京都市立学校・幼稚園
最新更新日:2024/04/24
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新年明けましておめでとうございます

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 初詣にて…

 新年明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。
 雪もちらほらする中、身が引きしまる思いのお正月、今年も一年の幸せを祈る初詣に行ってきました。
 宮山の子ども達の「学力があがりますように…」とか、「けがや事故に合いませんように…」とか、「みんなが仲よくできますように…」とか、いっぱいお願いすることを考えたのですが、たくさんのことは厚かましいかもしれませんので、とにかく「子ども達が笑顔で過ごせる一年になりますように…」とだけお願いをしました。
 私自身さほど信心深いわけでもないので、手を合わせながら、いつも何やら後ろめたい気持ちはあります。でも、このときだけは、いろんな子ども達の顔や姿がうかんできて、一心に「祈っている」自分がそこにはいることが不思議です。
 「教育は願いであり、祈りである」とよく言われますが、子育てや教育活動は「願い」や「いのり」と一体のものだと思います。子ども自身や、彼らにかかわる大人の「こうなってほしい」「こうしたい」といった「願い」が強くあるほど、それぞれの育ちの可能性が広がっていくことは間違いありません。必ず願いがかなったり、見返りがあるわけではないでしょうが、「願い」がないところには、子育てや教育はありえないということは真実ですね。

 初詣で手を合わせながらいろんなことを考えていました。昨今のニュースで毎日のように目に飛びこんでくる「虐待」や「いじめ・体罰」など、そんな子ども達の周りには神さまはいないのかな?、そして宗教上での神さまでなくても、子どもらの育ちを「願い、祈っている」存在はいないのかな?…と。
 昔から「〜をすれば罰が当たる」とか、「〜したら地獄に落ちる」とか社会のモラルや道徳心は、宗教的な後ろだてによって支えられてきました。樹木や石ころひとつにも神が宿ると言われて、自然を敬う心情も当たり前にありました。科学が進歩した現在では、何事も合理的に考え判断されるようになり、神さまの居場所は少なくなってきているのでしょう。さらに、情報化やパーソナルネット社会化が急激に進行する中で、宗教的な心情が置き去りにされるのはいたしかたがないとしても、人や自然とのつながりの中でしか生きていけない社会で、他に対しての「願い」や「いのり」の心そのものが弱まってきているようにも感じます。人は宗教から離れていくこととあわせて、他のために「無心に祈る」こと、つまり神と向き合う自分の心に話しかけ、そのありようを確かめることからも離れてきてしまったように思えて仕方がありません。
 こういった意味で、学校はまだまだ子ども達の幸せな育ちに向けて、「願い」や「いのり」が、大きな意味を持つ場であること、そして、それを心から待っている子ども達がいる場であること、そんな責任を強く感じながら手を合わせる初詣でした。

 お参りの時、隣に、1〜2年生くらいの子が「…はやく、よくなりますように…」と一心に手を合わせていました。何かホッとする瞬間でした。 
 すべての子ども達やお家や地域の方々、そして教職員の笑顔があふれる良い一年になりますようにと、心から「ねがい」「いのる」一年のスタートです。

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学校行事
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