![]() |
最新更新日:2025/07/10 |
本日: 昨日:74 総数:632649 |
バスケット部 プロ選手と合同練習!![]() ![]() ![]() 市内の中学校からは,本校を含め約11校の参加がありました。さっすがプロフェッショナルです!!体格の大きさだけでなく,プロ選手のテクニックとスピードには驚きの連続でした。とても刺激的な1日となりました。丁寧に優しくご指導していただき,ありがとうございました。明日からの練習に,より高い目標が設定できました。 ちょっといい話―148―
来週から午前中授業です。2013年もあと2週間あまりです。来年は今年以上にいい年になればいいですね!
さて,本日2つ目の「ちょっといい話」です。小さい子供の切ない思いを,しっかりと大きな心で受け止めてくれた心の交流のお話です。このお話もちょっと粋なお話です。(「心震える話」より)。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 『天国から届いたランドセル』 幼くして父親を亡くした女の子が,小学校に入学するころのことでした。 周りの子はみんな,親から買ってもらった赤いランドセルを背負って通学していました。しかし,その子の家庭は幼くして父親を亡くし,ランドセルを買ってもらえるほどの余裕がなかったそうです。 もちろん,家に余裕の無いことがわかっていたその子は,ランドセルがほしくても母親にねだることはできません。子どもながらに,それはお母さんを困らせてしまうことだとわかっていたからです。 でも,毎日友達と通学していると,どうしても自分もあの赤いランドセルがほしくてほしくてたまらなくなります。通学路にあるお店のショーウィンドーに飾ってある,新品でピカピカの赤いランドセルをいつも眺めていたそうです。 そんなある時,彼女は考えました。 「お母さんに迷惑をかけるわけには行かない。でも,私もあの赤いランドセルがほしい・・・。そうだ,お父さんにお願いしてみよう!!きっとお父さんなら私の願いを叶えてくれるにちがいない!!」 そう思った彼女は,天国にいるお父さんに手紙を書くことにしました。まだ,習いたてのひらがなで,一生懸命にお父さん宛にハガキをかきました。 「てんごくの おとうさんへわたしは,ことししょうがくせいになりました。べんきょうもがんばっています。いっぱいがんばって,おかあさんをたすけようとおもいます。だから,おとうさんにおねがいがあります。わたしに,あかいランドセルをください。いっぱい,いっぱい,べんきょうして,がんばるから。いいこにしているから。おねがいします」 もちろん,天国へのハガキです。宛名は“天国のお父さんへ”と書いてポストに投函したそうです。そのハガキを集配し,郵便局の職員の方がそのハガキを見つけます。宛名は天国・・・。ハガキの表には,幼い彼女が一生懸命に書いたあの文章・・・。いつものように差出人不明で送り返すわけにも行かず,このハガキを手に取った職員がどうしたらいいんだろうと仲間の職員の方に相談したそうです。 「ねぇ,見て,このハガキ・・・。どうしたらいいだろうかぁ・・・。送り返すにはあまりにも残酷だよね」 「う〜ん・・・。そしたら,僕たちがこの子の天国のお父さんになろうよ」 「えっ,どうやって」 「仲間みんなにお願いしてさぁ,ちょっとずつお金を出し合って,ランドセルを買ってあげようよ!」 そして,郵便局の職員のみんなで,ちょっとずつお金を出し合い,真っ赤なピカピカのランドセルを買うことにしました。そしてそのランドセルを小包にいれ,その郵便局の中で一番字の上手い人が代表して,お父さんのメッセージを書いて,その子の家に送ったそうです。 「○○ちゃん,お手紙ありがとう。お父さん,とってもうれしかったよ。いつも頑張っているのを天国から見ているからね。これからも,優しい人になってね。そして,お母さんを助けてあげようね。天国からいつも○○ちゃんのことを応援しているよ。ちょっと遅くなったけど,ランドセル贈るね!!」 数日後,ランドセルとメッセージの入った小包が女の子のところに届きます。その女の子は飛び跳ねるように喜び,お父さんからランドセルをもらったと,はしゃいでいたそうです。そして,数年後この話を作文に書き,全国のコンクールで入賞したそうです。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ※下の写真は2年生の学活の様子です。11月に行われた校外学習のまとめをしている班,またクリスマスカードの作成をしている班など,班員で協力しながら作業に取り組んでいました。 ![]() ![]() いよいよ来週から「個人懇談会」です!(午前中授業になります)。
12月16日(月)〜20日(金)の5日間,「個人懇談会」があります。4月からの学習・生活面での総括を行います。3年生はこの懇談会で,進路決定をします。「待ったなし!!」です。自分に合った進路選択ができるよう,お家でしっかりと話し合ってきてください。
授業は12月24日(火)で一旦終了します。新年のスタートは平成26年1月7日(火)です。約2週間の冬休みが充実したものとなるよう,今年1年間の総まとめをしてください。 なお3年生は冬休み中にも,「冬季学習会」(12月25日・26日の午前中)があります。冬休みだからといって,気が抜けません。高い志を持って頑張り続けてください。 ちょっといい話―147―
今日は寒さが一段と厳しく感じられます。各地で雪が降っているようですが,京都市内でも今季初の雪が見られるのかもしれません。
昨日,今年1年の世相を表す漢字一字が決まりました。「輪」だそうです。2020年の東京五輪・パラリンピックの開催決定や,各地で相次いだ台風災害,東日本大震災への支援の輪が広がったことが主な理由だそうです。 そのオリンピックにまつわる過去の粋な話を紹介します。寒い日にピッタリな心温まる「ちょっといい話」を紹介します(「心震える話」より)。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 『55年後のゴール』 日本の「マラソンの父」と呼ばれる金栗四三(かなぐり しそう)さん。1912年(明治45年)にスウェーデンのストックホルムオリンピックに出場するも,トラブルで行方不明扱いに・・・。そしてその後・・・。 国内で世界記録を20分以上も塗り替えるような記録を出しながらも,本大会では日射病で倒れ,行方不明扱いにされてしまった。日本の期待を一身に背負いながら,それでも走りきれなかったことで,深い自責の念に駆られた。それでも日本のマラソンの発展のために50年間尽くしてきた。 1967年,ストックホルムオリンピック委員会から,「オリンピック55年祭」が開催されるので来てもらえないかという連絡が届いた。式典後,当時のコースを懐かしげに辿る金栗。そして,55年前にたどり着けなかったスタジアムに足を踏み入れた。 何故かそこには観衆と役員,そしてゴールテープ・・・。思い出のスタジアムで念願のゴールテープを切った金栗。 『日本の金栗がただ今ゴール。タイムは55年・・・。これで第5回ストックホルム大会の全日程は終了しました!』 上記のような粋な出来事が起こったいきさつを,以下に説明します。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 『文中に金栗選手が日射病で倒れ行方不明扱いになったとありますが,これは金栗選手のコンディションが万全でなかったことや,過酷な競技環境によるものだったようです。 当時,日本からスウェーデンへの移動は船と列車で20日もかかる長旅でした。その旅の疲れと,スウェーデンの夜の明るさからくる睡眠不足で,金栗選手のコンディションは万全でなかったようです。更に米もなかったので食事面にも支障があり,その上マラソン当日に迎えにくるはずの車が来ず,金栗選手は競技場まで走っていったそうです。また,競技当日は40度という記録的な暑さで,参加者68名中およそ半分が途中棄権するという過酷な状況でした。 以上のような様々な悪条件から,金栗選手はレース途中,日射病で意識を失って倒れ,近くの農家で介抱されていたそうなのですが,意識を回復したのは翌日の朝のことであったため棄権の意思がオリンピック委員会に伝わっておらず,金栗選手は行方不明扱いになってしまいました。 そして後年,「オリンピック55年祭」を開催するために当時の記録を調べていたところ,金栗選手が棄権ではなく「行方不明扱い」になっていることにオリンピック委員会が気付き,54年と8ヶ月越しのゴールインが実現したそうです。』 54年8か月6日5時間32分20秒3という記録は,世界一遅いマラソン記録であり,今後もこの記録が破られる事は無いだろうと言われています。 ちょっといい話―146―
久しぶりの「ちょっといい話」を・・・。
「亡くなって初めて分かる大切な人の存在・・・」「もっと大事にしておけばよかった・・・」「後悔してもしきれない・・・」,そんな悲しい,切ない思いが伝わってくる「ちょっといい話」を紹介します(「泣ける話」より)。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 『じいちゃん大好きです』 俺は小学生の頃,よく祖父と一緒に寝ていた。祖父は暖かくて,祖父の手を枕にしてよく寝ていた。祖父も俺のことをかなり可愛がってくれたと思う。 中学生になってもよく一緒に寝ていたが,3年生くらいになると急に寝なくなった。というのも反抗期が来ていたため,祖父が「一緒に寝よう」と言って布団に入ってきたりするとよく布団の外へ放り出した。そんなことがあっても祖父は俺を可愛がってくれたが,俺はうざくてひどい言葉を言っていて,段々と祖父も何も言わなくなっていった。 そして祖父がある日脳梗塞で倒れた。しかし俺はその時高校2年生で,不良のような感じになっていたため,お見舞いは1回しか行かなかった。がその1回を祖父はとても喜んでくれていた。 そんな関係を続け,俺も大学に入り祖父の存在なんか忘れていた頃,父から祖父が死んだとの連絡が入り,さすがの俺も病院に急行した。本当に祖父は死んでいた。俺は泣かずに涙をこらえていたが,そんな俺を見て父があるものを渡してきた。それは小学4年生くらいの頃祖父と東京タワーに行ったときに描いてもらった俺の絵である。そんなに古いものを祖父は大事に持っていてくれた。俺は涙が止まらず,どーしてもっとお見舞いに行かなかったんだろうとか,八つ当たりしたのかと悔やんだ。祖母によると祖父はいつも俺の話をしてくれたらしい。「元気か?」とか「受験受かったか?」とか,色々と心配してくれていたとのことだった。 俺は祖父の手をとって自分の頬に当てた。その手は昔のような暖かさはなく冷たかった。でもその手のおかげで,俺の心は昔の暖かさを取り戻した。じいちゃん大好きです。 今日は,『世界人権デー』です!!
朝は雨模様の天候でしたが,ようやく青空が出てきました。
今日12月10日は,「世界人権デー」です。本校でも11月から集中して,学年別に個別の人権課題について学習してきました。そして,先週の4日には矢吹さんの講演も聞き,人権意識を高めてきました。ここでもう一度,「人権デー」が世界共通の願いで定められた意義を考えてみましょう!! ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 『国際連合は,1948年(昭和23年)12月10日の第3回総会において,世界における自由,正義及び平和の基礎である基本的人権を確保するため,全ての人民と全ての国とが達成すべき共通の基準として,世界人権宣言を採択したのに続き,1950年(昭和25年)12月4日の第5回総会においては,世界人権宣言が採択された日である12月10日を「人権デー」と定め,全ての加盟国及び関係機関が,この日を祝賀する日として,人権活動を推進するための諸行事を行うよう,要請する決議を採択しました。 我が国においては,法務省と全国人権擁護委員連合会が,同宣言が採択されたことを記念して,1949年(昭和24年)から毎年12月10日を最終日とする1週間(12月4日から同月10日まで)を,「人権週間」と定めており,その期間中,各関係機関及び団体の協力の下,世界人権宣言の趣旨及びその重要性を広く国民に訴えかけるとともに,人権尊重思想の普及高揚を図るため,全国各地においてシンポジウム,講演会,座談会,映画会等を開催するほか,テレビ・ラジオなど各種のマスメディアを利用した集中的な啓発活動を行っています。 皆さんもお近くの催しに参加して,「思いやりの心」や「かけがえのない命」について,もう1度考えてみませんか?(「法務省」ホームページより)』 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 最後に,以下の詩を皆さんに紹介します。人権の大切さ・尊さと,人権を獲得していくことの崇高さを考えさせてくれる詩です。 『いつの日か,かならず』 吉野 源三郎 未開のころ,人間は夜の暗さをどうすることもできなかった。火を使うことになって,人間はやっと暗闇にうちかちはじめた。そして今日,人類の文明は夜の暗さを征服してしまった。 しかし,世の中には,まだ暗闇がある。夜の暗さに劣らない暗闇がある。人間の世の中が,人間を不幸にしているという暗さは,まだ残っている。 だが,この暗闇だって,人類は征服できないわけではない。未開人が火を手に入れたように,今日の人類は「人間のとうとさ」をすでに知った。このとうとさを,どこまでもつらぬこう。そのための私たちの知恵,私たちの努力,私たちの協力がぐんぐんのびてゆけば,それだけ世の中の闇はしりぞいていくのだ。そしていつの日にか,今の暗さも必ず征服されるだろう。いつの日か,かならず・・・。 たれもかれもが力いっぱいに のびのびと生きてゆける世の中 たれもかれも「生まれてきてよかった」 と思えるような世の中 じぶんをたいせつにすることが 同時に人を大切にすることになる世の中 そういう世の中をこさせる仕事が きみたちの行くてにまっている 大きな大きな仕事 生きがいのある仕事 12月8日(日) 日野学区 クリーンキャンペーン
日野学区の2回目の「クリーンキャンぺーン」が,12月8日(日)に行われました。今回は,伏見支部の生徒会の「美化活動」とも重ねて,地域の方々と一緒に校区内の清掃活動を行いました。バレー部・サッカー部・テニス部・野球部・陸上部・吹奏楽部の有志と,生徒会から全校に呼びかけてのボランティアの約80名で地域の意美化活動に取り組みました。ゴミ拾いをしながら,そして地域がきれいになるにつれ,気持ちも晴れやかになってきました。思ったほどゴミは以前より多くはありませんでしたが,「“私はもうゴミは捨てんとこっ!”と思った!!」と何人かの生徒は言っていました。地域の美化に取り組むことで,地域に対する美化意識も高まりました。地域の皆さん,大変お世話になりました。参加してくれた生徒の皆さん,校区がきれいになりました。ありがとうございました。
![]() ![]() ![]() 3年生 第4回 土曜学習会![]() ![]() 春日丘中学生 439名に向けて 〜「人権」のお話〜(人権講演会・保護者懇談会)![]() ![]() ![]() <生徒感想文> ・今日の講演会での矢吹さんの話を聞いて,たくさんのことを学ぶことができました。私がいつもやっていることが,矢吹さんにとってはとても大変で苦労することがたくさんあることを知りました。矢吹さんが,「1日中,車いすで生活してごらん」と言われました。想像してみると,自分の家には段差があるし道幅も狭いから動くのが大変で,何をやるにも人よりもいろいろなことをしなければいけないということがあらためてわかりました。 「1つ1つの奇跡が今の私たちをつないでいる」,私はこの言葉が一番心に残りました。なぜなら今自分が生きているのは,1つ1つの奇跡の積み重ねがあってのことだからです。たとえばお母さんとお父さんが出会ったこと,もっともっと昔から言えば先祖の人たちがいなければ私は今生きていない。そう思うと,いろいろな奇跡が重なり私がいる。そのことを思うと,いろいろなことに「ありがとう」という気持ちになりました。これからもこの気持ちを忘れずに,1つ1つの奇跡を大切にしていきたいです。(1年生) ・今日は僕たちのために,貴重なお話をしてくださりありがとうございました。矢吹さんのお話を聞くまでは,障害のある人のことを何も知らないのに,「かわいそう」とか思うときもあったけれど,今日のお話を聞いてそれは一方的で上から目線で失礼だということがわかりました。矢吹さんが「余計なお世話な時もある」とお話ししていたのを聞いて,ハンディキャップのある人が自分でできることは助ける必要はないし,もしも自分の力だけではできないことがあった時には助けようと思いました。 日常生活を送っていく上で,僕たちはお風呂に入ったり運動したりあたり前にできると思っていたけれど,そういうのも奇跡なんだと思いました。今まで30回くらい骨折したと聞いてとても驚きました。足を持たれたり,手を動かしたり,くしゃみをしただけで骨が折れるというのは,僕も骨折したことがあるけれど,とても痛かったしあの痛みがすぐに起こると考えると,とてもつらいことだなあと思いました。これからは矢吹さんが話してくださったことを考えながら,1つ1つのことを大事にしようと思いました。これから将来,高校に行ったり,大学に行ったり,仕事をしたりしていく中で,ハンディキャップのある人とのかかわりも増えてくると思います。そのようなときには,今日のお話を忘れずに心がけていこうと思いました。(2年生) ・今まで,障害のある人に対して「かわいそう」とか思っていたけれど,今日の話を聞いて無意識のうちに上から目線になっていたんだと思い,申し訳ない気持ちになりました。自分が生まれてきた奇跡,ほかにもたくさんの奇跡が重なって,今の自分があると考えるとなんだかうれしく思いました。これからもこの命を大事にしていこうと思いました。(3年生) 〜講演会より〜 ☆『自分の奇跡=それは,自分の誕生』 ☆『それぞれの奇跡,それぞれの偶然,奇跡の積み重ね』 ☆『間違った情報は,人の価値観を狂わせる』 ☆『上から目線は偏見を生み,偏見は差別を生み,差別は格差を生む』 ※矢吹さん,お忙しい中,春日丘中学校生徒のためにご講演していただきありがとうございました! 2年生 校外学習(2) in OSAKA![]() ![]() ![]() |
|