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最新更新日:2025/04/30 |
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感謝!! 洛友中学校が教育功労者表彰受賞![]() ![]() 本校は開校してまだ6年目ですが,これまで教職員が,保護者や地域等,様々な方々の協力を得ながら,昼間部と夜間部の生徒たちと共に,「世代や国籍を超えて,ふれあい学び合う全国唯一の学校」づくりを行ってきた成果がここに実を結んだものと思います。表彰式前日には,初代校長の西寺先生からも祝福の連絡をいただきました。 私たち教職員は,この学校を必要としている生徒がいる限り,学校の楽しさや学ぶ喜びを実感できる学校づくりを推し進めなければなりません。そして,これからも昼間部と夜間部とのより有機的な交流を図り,日本でただ一つの学校であるという誇りを持って,全教職員で頑張っていきたいと決意を新たにいたしました。 「シーサーづくり」に挑戦!!![]() ![]() 「ここ,どうするの?」「できたわ。次は?」…という声に応え,昼間部の子どもたちは,夜間部の生徒さんに分かるように,あちこち飛び回って,一生懸命に教えることができました。そして,「ありがとう」という言葉が飛び交い,とても和やかな雰囲気の実習でした。 シーサーは,沖縄県などでみられる伝説の獣の像です。建物の門や屋根,村落の高台などに据え付けられ,人や家,村に災いをもたらす悪霊を追い払う魔除けとされています。「獅子」を沖縄の方言で発音したものだそうです。 東九条マダン![]() “マダン”とは“広場”の意味で,「東九条で,韓国・朝鮮人と日本人がひとつのマダンに集い一つになって,みんなのまつりを実現したい」…このような思いをこめて名付けられました。 天道神社「例大祭」![]() 歴史を学び,互いをもっと知る旅へ(1)
今年度の宿泊学習は,舞鶴・篠山方面へ行き,「戦争の傷跡を探る中で,在日と中国等引揚者の歴史を学ぶ」ことをテーマに,舞鶴引揚記念館,浮島丸殉難者追悼の碑や篠山市を訪れました。そして,「夢千代日記」で有名な湯村温泉に泊まり,日ごろの疲れを癒しました。今一度,行程をふりかえってみたいと思います。
(1)舞鶴引揚記念館 終戦直後,47万人以上の日本人がシベリアに抑留され,捕虜として極寒の中,強制労働に従事させられ,多くの尊い命が失われました。舞鶴では,旧ソ連(現ロシア共和国)や中国などからの引揚者を迎え入れ,終戦から13年間に664,531人の引揚者と16,269柱の遺骨を受け入れたそうです。終戦時に大陸に残された日本人の想像を絶する生活やそれを待ちわびる家族の悲しみが痛いほど伝わってきました。 ![]() ![]() 歴史を学び,互いをもっと知る旅へ(2)![]() ![]() ![]() 1910年の「韓国併合」以来,土地や仕事を失った朝鮮の人達は家族ぐるみの日本への移住を余儀なくされ,さらに労働力として,強制的に日本に連れてこられた人達もいました。そして,ついに終戦をむかえ,強制労働と非人間的な生活からの解放,そして夢にまで見た故郷へ帰れる喜びを胸に「浮島丸」に3,735人(政府発表)が乗り込みました。ところが,その船は舞鶴湾に入った直後,突然すさまじい爆発音とともに船体は真っ二つに折れて海底に沈みました。確認できただけでも,婦人や乳幼児を含む524人の朝鮮人が亡くなりました。この碑の銅像は釜山を見つめ,「浮島丸」で犠牲になった人達の無念さがとても重く伝わってきました。 タルづくりでお世話になり,またこの銅像の作者でもある余江先生に解説していただき,みんなで折った千羽鶴を捧げ,黙とうをしました。 歴史を学び,互いをもっと知る旅へ(3)![]() ![]() ![]() 篠山と朝鮮半島とのつながりは古代までさかのぼることができます。古代における渡来人の古墳からは朝鮮半島との豊かな関係を想像できる一方,大量の硅石やマンガン鉱が産出したことから,戦時中には過酷な労働に従事した朝鮮人の姿も浮かび上がってきます。 戦争のための労働力として,多くの朝鮮人が篠山に移り住んだ(強制的に連れてこられた人もいた)ことから,戦後1950年には在日コリアンの生徒のための民族学級「篠山小学校特設学級」が,現在の篠山小学校に設置されました。そのような歴史と人権問題を,元大阪府の夜間中学校に勤務されていた松原先生から教わりました。 歴史を学び,互いをもっと知る旅へ(4)
湯村温泉でほっこり♨
宿泊は,少し足をのばして湯村温泉に行きました。源泉温度は98度と日本一だそうで,5組の生徒は到着して入浴した後,荒湯まで降りて行って卵をゆでて食べました。また,夕食後は全員で「福笑い」で盛り上がり,楽しいひと時を過ごしました。そうそう,村上先生の歌もとても良かった(?)ですね(^O^;) この湯村温泉は,1981年のNHKドラマ「夢千代日記」のロケ地としてその風情が全国に知られるようになり,以来「夢千代の里」とも言われています。「夢千代日記」は作者が終戦直後の8月20日の夜,広島で見た被爆の凄惨な光景と「芸と心」を重んじる実在の芸者「夢千代」をモデルに,平和への切なる願いと,苦しくとも優しく生きる人間の美しい姿が描かれています。夢千代(本名:永井左千子)は胎内被爆者として白血病と闘いながら湯の里湯村で芸者置屋を経営していました。正福寺の夢千代地蔵は水子地蔵で夢千代が被爆症の身として生まれ「やがて生まれる我が子も自分と同じ運命をたどるのでは?」との不安から小さい命を絶ってしまうのです。しかし,悔いて止まなかったそうです。 今回,私たちが訪れた場所やこの夢千代のような人達のように戦争の傷跡は,日本中,いや世界中にたくさん残っており,未だに人々を苦しめています。 「福笑い」を楽しむみなさんの笑顔を見ながら,当たり前のようだけど,今のような平和な世の中が,そしてこの幸せがこれからもずっと続くことを祈っていました。 ![]() ![]() ![]() |
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