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探究基礎 I 全体会(2011.9.28)
1年生の探究基礎が,第1段階の「HOP」を終え,第2段階「STEP」に入ります。本日の授業の前半は「情報を正しく読み取れるようになる」ことを目標に学習してきた「HOP」のまとめ(写真左)を行いました。第2段階の「STEP」では,「調査する手法を習得する」ことを目標に少人数のゼミに分かれて学習します。授業の後半は,ゼミの担当教員が各ゼミのプレゼンテーション(写真右)を行いました。1年生全員が,このプレゼンを参考に所属ゼミを登録,後期からゼミでの活動が始まります。
体育祭(2011.9.23) その1
本校嵯峨野グラウンドにおいて、体育祭が行われました。
台風の影響で一日順延となってしまいましたが、当日は天候にも恵まれ、青空の下に歓声が響き渡りました。 (写真上)地球はまわる(パン食い競争) (写真中)借り物競走 (写真下)二人三脚 体育祭 その2
(写真上)棒引き
(写真中)騎馬戦 (写真下)学年混合縦割りリレー 体育祭 その3
(写真上)玉入れ
(写真中)ムカデ競走 (写真下)みんなでJUMP(大縄跳び) ソウル
○写真左は,京丹後市の友人が送ってくれた今朝6時過ぎの南館
○右は,10時過ぎに屋上から見た比叡山と雲 (カメラを持たないのでソウルの写真はありません。すみません) 9月21日は,台風15号による暴風警報が発令されたため臨時休校。朝から教育委員会に用事があったので,私は午後から学校に行きました。文字通りガランとした学校に教職員だけが普通にいるというのは妙な感じです。アトリウムに行っても,生徒の声は聞こえないし,当然気配も感じません。なんだか不思議な空間。今年,臨時休校はすでに二度経験しています。しかし,生徒のいない学校もまたオツなものだとうそぶいてはみても,実際にはどうも落ち着きません。 警報が解除されたあと,夕方になって2人の2年生が来ました。翌22日にある京都パレスライオンズクラブでの発表準備です。クラブのご厚意で,生徒にヨーロッパ研修の機会をいただきました。10月にストックホルムとロンドンに行くことになった2人が,翌日のクラブの例会で研修内容の説明をすることになっているので,一緒に行く教頭の指導を受けに来たのでした。どうぞと言われて,私も会議室で発表を聴きました。「それって,本当にそういうことが言えるの?」とか,「話に無理があるように思うなあ」とか,「どこで調べたの?」とか言って邪魔をしているようなものでしたが,2人は誠実に対応してくれます。そうこうしているうちに,PTA役員のみなさんがお見えになって定例の役員会。 夜遅く,22日から2泊3日で韓国へ行くための準備をしました。23日は台風で順延になった体育祭でしたが,私はソウルで会議があって出られません。挨拶は副校長がやってくれました。体育祭にいないのは初めてです。この話を受けた時に,もしも体育祭が順延になったらと思ってためらったのですが,いろいろな方から勧められて引き受けました。予感が的中してしまったことを悔しく思います。 2011 International Forum on Creative School Managementという催しに出席しました。日付のおかしくなった9月15日の19号の「月」で,「少々多忙にしていました」と書いたのは,この会議での発表原稿を用意するのに手間取っていたからです。なかなかのハードスケジュールでしたが,大変刺激的な経験をしました。会議の詳細については,いずれどこかで発表したいと思っています。 主催は,韓国政府の教育科学部とKEDI(韓国教育開発院)。日本で言えば,文部科学省と国立教育政策研究所ということになるでしょうか。会議に招かれた外国人は4人。ロンドン大学の教授,イギリスのロバートクラーク学校とアメリカの「壁のない」学校の校長,そして私です。韓国からはポサン高校という全寮制の高校の校長。さらに,OECDの上席研究員がパリからの同時中継で参加しました。教育活動と学校経営について発表し,そのあとでパネルディスカッション。 発表のはじめに,東日本大震災の被災地に向けた支援に対するお礼を言いました。最初から言おうと思っていたのではありませんでした。ただ,欧米のゲストと会って握手をしたときに,「元気を出してほしい。日本に期待している」と言われたことが強く印象に残っていました。緊張していたのに,自分でも思いがけないくらい自然に言葉が出ました。すると,会場の人たちから大きな拍手が起こりました。驚きました。これをどんなふうにして被災された方に届ければよいのかと戸惑うほどでした。 ソウルの人たちに,とてもよくしてもらいました。日本が好きだと微笑むKEDI院長。23日の朝から夕食会まで一緒だった2人の同時通訳。3日間随行して日程管理をしてくれたKEDIの研究員。休日なのに,金浦空港近くの学校を案内して韓国の高校事情を説明してくれた温和な校長。お昼においしい韓国料理をご馳走になりました。 行かなければわからないことがある,話さなければわからないことがある,という素朴な感動を覚えました。 そんなふうに感じることができたのは,行くにあたってさまざまに力を貸してくれた英語の教員や世界史の教員のおかげです。副校長や教頭も,「留守は大丈夫ですから楽しんできてください」と送り出してくれました。数多くの教職員から「気をつけて行ってらっしゃい」と声をかけてもらいました。いろいろな人に支えられているということを改めて実感した韓国行きです。 明日28日に探究基礎の全体会があります。半年間やってきた第1ステージHOPのまとめの会です。昨日のこと。「探究基礎委員が話したいと言っていますが,いいでしょうか」。担当している1年生の副主任がにこやかに言います。4人の1年生がやって来ました。 「全体会で話していただきたいのですが」 「どんなことを話しましょうか」 「ええっと,モチベーションを上げてもらえるような」 「ほう。だいたい何分くらいですか」 顔を見合わせて相談が始まりました。 「11時20分に終わる予定なので」 「でも時間が押したら」 「11時30分には終了しないと」 「そしたら5分くらいか」 「5分くらいです」 あれあれ。5分でモチベーションの上がる話。そういうことができれば,本が書けそうです。生徒は屈託なく難問を出してくれます。それはそれとして,1年生の講演会に来ていただいた鷲田清一先生の言葉,先輩たちの話,震災のこと,聞いてきたばっかりの韓国の高校生のことを4人に話しました。 「こんな話をしたら30分くらいはかかるね」 学校を出たら門の前で3年生と一緒になりました。台風が来なければ21日の放課後に話すことになっていた数人の生徒たちの一人です。 「今回は流れたから,また日程調整してね」 「はい」 「体育祭はすみませんでした。どうでしたか」 「とってもよかったです。優勝したんですよ」 「そうか,君,5組か」 「はい。球技大会も文化祭も賞をとれなかったので,最後に優勝できて」 「それはよかった」 「先生,質問があるんですが」 「どうぞ」 「韓国へは,どういう用事で行かはったんですか」 「実はね……」 説明しながら堀川通りを歩いて四条堀川で別れるとき, 「3年生のアセンブリに話しに来てくれはるのはいつですか」 卒業式までにもう一度君たちに話したいと言ったのを覚えてくれていました。 ありがとう。たそがれ時に聞く君の言葉が心にしみます。 「月」で,高石ともやさんが紹介された江幡玲子さんのことを書きました。江幡さんはおっしゃったそうです。 「待っていてくれる人がいるから,人は希望を持って生きられるのよ」 22号(2011.09.27)……荒瀬克己 あらら
さきほど,9月15日に掲載した「月」の最後にある署名の位置を訂正しました。その際に掲載順序を変えないよう,「アップの時間を変更しない」チェックをするべきところ,やり忘れて更新してしまいました。
その結果,9月15日の記事が20日と21日の記事よりも新しい記事として掲載されました。 順序を正しくするためには,記事を差し戻してアップし直すしかないとのことで,そのようにしましたが,その結果15日の記事も20日の記事も,21日にアップしたことになってしましました。 変な感じになって申し訳ありません。 ……荒瀬克己 SWIM−2−(昨日のSWIM−1−の続きです) 本番が近づいていました。どうするかと考えあぐねて,生徒の練習場所となっている小ホールに行きました。生徒たちは細かな調整をしていました。やりとりをしばらく聞いていて,そして決めました。 こうしてここまで来た生徒たちだからこそ,変更の意味を理解できるだろう。たとえ誰かが本番でしくじったとしても納得してくれるだろう。また,来てくださった方にも,この子たちの思いは十分に伝わるはずだ。いまは,しないで後悔するよりも。万が一失敗したとしても,こうしたいと思うことをこの12人と2年生のリーダーたちにぶつけてみよう。しかし,それは単なる自己満足ではないのか。もう一度自問自答しました。自分の思いを確かめて,私としてはすっきりした気持ちで生徒たちに賭けることにしました。 趣旨を説明した後,何度も変更箇所の読み合わせ。一人の生徒の一音の調子を繰り返します。思うような声が出るまで,表現の流れができるまでやり続けます。 ずっとまっすぐに立って声を出し続けるのは体力を消耗します。考えてみたら,説明会の群読にこれほど生徒が努力する必要があるのかというと,確かに不必要かも知れません。「ムダ」と言えばムダ。しかし,必要な「ムダ」もまたある,と考えるのが学校です。 昨年,朝日新聞の天声人語にジャン・ギットンという人の言葉が引用されていました。「直線は2点を結ぶ最短距離だが,学校は1点から1点への最長距離を教えるところだ」。この言葉は説明会の挨拶でも紹介しました。不必要に見える回り道で,本当に必要な力を身につける。堀川もそういう学校でありたい。生徒諸君,だからやってみよう。 本番。舞台袖ではなく,調整室に上がって正面から彼らを観ることにしました。小さな照明だけがともる暗い調整室には,担当者以外にも多くの生徒や教員がいました。 音響と照明への注文もいろいろと出しました。いま操作卓の前で緊張する音響係や照明係の持っているシナリオには,書き込みがいっぱい入っているはずです。 舞台のスクリーンでは順にスタッフの名前が紹介され,終わると最後のアナウンス。緞帳が下り,スクリーンが上がり,客席の照明が暗くなる中で音楽が高まり,再び緞帳が上がっていく。三分の一ぐらいまで上がったときから,一斉に重なって客席に飛び出す声の勢い。バックのホリゾント幕に薄い青緑の光。浮かぶ12人の影絵。 静かに,そして激しく,また穏やかに響く言葉。最後に,高々とまっすぐに伸ばした指のさす先を見上げるまなざし。まばゆい光に包まれて輝く12人。 F先生は今年70歳。哲人の風貌です。以前,師匠と呼んでもいいですかと尋ねたら,「あほか」とおっしゃいました。「では勝手に呼ばせていただきます」と言って,それ以来F先生は私の師匠です。「言葉の海を泳ぐ」,「記号の海を泳ぐ」,「魂の海を泳ぐ」という言葉は,許しを得て師匠から頂戴しました。 そこから着想した群読の台本が「SWIM」です。 ………………… 今まで生きてきた時間のすべてを自らの力にして, 呼吸を整え,さあ出発だ。 たくましさを知り,しなやかさを学び, 静かに心を見つめ, あるいはゆるやかに,あるいは激しく, 眼前にたゆたう海に, 言葉の海に,記号の海に,たましいの海に, 海に向かう。 言葉の海を泳ぐ 記号の海を泳ぐ たましいの海を泳ぐ はるかな陸地をめざして あこがれの陸地をめざして すべての力を尽くし かつて父がそうだった かつて母がそうだった 静かに呼吸を整え 懸命に腕を伸ばし 高らかに波を蹴り ひたすら夢に向かって 泳ぎつづける ずいぶん時間が経った。 なつかしい日々が浮かんでくる。 いまどの辺りにいるのだろうか。 孤独が水よりも冷たい。 淋しさが波よりも暗い。 疲れが鉛の雲よりも重い。 陸地なんて見えないじゃないか。 いったいいまどこにいるんだ。 戻りたい,あの頃に帰りたい。 苦しくてしかたがない。 もう手が動かないのに,もう脚が伸びないのに, どうして誰も助けてくれないんだ。 いまの声は何だ。 そこにいるのは誰だ。 君は……。 君も泳いでいたのか。 この暗い海の中で自分だけしかいないと思っていた。 ひとりだけが苦しいと思っていた。 君もいたのか。泳いでいたのか。この暗い海の中を。 みんなそれぞれにもがいていたんだ。 疲れたら休めばいい。 力を抜いて漂えばいい。 空にちりばめられた星を仰いで, ゆるやかにたなびく雲を眺めて, そう。そして,また泳ぎ始める。 腕と脚を伸ばし,泳ぎ始める。 光に向かって,夢に向かって,行くよ。 この光る海を,泳いでいくよ。 言葉の海を泳ぐ 記号の海を泳ぐ たましいの海を泳ぐ はるかな陸地をめざして あこがれの陸地をめざして すべての力を尽くし かつて父がそうだった かつて母がそうだった 静かに呼吸を整え 懸命に腕を伸ばし 高らかに波を蹴り ひたすら夢に向かって 泳ぐ 泳ぐ 泳ぐ ………………… 「陸地なんて見えないじゃないか」の最後の「か」もまた,本番直前の練習で何度も繰り返しました。「もっと吐き捨てるように,叩き切るように」。「か」,「か」,「か」,「か」,「か」,「か」……。 本番前,最後の練習を終えた小ホールで,休憩していた生徒たちが面白いことをやり始めました。円陣を組んで右手を中央で低く重ね合わせ,「泳ぐ」,「泳ぐ」としだいに声を大きく,手を高く伸ばしていって,最後の「泳ぐ」で決める。試合前の気合。「そうや,これ伝統にしよ」。「来年もやってね」。はじけるような笑い声。 「先生も一緒に」 「ありがとう。でも,君たちだけでやるほうがいいよ」 明るい声で「泳ぐ」が繰り返されていました。負荷を乗り越えようとする生徒たちのまぶしさ。 説明会のアンケートには,さまざまに動いていた生徒たちをほめてくださる内容がどっさり。本当にありがとうございます。 生徒諸君,ホメ言葉ヲ正シイ自信ニシテ,厳シイ言葉ヲ本物ノ勇気ニシテ,明日ニ向カッテイクンデスヨ。 早く入ったのに座席が奥の後ろになって聞きづらかった,というご指摘がありました。ご事情も丁寧にお書きでした。本当に申し訳ありませんでした。ご趣旨は必ず今後に活かします。 このページのことを書いてくださった方もいらっしゃいました。過分のお言葉に感謝します。ただ,私は「イイトコドリ」をしているだけです。見えないところで悩み考え,ためらいつつ次の一歩を出そうとする生徒たちと,やはり見えないところで彼らを支えて寡黙に仕事をする,まさに本物の現場で堀川をつくっている教職員たちに,いただいた評価をそのまま贈ります。 さて,グラウンドの状態が悪く,明日に予定していた体育祭は23日に延期となりました。生徒会執行部と3年生には伝えてありますが,ソウルでシンポジウムがあるため,残念ながら私は出席できません。 秋の澄みわたった空の下で,生徒たちの清新躍動を期待しています。 21号(2011.09.21)……荒瀬克己 SWIM-1-
○左の写真は舞台係の活躍。右は群読のリハーサルでの打ち合わせ
探究科説明会のことも思い出しながら,先日の普通科説明会のことを書いていたら,文字数の単純合計が400字詰め原稿用紙で14枚分になりました。前半と後半に分け,今日と明日に載せることにします。説明会に向けて生徒がどう取り組んだか。一部ではありますが,教員とともに私も担当したオープニングの群読<SWIM>を通して見ることのできた生徒の姿を紹介したいと思います。 ……………………………………………………………………………………………………… 「校長室から」が20号になりました。折しも今日は20日。明日21日には21号を出します。こういう偶然は,なんとなくうれしくなります。 堀川の新校舎が完成して,シックな制服の生徒たちを迎えたのが平成11年4月。1999年でした。「平成11(1999)年」と書くと,111999。うれしい重なりでした。 うれしいことをもう少し。陸上部が近畿大会で,出場した4人全員の入賞を果たしました。科学の甲子園京都府予選に出たチームが1位となり,来年3月の全国大会に挑戦します。 逆に残念だったのは,秋季大会1次戦で1敗した後,敗者復活戦で3連勝していた野球部が,昨日4対5で敗れたこと。「1点差を追う最終回,1アウト満塁と攻めましたが,強烈なセカンドライナーでダブルプレー。幕が閉じました」と監督からの連絡。本当に残念です。選手や監督やコーチは,支えてくださっている保護者の方は,私などの思いを超えて無念でしょう。しかし,本当に強いチームになってきています。この悔しさをエネルギーに転換して,次に向かってほしいと願っています。 9月17日,前線と台風の影響で蒸し暑い土曜日の午後,普通科説明会を開催しました。降水確率は高かったのに,開会した午後2時までは雨が降りません。挨拶で,お帰りの際に降らないことを願うと言ったのがよくなかったのか,終了時には土砂降りになってしまいました。参加してくださった中学生や保護者の方はお困りになったと思います。申し訳ありません。 8月30日に探究科説明会のことを書いた際,「普通の子」について触れましたが,今回も「普通の子」が,見えるところでも,見えないところでも活躍しました。 オープニングの群読で言えば,7月12日の昼休みに2年生のリーダーたちが集まって打ち合わせをし,15日には全パートの2年生と1年生が集まるスタッフ会議の後半で,各パートに分かれてのミーティング。12人の演じ手と音響係・照明係に台本が渡され,配役の決定と流れの確認。夏休みをはさんで文化祭後に本格的な準備にかかり,前日の夜はもちろん,当日の午前中のみならず開演直前まで練習を続け,そして臨んだ本番でした。 毎年そうですが,最初は声が小さく,言葉に込める気持ちも弱く,間の取り方も抑揚もさっぱりで,立ち姿や視線や表情にも力のこもらない,なんともしょぼしょぼとしたありさまです。それが,昨年経験した2年生の指導で,少しずつではあっても確かに変化していきます。今年も毎日放課後に練習が行われ,徐々に形ができあがり,当初とは見違えるようになりました。 ただし,それはある種の高原状態。一定程度できあがっているのでスランプではありませんが,まだ何かが足りない状態。このとき生徒は,自分ができることは全部やっているような気持ちになっています。確かに一つの形はできています。だから,その状態を保てばよいと思うのは当然です。興味深いことに,この段階でさらに練習を繰り返すと,今まで覚えていたセリフを忘れたり,順番を間違ったり,声の張りが鈍ったりするようになります。そして,今度は元に戻す作業が始まります。練習を重ねていくうちに一度到達していたレベルに回復し,そのことによって完成したような安心感が生まれます。しかし,それは再び形が整ったというものでしかありません。まだ「抜けてはいない」状態です。 前日午後からのリハーサルで,これまで繰り返していた音響・照明との調整も一応できるようになりました。観ていた生徒や教員からの評価もまずまずでしたが,まだ仕上がったとは言えません。ここまで来ると,指導している2年生や演じている1年生の問題ではなく,毎年演出している監督の責任が問われます。 ある程度できあがった段階にいる生徒は,それを維持しようとして,できるようになったことを間違えずにやろうと考えます。順番を気にして,複数で声を出すところは他の生徒の出方を考えて,そのために自然な自分の表現ができないでいます。 おかしな言い方かもしれませんが,考えているようではよいものになりません。失敗のないようにという守りの演技だからです。それではたとえきれいにできたとしても,心が人に届きません。 失敗したっていい。届けようとする心を精いっぱい表現すればいい。最初の段階でこう思ったら上達することは困難ですが,ある程度できあがった段階では,こう思わなければさらなる高みはめざせません。ただし,本当に失敗するかも知れませんから,そこを突き抜けるような力が必要になります。その力を演じる生徒が出せるか。つまり,そうしたいと生徒が思うようになるか。それを演出者が引き出せるか,生徒の心に火をつけることができるか。どうするか。このままでもよいという思いと,まだよくなるはずだという思いが交錯します。 そんな思いが強くなるのは年によって異なりますが,今回は本番当日の12時25分に最後の舞台リハーサルが終わったときでした。説明会は2時からですから,1時50分に舞台袖で出番を待つことになる生徒たちは,それまでの時間を昼食と休憩と最後の調整に使うことになっています。 実は前日にも演出を変えていました。舞台に立つ12人の頭に中には,「最後」の指示で訂正された間とか抑揚とか声の大きさとかが染み込んでいるはずです。それをいまからまた変える。できるのか。 普通に考えれば,当日の,しかも本番直前に演出を変えるのは無謀であるに違いありません。しかし,そうしてみたいと思うレベルにまで,2年生が指導し1年生が応えてきていました。そもそも,出演する予定だった3人の野球部員が,試合が雨で延期になって説明会と重なったため急きょ代役を立てて今日を迎えたのです。予定外のことが起こる中で,2年生と1年生が一緒になってここまでつくってきた群読でした。 本当にどうするか。試行錯誤の行き着く先がわからないまま,次のリハーサルが始まった舞台を見ていました。 (明日の「SWIM−2−」に続きます) 20号(2011.09.20)……荒瀬克己 月
今日は木曜日ですので,「週刊火曜日」としては2日遅れのお届けとなります。いずれ紹介しますが,少々多忙にしていました。13日に予定どおりに出していたなら別の記事をご覧いただくはずでしたが,それは少し寝かせておくことにします。
1年生普通科の探究の課題で壁新聞をつくっているそうです。そうです,というのはいかにも頼りない話で恐縮ですが,生徒から聞いて知りました。昨日,その取材を受けました。事前にもらった伸びやかな手書きの依頼状には,「夏休みはどこに行ったか」,「印象に残っていることは」,また,「なぜ教師になったのか」,「生きがいや誇りは」,「いちばん大切にしている言葉は」という質問事項が並んでいました。 「どうぞよろしくお願いします」 「こちらこそ」 「ではまず,夏休みにどこへ行かれましたか?」 8月11日から15日までの土日を含めた5日間,学校には行きませんでした。その間に行ったところと言えば,比叡山延暦寺。夕暮れ時の根本中堂には光の群れ。お堂に座って読経を聴きました。 「そうそう,16日に近所のビルの屋上で大文字を見ました。鳥居以外は全部見えるんですよ。左大文字は相当角度がありますが。今年の送り火についてはいろいろと動きがあったでしょう。火が点くのを待つ間,少し緊張しました。ヘリコプターが高く遠く飛んでいて,そっちを見たら,大文字山と比叡山の間に薄暗い光があるのに気がついた。月かな,それにしても暗いなと思っていると,大の字の中心に火が上がって,しかしなかなか広がらなくて,いつもより文字の浮かび上がるのが遅いように感じて,ふっと視線を左に移したら,さっきの薄暗い光はやはり月でした。あまり時間は経っていないのに意外に昇っていて,黒い山並の上のぽっかりと開けた夜の空の闇に,漂うようにあります。それが,とても暗くて赤い月」 生徒はこちらをじっと見たままで,右手のペンだけがノートの上を走っています。 「それで17日なんやけど,名古屋・京都・大阪・神戸・堺,この五都市の高校の生徒指導の研究会が京都であって,私,そこに行ったんですね。記念講演があって,講師は高石ともや。知ってる?」 知りませんでした。高校1年生ですから無理もありません。当時のフォークソングの隆盛について説明し,北山修や加藤和彦について話し,「あの素晴らしい愛をもう一度」をくちずさんだら,「あ,その歌,知っています」。 当日のメモを取り出し,高石さんの話されたことを少し紹介しました。 講師紹介が私の役目でした。「受験生ブルース」も「思い出の赤いヤッケ」も,とても懐かしいというような紹介をして座ったら,開口一番「下のお名前は何とおっしゃいますか?」と高石さん。 「かつみ,です。己に克つ,と書きます」 「どなたがお付けになりましたか?」 「父だと聞いています」 生まれた時は単に哺乳類だが,名前が付けられたときに人間になる。こんな人になってほしいという願いや愛情によって人間になる。下の名前は,だから大切。誰かに愛されないと人間にならない。少年審判のときに,初めてフルネームで名前を呼ばれた少年がいたということをエバタ先生がおっしゃった。それまでは,オイとかソコノとかオマエとしか呼ばれていなかった。鳥取県皆生であった日本初のトライアスロン大会で優勝したときに,みんないろいろと言ってくれたが,エバタレイコさんは「ただ元気だけなら,ただの生き物よ」と言って,「私の車椅子のプロになりなさい。他の事を考えていたら私は仕事にならないから,あなたが私の車椅子を押しなさい」。「いろんなことを犠牲にして私のところに来ると,あなたにはいいことがある」。それで,40歳から車椅子押しのプロになった。エバタさんの言葉をいくつも聞きました。「節目に友あり。曲がり角に師あり」。「待っていてくれる人がいるから,人は希望を持って生きられるのよ」……。 エバタさんとは江幡玲子さん。1962年から20年間,警視庁心理鑑別技師。1982年に思春期問題研究所を設立。数々の相談や指導にあたり,執筆もされ,多くの人に慕われた人生を2004年に閉じる。 3月の震災前に,高石さんは奥さんを亡くされ,そのあと何もする気にならず,じっとしておられたそうです。生徒指導研究会でお会いしたのは8月17日。 「昨日が送り火だったので,私にとっては,今日からまた出発です」 あっという間の90分でした。昼食をご一緒しました。 「昨日,暗い,赤い月が出ていたのをご覧になりましたか?」 「ああ,そうでしたね。見ました」 思いを込めて名付けられた人たちが,あまりにも多く亡くなったこの半年。 文化祭でも震災の被災地支援の募金活動をしていた生徒会執行部員が朝玄関に立って,今度は台風12号の被害を受けた奈良県や和歌山県に送る募金を集めています。 五山の送り火も,赤い月も,見る人の目にどのように映ったことか。 「私,月には気づきませんでした」 生徒は残念そうに言いました。 「君の名前はどなたがお付けになったの?」 「おとうさん,あ,父です」 9月11日,日曜日の夜の府立植物園で月の観賞会がありました。自然科学部の生徒がお手伝いしました。今年の中秋の名月は12日でした。1日前の月は,小望月(こもちづき)。幾望(きぼう)とも呼ばれます。 2011.09.15……荒瀬克己 学校説明会
9月17日(土)に行いました普通科説明会に,430名あまりの方にご参加いただきました。在校生による学校生活や探究活動の紹介,パネルディスカッションなどに大きな拍手がおこりました。全体会後に個別相談や施設見学、探究公開ゼミなどを開催しました。アンケートにもたくさんの方にご協力いただきました。雨の中ご参加いただいたみなさま,ありがとうございます。
写真(普通科説明会の様子) 上:学校紹介 中:パネルディスカッション 下:探究公開ゼミ |
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