![]() |
最新更新日:2025/07/14 |
本日: 昨日:107 総数:632896 |
ちょっといい話―41―![]() 『勇気の物語 ホーム転落「俺が助ける」 〜2004年1月3日付け関西版掲載の連載記事より〜 『財貨を失うのはいくらかを失うことだ、名誉を失うのは多くを失うことだ、勇気を失うのは、すべてを失うことだ。』そんな言葉がある。社会が、人が委縮し、無力感さえ漂う時代。だからこそ、勇気を奮い起こしたい。命を賭(と)して立ち向かう、 新たに事を起こす、静かに信念を貫く――。 ひるまず、たゆまず歩き続ける、そんな勇気の物語。 ◆助けられてきた人生 22歳の決断◆ 激しかった雷雨は小雨に変わっていた。家庭教師のアルバイトからの帰り、大学生の伊賀崎俊(22)は、 千葉県と都心を結ぶ私鉄・北総線新鎌ヶ谷駅のホームにいた。2003年9月4日午前零時20分。5分前に着くはずの電車はまだ来ない。雷雨によるダイヤの乱れは続いていた。終わったばかりのサッカー合宿の内容を携帯メールでやり取りしていると、男性のふらつく影が視界をよぎった。酔っていた。崩れるように1メートル下の線路に落ちた。ホームには二、三十人いたが動かなかった。 いつ電車のライトが迫ってくるか知れない。が、意を決して飛び降りた。男性はレールの間に倒れ動かない。上体を抱き起こす。「重い」と感じた時、乗客の一人が降りてきた。渾身(こんしん)の力でホームに押し上げた。男性は腕を骨折していた。 翌日、同県印西市の自宅で俊の話に母の真理子(50)は、「何てことしたの。非常ベルもあるじゃない」と叱った。2001年1月に起きたJR新大久保駅の事故が脳裏をかすめた。ホームから落ちた人を救おうと二人が飛び降り、輪禍の犠牲になった。俊は生まれつき耳が聞こえない。聴覚障害では最も重い2級だ。珍しく言い返した。「人が倒れているのに、ほったらかしにするのか」俊は京都府八幡市で生まれた。三人兄弟の二男。生後六か月の1981年冬、「感音性難聴」と診断された。〈音のない世界〉の宣告。絶望の中で真理子は息子を抱いて施設に通った。当時の補聴器は服の下につけても人目についた。ふびんに思い、外出する時はたまらず外した。 ある日、街で同じ障害を持つ女児を見かけた。補聴器がワンピースの上にあった。衣服のすれる音が入らないようにするためだった。「一体、私は何をしてるんだろう」自分を恥じた。「強くなろう。この子を育てていくんだ」 「お前の言葉は分からない」千葉に転居し、小学校に上がった俊に「宇宙人」というあだ名が付いた。会話に入りたくて唇の動きから言葉を追いかけても、そのスピードについて行けない。家に入る前に何度悔し涙をぬぐっただろうか。それでも、教科書をなぞって進み具合を教えてくれる友人がいた。しかし、予備校では孤独だった。受験生に自分の相手をする余裕などない。社会に出ればもっと厳しい現実がある。不安が募った。大学に入った年、それを察していた母に災害救援ボランティアの講習を勧められた。俊は思った。いろんな人に助けられて生きてきた。が、いつまでも頼っていていいのか。せめて自分の身は自分で守りたい。そして一人で生き抜く力を身につけたい。講習の合宿に参加した。人を助けたことはなかった。言葉が伝わるか、トラブルになったら――という思いが先に立ち、困っている人を見かけても動けなかった。ここを乗り越えれば自分の足で立っていける。障害者にもできるはずだ。止血法や蘇生(そせい)法を習得し「セーフティリーダー」に認定された。短い期間ではあったが自信を得た。何があっても対応できる、明日(あした)へと踏み出せる気がした。 新鎌ヶ谷駅で転落を目撃した夜、その時が来た。周囲を見回した。誰も動かない。「俺(おれ)が行く」決断した。救助の鉄則を反芻(はんすう)した。自分の安全を確保して行動に移る。線路脇に退避所があるのを確かめた。小学一年からサッカーを続け、体力には自信があった。1,2分あれば。「助けるんだ。大丈夫だ」。自分の声をはっきりと聞いた。救助から10分後に電車は来た。名前も告げずに立ち去った。「俺って、人の命を救えたよな」。確かな手応えをつかんだ。 半月後、真理子は突然、男性の妻から電話を受けた。「主人に万一のことがあれば、私たち家族は路頭に迷うところでした。何とお礼を申し上げていいか」男性の妻は事故の翌日、誰が助けてくれたのか駅に尋ねた。ポスターを張って俊を探し出した駅から、数日後に連絡があった。面倒を避け、厄災を恐れて人とかかわろうとしない時代。駅員が救助したとばかり思っていた妻は、驚いた。「事故を知らせる人はいても、まさか、そんな人がいるなんて」ただ、ただ頭が下がった。夫が治れば伺いたい。その前にどうしてもと、電話をかけたのだった。幾度も幾度も繰り返される感謝の言葉。真理子は息子をしかったことを悔いた。人の役に立ってほしいと願ってきた息子が、一人の、一家の命を救った。誇りに思った。「もし、もしも俊の耳が聞こえたら、この電話を聞かせてやりたい」 真理子は切実にそう思った。(敬称略) (写真は「PTA歩こう会」のスナップより) 春日野敬老会 吹奏楽部出演+記念品贈呈
10月23日(日)、春日野小学校で「敬老会」が行われました。本校吹奏楽部も出演し、和やかなムードでお祝いしました。最後に、「ふるさと」を全員で斉唱し、これからのご長寿を祈願しました。また、ハンドメーキング部と2年生の人たちで作った、愛くるしい人形を記念品としてお送りしました。いつまでもお元気で・・・!!おめでとうございました。
![]() ![]() 第2回 小・中合同授業研(於:春日丘中)![]() ![]() ![]() 後期生徒会本部役員立会演説会・選挙![]() ![]() ![]() 第64回 生徒音楽会(2)![]() ![]() 第64回 生徒音楽会(1)![]() ![]() 平成23年度後期生徒会本部役員 選挙運動開始!![]() ![]() ![]() 7組 秋の校外学習![]() ![]() ![]() PTA保体委員会主催 3B体操![]() ![]() ちょっといい話―40―![]() (写真は、10月18日(火)に行われた「歩こう会」でのスナップ写真の1枚です。) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 『ずいぶん前だが、テレビを見ていたら森繁久弥さんが、目の不自由な子どもたちの前で歌っていた。『七つの子』という童謡で、《♪からす、なぜ鳴くの、カラスは山に、かわいい七つの子があるからよ…》と歌っていく。二番は《♪山の古巣へ、行ってみてごらん、…》というのだが、森繁さんの表情が一瞬こわばった。セリフが思い出せずギクリとしたような顔だった。なぜそんな顔をしたかすぐわかった。森繁さんは『まあるい目をしたいい子だよ』という歌詞にぶつかって、困ったなと思ったのだろう。けれども、歌は、わずかなタイミングのずれはあったが、《♪まあるい顔したいい子だよ》と歌われたのである。(戸板康二著「ちょっといい話」文芸春秋社)』 という話があります。 戸坂さんは、古典芸能にもくわしく、いろんなジャンルの方々と親しく、『ちょっといい話』には、心温まる話がたくさんのっています。どれを読んでも味わい深く、あたたかい目で相手を見つめ、相手の心を大事にした内容で、考えさせられる話です。目の不自由な子どもの心情を思いやり、とっさに歌詞をかえた森繁さんも、それに気づいた戸坂さんも、相手の立場を考えてものを見ることのできる、人権感覚の鋭い方たちだと思います。 私たちは、身の回りのできごとを、見聞きしても、そのすばらしさに気づかなかったり、大事なことを見過ごしていることがあります。特に、人権に関わることは、自分に関係がなければ見落としがちで、関心を寄せようとしません《♪まあるい顔したいい子だよ》の歌を、何も気づかず森繁さんに拍手を送った人もいたでしょう。「森繁さんともあろう人が歌詞を間違えて」と考えるのか、戸坂さんのように森繁さんの心情に拍手するのか、その人の人権感覚の分かれ道のように思います。森繁さんは、きっとその後も、この歌を《♪まあるい顔した…》と歌っておられるでしょう。 相手の立場を考え、枠にはまらず、さりげなく相手の人権を尊重した言動をとることは難しいことだけれど、人として心がけていかなければならない大切なことだと思います。 ※人権感覚は、最初から身についているものではありません。自らが、能動的に体も心も動かして磨いていくものです。そんなことを教えてくれる「ちょっといい話」でした。人と人とのつながりを、更に豊かに、更に確かなつながりにしていきたいと思いました。 |
|