまにか失せました。今は、ひじきの煮物は好んで食べています。「ひじき」という食べ物を拒否しなくると、食事のときも、弁当を選ぶ時も、定食を食べる時も、最初から構えず、ゆったりした気持ちで過ごせます。

 終業式の話で校長の好き嫌いの話を言うのも、と思いましたが、そのことを前置きにして話したかったことは、「嫌い」「合わない」「無理」というような感覚で、すべてを拒否してしまいシャッターを下ろして鍵をかけてしまうのはいかがなものか、ということです。経験の広がりは、その上に積み上がる力や技量も大きく、厚く、多様になるだろうから、最初から経験の入口を狭めないでほしいということが言いたかったのです。これは、教科・科目の好き嫌いでも、他者との関係性においてもあてはまると思います。

 本校は2年生から専攻の学習が始まりますが、1年生の間は最初8分野の学習をすべて学習しながら専攻を徐々に絞っていく、一方1年生から2年生の間に専攻に関わりなく美術の基礎教育を共通で学びます。生徒はこの仕組みのなかで美術の学びを深めますが、高校入学時にすでにカチカチに固まっている普通科目の好き嫌い、あるいは得意不得意の感覚はなかなか克服できないようです。そして最近、生徒どうし、他者との関係においても、受けとめる入口が非常に狭いように見受けられます。悲しい、辛い、苦しい経験をあえて求める必要はないし、経験しない方がよいのは当然ですが、そういう経験を恐れるがあまり、最初から入口を狭く、さらには目の細かい網を張って限られたものだけを通すというスタンスは、物事への対応力、課題解決力、生きる力を弱めることになります。先入観やこれまでの経験則だけに頼らず、「経験は力になる」という構えで間口を狭めないこと、そして何かに直面した時は、困りを覆い隠したり辛抱するのではなく他者の支援を求め、「経験を力にする」行動に出てほしいと願っています。もちろん私たち教員は、その見守りと必要かつ適切なサポートしなければなりません。もっと言えば、まずは教員こそが自らの専門性によりかからず、間口を広げ、多様な経験をすべきなのだと思います。

2016年10月7日 
               校長  吉田 功 

(アーカイブ2016年8月31日) 過ぎゆく夏に

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 昨年、着任して以来、美術の実習授業をよく見に行っています。小学校の時から「図画工作」が一番好きな科目で、高校時代の芸術科目は「美術」「工芸」を選択したという私にとって、美術の専門高校の実習授業は強く興味をひかれます。もちろん普通科高校に通っていた私が取り組んだ課題とはかけ離れた内容ですが、生徒が、目を輝かして真剣な眼差しで制作に取り組んでいる姿に心を動かされています。そして率直なところ自分も「やってみたい」という気持ちをひそかにもちながら過ごしてきました。

 基礎、基本をしっかり学ばず興味本位で「やってみたい」というのはいかがなものか、と思ってきましたが、夏季休暇中の中学生対象のオープンスクール「わくわくART!」で、楽しそうに体験学習に取り組む中学生の姿を見ていて、子ども時代の自分の気持ちがもちあがってきました。美術専門高校に勤めているのだから、体験しておくのはきっと“プラス”になると自分に妙な言い聞かせをして、専攻の教員に「やってみたい」気持ちを打ち明けました。

 そんな経過で8月のはじめ、染織専攻の教員にお願いして、手ぬぐいの型染めを体験させてもらいました。専攻教員制作の夏らしい柄の型を使って、染料を合わせるところから指導してもらいました。染料の見た目の色合いと実際に布に色を置いた色合いとは異なります。また刷毛で布に色を付けるのは、紙に絵の具で色を付けるのとは全く異なる感覚。色を定着させるための処理、糊を落とすため水ですすぐ感触、水の中で染めた色が揺らぐ姿、糊が落ちて白い絵柄があらわれる美しさ。染織を実体験した約2時間は感動そのものでした。

 体験をしながら、作品を制作するということは、布や染料、使う道具についてよく知ることが大切だと専攻の教員から教えてもらいました。自らの感性や創作力、表現力を自由に発揮する作品制作という場面であっても、まずは謙虚に画材や道具について学ばなければならない、よく見ること、気持ちをしっかり対象に向けることの大切さを、自分自身が制作をしながら実感しました。生徒が学んでいることからすれば、ほんの一部分をかじった程度ですが、制作に取り組む基本を体で学んだ気がしました。

 この夏、生徒はそれぞれ貴重な経験をしたことと思います。布を染めるこの経験は、私にとってとても貴重でした。作品制作ということのみならず、対象と向き合う、よく観察する、気持ちを注ぐ、目と心を対象から逸らさない、これまでの経験だけで“処理”せず新鮮な気持ちで取り組む、教育という場面にも通じることだと思っています。

 2016年8月31日    
                  校長  吉田 功

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(アーカイブ2016年8月19日) 地域の中の学校

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 今年も8月15日、16日の2日間、本校グラウンドで、銅駝区民盆踊り大会が開催されました。16日はあいにくの大雨となり早めの終了となりましたが、両日ともたくさんの方が参加されました。グラウンド中央には櫓が組まれ提灯も吊るされます。小さい子どもさんから年配の方まで、また地域の方だけでなく外国人の旅行客も興味津津で会場へ。この盆踊り大会は今年で37回目。銅駝中学校が柳池中学校へ統合(その後京都池中学校へ統合)された37年前、地域の方が地元への熱い思いをもって銅駝音頭を手作りで作られ、毎年この盆踊り大会を盛大に開催されてきました。本校はその銅駝中学校の校地のあとに、日吉ケ丘高等学校美術コースから、美術専門の単独高校「銅駝美術工芸高等学校」として開校し37年目を迎えています。この間、地域の皆様のご理解ご支援をいただきながら教育活動を続けてきました。年月の重みを感じます。

 京都は明治の初めに全国に先駆けて、町内の住民の出資で小学校を設立・運営してきた歴史があります。1869年(明治2年)に開校した「上京第三十一番組小学校」は、1875年(明治8年)に「銅駝校」(銅駝尋常小学校)となり、戦後の学制改革で「銅駝中学校」となりました。現在の校舎は昭和期の校舎と言われ、たいへん趣のある重厚で温かみのある建物です。

 全国どこでも、地域における小学校・中学校に対する住民の思いはたいへん熱く深いものがあります。学校は地域の子どもの教育の場であることはもちろん、学校が地域のつながりのよりどころとなってきました。本校は美術専門の高校であり、地元中京区出身の生徒もわずかに在籍していますが、ほとんどの生徒は京都市全域、そして京都府下から通っています。また地元に専攻・学科が設置されていないということで他の都道府県からも本校に入学してくる生徒もいます。やはり高校は、小・中学校に比べると“地域の子ども”の学び場という色合いは薄れてくるのが一般的です。しかし本校が他の高校と異なる点は、住民に支えられ、地域の中心として歴史を歩んできた「銅駝」の校地を学び場として使わせていただいている点です。地域に出て行ってのスケッチや地元商店街での調査に基づく課題制作、地元の方をモデルになっていただいて人物画制作(似顔絵講座)、地元の協力による防災訓練、学校施設の地域開放、地域の集会場「銅駝会館」の教育活動での借用など、地域との相互理解の中でこそ実現できているものが数多くあります。ほとんどの生徒が地域外から通う学校であっても、地域によって支えられ、また見守られていることで、生徒は“地域”の大切さ、人と人とのつながり、相互支援、相互理解の大切さを経験的に学んでいます。かけがえのない教育環境だと思います。

 グローバル化の進む中、世界に目を向けた学び、国際理解の学習がますます重要になってきていますが、地域社会とのつながり、地域連携を基盤とした教育活動を充実させてこそだと考えています。美術専門高校としてこの地で開校して37年目、第37回銅駝区民盆踊り大会の開催を機に、あらためてその思いを深めたところです。

2016年8月19日
           校長 吉田 功



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(アーカイブ2016年7月11日) 普通って何?

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 ふだん“普通”という言葉を何気なくよく使います。「普通は〜こうであるはず」「普通〜そんなことはしない」。様々な事柄について、一般的、標準的なあり様が決まっていて、だからそのあり様から結論も決まっていて、そうでないものは、“特殊”“異常”“イレギュラー”。そういう展開になってしまいます。

 5月に植松電機専務取締役、カムイスペースワーク代表取締役の植松 努さんの講演を聴きました。植松さんは重機のマグネットを製造する会社を経営しながら宇宙開発の仕事、ロケットの開発もされています。補助金もなく、儲けにつながらない、“普通”は企業がやるはずがないことをやっています。なぜ? 植松さんいわく、「どうせ無理」をこの世からなくすため。植松さんは、小学校の時「ぼくのゆめ、わたしのゆめ」という作文で、自分でつくった潜水艦で世界の海を旅したいと書いて先生に叱られたそうです。「そんなこと無理に決まっているだろう」という大人の理屈で子どもの夢を否定される、そんな経験が背景にあります。子どもの頃の写真を見ると、全員がラジオ体操している横で、一人だけ土いじりをしている植松さんの写真も残っています。“普通”の子じゃないと思われていた植松さんは、いろんな“普通”があっていいと言います。

 7月6日、2年生の人権学習の講師として、ジェンダー・セクシュアリティ・フリーサークル「れいんぼー神戸」の内藤れんさんを招き、「LGBT」をテーマにした講演をしていただきました。L=レズビアン、G=ゲイ、B=バイセクシュアル、T=トランスジェンダーという、多様な性のあり方についてのお話を聴いた後、セクシャリマイノリティと呼ばれる人たちが直面する生きづらさ、正しい理解がないことによってどのようなことが起こるか、内藤さん自身の経験も含めて話していただきました。自分の経験と思い込みに基づく“普通”。その“普通”を他者に押しつける怖さを再認識しました。「理解できない」「自分とは異なる」ことを排除したり否定するのではなく、そのこととの共存を考える、という内藤さんのメッセージが胸に残っています。

 特別支援教育について十分認識できていなかった頃は、私たちは、“手がかかる”“言うことを聴かない”“皆と同じようにできない”“普通のことができない”、そんな風に生徒を評価し困りに気付きませんでした。多数の“普通”の生徒と少数の“目立つ”生徒という構図で生徒を観察し、“目立つ”生徒の努力不足に帰結させていたことの見直しから始めました。ありのまま生徒の状態からスタートして、その生徒の困りを理解し、どの生徒も“普通”に学ぶことができる教員のアプローチが求められています。

 “普通”って何?  この問いをもち続けたいと思います。銅駝美術工芸高校に赴任して1年3カ月。多様な表現力、発想力、感性をもった生徒と生活し、対話し、その作品にふれながら、“多彩”“多様”であることがこの世の中の“普通”なのだろうと思っています。中学生の時は、“自分はみんなと違う”“自分は普通じゃない、変わっている”そんな風に思っていたけれど、銅駝美術工芸高校に入学してそんな感覚は無用であると思った、そんな生徒の話を聴きました。多様なものを認め合う、のびのびとした豊かな空間、時間  銅駝の大切な校風です。そういう人やモノと旺盛に接点をもつことで、自分自身のものの見方、考え方は深まり、広がり、柔軟になります。それは喜びであり、楽しみであり、そして自分の感性や認識を研ぎ澄ますことにもなります。

2016年7月11日
           校長  吉田 功

(アーカイブ2016年6月20日)  余白

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 先日来、美術の授業で、「余白」という言葉がよく出されています。1年生「美術探求」では、日本美術史の中で「風神雷神図屏風」を教材に、時代、作者の異なる3点の作品について、グループワークを取り入れながら「風神」「雷神」の描き方、構図、その時代背景などについて意見を出し合いました。また1年生「表現基礎1」の授業では、モチーフ「タオル」「レモン」「植木鉢」の配置について、奥行き、広がり、余白といった観点が扱われたました。2年生の「表現基礎2」では、一人一人が水墨画の題材を描いた後、チームで大きな水墨画を描くという授業で、各メンバーが担当する「山」「川」「竹」「鳥」「魚」「猿」をどのように配置するか、どこまで描いて余白をどう残すかということを考えました。

 昨年、京都市学校歴史博物館で「日本画 余白の美」という企画展があり、本校の前身「京都府画学校」出身の上村松園さん、上村松篁さんらの作品が展示されました。その時の案内のチラシには「日本の絵画は『描かない』余白に大きな意味を込めて、空間の『遠さ』や『広がり』などを表現します。それが日本画独特の詩情を生み、鑑賞者は吸い込まれるように絵の世界に誘われるのです」と書かれていました。「余白」は「あまり」でも「未完成」でもなく、むしろその作品の成立に必要なものであるということでしょう。このことは写真や映像、立体物の作品でも、メインの対象物とそれ以外の部分との関係がとても重要で、その配置、構図によって素晴らしい表現が生まれるのだと思います。

 学校や学校生活の中にも「余白」が必要だと思っています。学校週五日制は「子どものたちの生活全体を見直し、ゆとりのある生活の中で、子どもたちが個性を生かしながら豊かな自己実現を図ることができるよう」「学校、家庭、地域社会の役割を明確にし、それぞれが協力して豊かな社会体験や自然体験などの様々な活動の機会を子どもたちに提供し、自ら学び自ら考える力や豊かな人間性などの『生きる力』をはぐくむことをねらい」(文部科学省HP)として2002年から完全実施となりました。しかしながら学力保障のため平日の授業時間数の増加や、土曜日や休日にある様々な学習活動や部活動、そしてそれを指導する教職員の勤務実態など、1週間の「詰まり」具合の実情には様々な課題があります。青春まっただ中の多感な生徒が、意欲と関心をもって精一杯エネルギーを注ぐ日常はとても大切で、一日が24時間では足らないという感覚をもっている生徒も多数います。しかしその一方で、学校での生徒の様々な表情、保健室の来室状況、発生する様々な出来事を見ていると、やはりどこかで心や体をニュートラルにする時間や空間がないと、新鮮で柔軟な発想や思考力、豊かな感性は伸ばせないと思います。そうなると、予想、期待通りに事態が進まなかった時、経験したことのない事態に直面した際に、そのことに向き合う心と体がスタンバイできず、解決する力も出せなくなってしまいます。このことは教職員の勤務実態にも通じるものがあります。

 「余白」はあまりでも余裕でもなく、豊かな教育に必要なもの  学校の日常において、必要な「余白」を、どこに、どのように保障するか、その観点を落とさないように学校の教育環境の整備、教育計画の立案・遂行をしていかなければならないと考えています。

2016年6月20日              
               校長 吉田 功

(アーカイブ2016年5月16日) ありふれた日常 特別な日

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 5月20日は体育祭。今年度から5月のこの時期に実施することとなり、6月末の文化祭と時期を分けることになりました。すでに、生徒会執行部の生徒が中心になって4月から少しずつ準備を重ねきました。教職員がサポートをするものの、これらの行事は生徒の自主的な思索と実践があってこそ成り立っています。

 体育祭、文化祭だけでなく、研修旅行や入学式、卒業式も含め、高等学習指導要領において「学校行事」としてくくられ、その目標は、「学校行事を通して、望ましい人間関係を形成し、集団への所属感や連帯感を深め、公共の精神を養い、協力してより良い学校生活や社会生活を築こうとする自主的、実践的な態度を育てる。」と書かれています。教科や総合的な活動の時間の学習だけでなく、これらの学校行事は生徒の成長にとって大きな学びの場であり、別の言い方をすれば、まさしく協働的な学習、課題解決学習、アクティブラーニングの場でもあると言えるでしょう。活動が盛り上がり、あるいは感動する展開となって成功すれば、「特別な日」は大切な思い出としていつまでも胸に残ります。行事の後は、個人も集団もひとまわり、ふたまわり成長して新しいステージに上がります。教職員は、クラスの生徒一人一人が積極的に参加し他の生徒と協力し合って成功を収めてくれること、生徒会が各クラスをうまくリードして、準備から当日の運営、後片付けまで上手くやりきってくれることを望むばかりです。

 しかし、生徒の特性や、性格、興味関心は多様で、簡単に“一枚岩”のようにはいきません。自分の思いを出し過ぎたり、自分の気持ちをどう出していいか戸惑ったり、メンバーの一言で気まずくなったり、またメンバーの動き方にイライラしたり、ついていけなかったり。これを単にトラブル、問題発生と捉えるか、成長の過程のドラマだと捉えるか。もちろん解決できないまま仲間を傷つけたり、いじめにつながるようなことはあってはならない。しかし、これまでの経験からすると、準備から当日まで和やかにスムーズに進むことのほうが稀だと思います。以前担任をしたクラスも、気持ちを合わすまでに時間がかかる、中々準備が進まない、一人突っ走り過ぎる生徒がいる、などいろいろありました。私は、毎日放課後、顔を出して声掛けはしていましたが、最終的に調整することには手を出さず、生徒に任せました。それは、4月から少しずつ“耕し”“水遣り”をしてきたクラスの“土壌”に期待したからです。“土壌”とは、生徒どうしで“醸成”“発酵”されてきた集団としての「社会力」*です。それでもうまくいかないことがあれば、私がきちんと“後始末を引き受ける”覚悟をしました。結果は、見事生徒の力で解決し、当日、生徒も私も納得、感動する出来上がり。思い出に残る特別な日となりました。

 特別な日が、特別な重みと感動をもって成功し、いつまでも思い出に残るためには、結局、特別ではない“ありふれた”日常の丁寧な営みが不可欠だと思います。“ありふれた”は、何もしない、平凡ということではなく、“一過性”“瞬発的”な盛り上がりに頼らない地道で継続的なアプローチという意味です。やはり、教育は日常の営みが左右するのだと思います。
 (「社会力」という言葉は門脇厚司著『子どもの社会力』より)
 
 2016年5月16日
               校長  吉田 功

(アーカイブ2016年4月22日) 個と集団から生まれるもの

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 新学期が始まって、約2週間が経ちました。新しい仲間、新しい先生との出会い、新しい科目、新しい授業を経験したところです。私は、機会を見つけて、できるだけ教室へ、グランドや体育館へ足を運び授業の様子を見に行っています。

 すでに学校のホームページでも紹介しましたが、4月14日、授業開始の初日、1年生は「美術入門研修」があり、午前中は京都国立近代美術館で、講義とグループごとの作品鑑賞、ディスカッションとまとめ、全体での発表と、スタートから盛りだくさんな内容でした。iPadも活用したこの学習では、一人一人の鑑賞を大切にしながらも仲間と言葉を交わし、気づきや意見を出し合うことで、自分の感じ方、考え方をより深めることができました。また、グループごとの発表を聴く中で、自分たちとは異なる作品に注目した発表、自分たちと同じ作品を取り上げても違う考えを述べた発表に触れ、より広がりをもった学びができました。

 1年生の専門科目「表現基礎1」では90名の生徒を3講座にし、3教室を割り当て各講座2名ずつの教員が担当します。学習内容を合わせつつ3講座3教室で並行して行うのはよくあるパターンですが、これまでの2回の授業は全員が体育館へ入って6人の教員が様々な役割をしながらチームで指導しました。1回目は「ひとを観察する〜身体に触れ、身体を感じて描くドローイング」、2回目は「ひかりを観察する〜光と影に触れ、光と影を感じて描くドローイング」でした。最初から各講座に分かれて授業をするのではなく、学年全員同じ場所で活動する学び。アイスブレイクを授業の導入に組み込み、教員から課題の提示があったあと90名の生徒が40数組のペアとなって進行します。対象を観察し紙に描くのはあくまで個人。しかし、学習する空間には、様々なポーズをとる生徒とそれを観察して描く生徒が40数組活動している。個別の教室の授業では経験できない、学びのエネルギーがあふれる、そんな授業でした。

 2年生の専門科目「表現基礎2」では、粘土を使った立体ワークショップが行われました。課題として出された言葉についての個々のイメージをグループ内で出し合い、1枚の紙に書き込んでいく。自分のイメージとは異なる仲間のイメージに触れることができる。続いて粘土を使って自分のイメージを立体表現。グループ内で個人が発表したのち、グループ協働で1つの立体表現をする。自分のイメージや表現と仲間のイメージや表現とを言葉を交わしながら、手や指を動かしながら融合させていく、この一連の学習の流れは、個人の観察と制作活動では経験できない深みと広がりを生み出します。そしてそれを講座全体に言葉で伝える、聴くという活動で、学びの質が高まります。今、普通科の科目でも、授業の様々な場面でペアワークやグループワークを積極的に取り入れています。

 Web上に様々な情報が溢れ、指先一つで情報を見聞きできる時代。画面で本を読むことも、大学の講義を聴くことも、絵を描くこともできる、「個」の単位で情報を入手したり、学習したり、「答え」を探したりすることに不自由のない時代になりました。だからこそ学校という場で、学習の中に「個」として取り組む活動と「集団」として取り組む活動を効果的に組み合わすこと、その相互作用から生れる発見や気づき、思考の深まり、あるいは他者への共感、信頼を経験することが大切なのだと思います。やはり学校での教育活動の要は、「個」と「集団」の相互行為であり、その相互作用で生徒が成長していくことではないか、「ICT教育」も「アクティブ・ラーニング」もその観点を外さないようにして授業づくりをしていくことが大切なのでしょう。教員どうし、そして私も一緒に、授業について考え、語り、チャレンジしながら、本校の教育活動を豊かにしていきたいと考えています。

 2016年4月22日
              校長  吉田 功

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