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最新更新日:2025/07/10 |
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1・2年生 校外学習に出発です!!![]() ![]() ![]() 1年生は、京都市内を「班別にオリエンテーリング」します。京都に住みながら、なかなか地元の良さを見つけていない所もあると思いますので、この機会に班員で協力し合いながら、是非地元京都の良さを再発見してきてください。御所や平安神宮、北野天満宮などを訪ねる予定です。 1・2年生とも、ケガなく、トラブルなく、スムーズに探訪できることを願っています。 (写真は、2年生事前学習の壁新聞と学校出発時の様子です) 早朝の自主清掃 野球部の皆さんありがとう!![]() ![]() 第53回京都市中学校弁論大会![]() ![]() ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「人のために、生まれる力は無限大」 思えば1年前、生徒会本部役員としてスタートした私は、この生徒会スローガンの本当の意味をまだ深くはわかっていませんでした。 3月11日、日本中が悲劇に包まれた東日本大震災。私たちは、今こそ「人のために」を意識して活動しなくてはと緊急に募金活動を開始しました。まずは校内で、そして放課後は地域のスーパーで募金を呼びかけました。たくさんの人が募金をしてくださり、私はそのとき、あらためて人の優しさや温かさを知ることができました。 しかし夏休みのリーダー研修会で学校の現状について話し合っている中、大きな課題が見えてきました。広く社会に役立つ活動をしているのに肝心の地域の方々との関係を見てみると、私たち中学生が迷惑をかけてしまっていることがあまりに多すぎる。道路に座り込んで道をふさぐ、暗くなってから騒いでいる人がいる。どんなに社会に貢献しているように見えても、すぐ目の前にいる地域の方々を大切にできていない現実。こんなことで私たちだけいい気分になっていていいわけがありません。でももう私たちの最大の取組、地域の方、小学生、幼稚園児たちを招いて行う春日丘フェスティバルはすぐそこまでせまってきていました。今年のフェスティバルのサブテーマは「絆」。来場された方との絆を深め、本当の「人のために」を実行していく。そんなフェスティバルを企画していく上で、これが理想だけに終わってしまっては、何のために1年間生徒会役員をしてきたのだろう。そんな疑問が膨らんできました。 地域との信頼回復。 私たち10人で何ができるんだろう?何をすれば信頼は回復されるのだろう?提案はしてみたものの私たちにはわからないことだらけ。何度も意見がすれ違い、悩む毎日…。しかし何度も何度も意見をぶつけ合わすたびにはじめはバラバラだった私たちでしたが、少しずつお互いの距離を縮め、本部みんながとても大切な仲間、いや、それ以上のいなくてはならない存在になりました。 夏休みが明け、今年の春日丘フェスティバルについて全校集会で提案することになったある日、私たちは、勝負に出ました。春日丘フェスティバルを通して全校生徒の意識を変える!!先輩たちが築いてこられた本当の春日丘中学校の姿を今、取り戻すんだ!!キャッチフレーズは『伝統・伝承・終わらない絆』先輩たちから受けついだ伝統、それは人のために活動しているなかで輝く生徒全員の笑顔。私たちの使命は、それを実行し続け、さらに次の世代に伝承していく。フェスティバルで生まれた絆はその日だけではなく、学校内、地域、世界、そして時を越えて終わらない広がりを持っている。 大きすぎるテーマかもしれない。でもそれを一人ひとりに訴えかけ、小さなことから実行していく。なんとしてもこのフェスティバルを成功させるんだ。その想いは全校生徒に響き、各クラスの取組、ステージでの舞台発表、そして生徒会が絆のメッセージを伝えるために必死で練習したバンド演奏。全てが温かい気持ちに包まれ2日間で約2000人ものお客さんを迎え、学校中が笑顔と元気と絆でいっぱいのフェスティバルになりました。 いよいよ最後の閉祭集会となり、私たち生徒会本部も一年間の思いを語って終わろうとしていたそのとき、フェスティバルに来てくださった春日丘を卒業した先輩方と地域の方が突然みんなに話をしてくださいました。『よくやった』『やればできるやん』『中学生みんなすばらしいね』と生徒全員に言ってくださいました。 私はその言葉を聴き涙が止まりませんでした。「あぁ春日丘フェスティバルをやってよかった。」今回のフェスティバルだけで何が変わったのかと聞かれても正直わからないけれど、これからも「人のために」を意識した行動をすることによってこの学校も、この地域ももっともっと素晴らしいものになるはず。 『伝統・伝承・終わらない絆』 私たちの挑戦はまだまだ続きます。 ちょっといい話―42―![]() 寒くなってきましたが、心は温まります。 ☆『息子のひと言』 家族でさくらを見に行った帰りのこと。2時頃、ちょっと遅めのお昼をとろうと、レストランに入りました。ものすごく混んでいて注文をとるのに30分。注文したものが来るのになんと1時間かかっていました。 家族みんな自然と無口になり、隣の席の家族は「待ちきれない」と言って帰ったほど。みんなイライラしていました。私も帰りに一言文句を言ってやろうかと考えていました。一番先に長男の注文したものがきました。「いただきます」の前に、小学1年生の息子がひと言。「たくさん待ったお陰で、おいしく食べられるね!」 トゲトゲだった心が一瞬にしてあたたかい気持ちになりました。私達はその後、みんなおいしく昼食をいただくことができました。 ☆『記憶に残る「別れと旅立ちの日」』 それは私が小学校5年生の時だった。卒業式当日、私に卒業生を会場に案内する役目が与えられた。少し重い気分で、仲の良かった6年生や苦手だった6年生の顔を思い浮かべながら体育館から教室に向かった。 教室の前まで来ると入り口は閉まっており、入りづらかったが、思い切って入り口を開けた。「準備ができました。会場へどうぞ・・・」と言うと、一瞬の間。 何か間違ったことを言ったのかと躊躇したその時、担任の先生が「じゃあ・・・行こうか!」と呼びかけると、6年生のみんなが笑顔で「はい!」と応えた。小さくも大きくもない声だった。 涙が出そうだった。色々なことを思い出した。少し大人びた卒業生はどの顔も清清しく、まぶしかった。こんなふうに自分も卒業の日を迎えたいと感じた。 あれから35年以上がたった今でも、あの時のまぶしい6年生教室が忘れられない。 ☆『初めての給料日』 この4月初任者が配置された。初めての給料日前日のことである。最近は給料も振り込みになっているので,現金を手にする感動はない。いつもは,本校でも給料日前日に担当の事務職員が給料明細書を職員に配ってくれる。 4月の給料日前日,出張から帰ると,私の机の上にメモ書きと封筒が置いてあった。事務職員からのメモで「明日は給料日です。生まれて初めて給料をもらう職員がいます。校長先生から明細を渡してあげてください。」と書いてあった。 事務職員の配慮にほのぼのとしたやさしい気持ちになれた。 早速初任者を呼び,私の初めての給料日のことや,当時の社会の様子等を話して親孝行をするようにと声をかけ給料明細書を渡した。 後日,初任者が私の所に来て,「先日は有り難うございました。校長先生に言われたように私なりの親孝行をしました。」と報告してくれた。 何気ない出来事であるが,事務職員に感謝するとともに,初任者が事務職員のように,周りの人に配慮ができる教師に成長してくれるよう願っている。 (写真は弁論大会で堂々と述べているN・Tさんです) 伏見支部授業研 1年3・4組女子体育![]() ![]() ![]() 新人戦結果 バレー部ベスト8!卓球部1年女子予選1位通過!
<女子バレー部>が、新人戦市内大会ベスト8に勝ち進み、見事府下大会の出場権を獲得しました。
また<卓球部>の新人戦も始まり、1年生大会女子団体戦Dブロックで、見事1位通過を果たしました。次は11月23日の全市決勝大会です。 ※ 上のステージでの更なる健闘を祈ります!! H23年度 PTA壁新聞 完成!!![]() ![]() ![]() 新・生徒会本部が動き出しました!![]() ![]() ちょっといい話―41―![]() 『勇気の物語 ホーム転落「俺が助ける」 〜2004年1月3日付け関西版掲載の連載記事より〜 『財貨を失うのはいくらかを失うことだ、名誉を失うのは多くを失うことだ、勇気を失うのは、すべてを失うことだ。』そんな言葉がある。社会が、人が委縮し、無力感さえ漂う時代。だからこそ、勇気を奮い起こしたい。命を賭(と)して立ち向かう、 新たに事を起こす、静かに信念を貫く――。 ひるまず、たゆまず歩き続ける、そんな勇気の物語。 ◆助けられてきた人生 22歳の決断◆ 激しかった雷雨は小雨に変わっていた。家庭教師のアルバイトからの帰り、大学生の伊賀崎俊(22)は、 千葉県と都心を結ぶ私鉄・北総線新鎌ヶ谷駅のホームにいた。2003年9月4日午前零時20分。5分前に着くはずの電車はまだ来ない。雷雨によるダイヤの乱れは続いていた。終わったばかりのサッカー合宿の内容を携帯メールでやり取りしていると、男性のふらつく影が視界をよぎった。酔っていた。崩れるように1メートル下の線路に落ちた。ホームには二、三十人いたが動かなかった。 いつ電車のライトが迫ってくるか知れない。が、意を決して飛び降りた。男性はレールの間に倒れ動かない。上体を抱き起こす。「重い」と感じた時、乗客の一人が降りてきた。渾身(こんしん)の力でホームに押し上げた。男性は腕を骨折していた。 翌日、同県印西市の自宅で俊の話に母の真理子(50)は、「何てことしたの。非常ベルもあるじゃない」と叱った。2001年1月に起きたJR新大久保駅の事故が脳裏をかすめた。ホームから落ちた人を救おうと二人が飛び降り、輪禍の犠牲になった。俊は生まれつき耳が聞こえない。聴覚障害では最も重い2級だ。珍しく言い返した。「人が倒れているのに、ほったらかしにするのか」俊は京都府八幡市で生まれた。三人兄弟の二男。生後六か月の1981年冬、「感音性難聴」と診断された。〈音のない世界〉の宣告。絶望の中で真理子は息子を抱いて施設に通った。当時の補聴器は服の下につけても人目についた。ふびんに思い、外出する時はたまらず外した。 ある日、街で同じ障害を持つ女児を見かけた。補聴器がワンピースの上にあった。衣服のすれる音が入らないようにするためだった。「一体、私は何をしてるんだろう」自分を恥じた。「強くなろう。この子を育てていくんだ」 「お前の言葉は分からない」千葉に転居し、小学校に上がった俊に「宇宙人」というあだ名が付いた。会話に入りたくて唇の動きから言葉を追いかけても、そのスピードについて行けない。家に入る前に何度悔し涙をぬぐっただろうか。それでも、教科書をなぞって進み具合を教えてくれる友人がいた。しかし、予備校では孤独だった。受験生に自分の相手をする余裕などない。社会に出ればもっと厳しい現実がある。不安が募った。大学に入った年、それを察していた母に災害救援ボランティアの講習を勧められた。俊は思った。いろんな人に助けられて生きてきた。が、いつまでも頼っていていいのか。せめて自分の身は自分で守りたい。そして一人で生き抜く力を身につけたい。講習の合宿に参加した。人を助けたことはなかった。言葉が伝わるか、トラブルになったら――という思いが先に立ち、困っている人を見かけても動けなかった。ここを乗り越えれば自分の足で立っていける。障害者にもできるはずだ。止血法や蘇生(そせい)法を習得し「セーフティリーダー」に認定された。短い期間ではあったが自信を得た。何があっても対応できる、明日(あした)へと踏み出せる気がした。 新鎌ヶ谷駅で転落を目撃した夜、その時が来た。周囲を見回した。誰も動かない。「俺(おれ)が行く」決断した。救助の鉄則を反芻(はんすう)した。自分の安全を確保して行動に移る。線路脇に退避所があるのを確かめた。小学一年からサッカーを続け、体力には自信があった。1,2分あれば。「助けるんだ。大丈夫だ」。自分の声をはっきりと聞いた。救助から10分後に電車は来た。名前も告げずに立ち去った。「俺って、人の命を救えたよな」。確かな手応えをつかんだ。 半月後、真理子は突然、男性の妻から電話を受けた。「主人に万一のことがあれば、私たち家族は路頭に迷うところでした。何とお礼を申し上げていいか」男性の妻は事故の翌日、誰が助けてくれたのか駅に尋ねた。ポスターを張って俊を探し出した駅から、数日後に連絡があった。面倒を避け、厄災を恐れて人とかかわろうとしない時代。駅員が救助したとばかり思っていた妻は、驚いた。「事故を知らせる人はいても、まさか、そんな人がいるなんて」ただ、ただ頭が下がった。夫が治れば伺いたい。その前にどうしてもと、電話をかけたのだった。幾度も幾度も繰り返される感謝の言葉。真理子は息子をしかったことを悔いた。人の役に立ってほしいと願ってきた息子が、一人の、一家の命を救った。誇りに思った。「もし、もしも俊の耳が聞こえたら、この電話を聞かせてやりたい」 真理子は切実にそう思った。(敬称略) (写真は「PTA歩こう会」のスナップより) 春日野敬老会 吹奏楽部出演+記念品贈呈
10月23日(日)、春日野小学校で「敬老会」が行われました。本校吹奏楽部も出演し、和やかなムードでお祝いしました。最後に、「ふるさと」を全員で斉唱し、これからのご長寿を祈願しました。また、ハンドメーキング部と2年生の人たちで作った、愛くるしい人形を記念品としてお送りしました。いつまでもお元気で・・・!!おめでとうございました。
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