6月6日現在の警察庁のまとめによれば,東日本大震災の被災者数は,死者15,373人,行方不明8,198人,避難は98,303人に及びます。
2011年3月11日という日は,少なくともこの国に住む人にとっては長く忘れられない日になることでしょう。1995年1月17日がそうであったのと同様に,いやそれ以上に,私たちにとってその意味の大きさは最初よくわかりませんでしたが,徐々に全容が明らかになるにつれて,驚愕の事実として否応なしに受け入れざるをえないものとなってきています。
二度と元に戻ることはありませんが,少しでも悲しみが癒され,生活が安定し,安心できる日常が回復するよう,そのために政治と科学技術をはじめとした,わが国のすべての力が正当に注がれるよう,心から願うものです。
<入学式の式辞から−2−>
開式の冒頭,3月11日に東北関東で起きた東日本大震災で亡くなられた方々に黙とうを捧げました。新聞報道によれば,4月7日時点で亡くなられた方は12,690名,いまも安否の分からない方は17,026名いらっしゃいます。その数はあまりにも多く,想像することは困難です。単純な比較は慎まなければなりませんが,1995(平成7)年1月17日の阪神淡路大震災の死者は6,434名,行方不明は3名でした。
2005(平成17)年4月25日に起こったJR西日本福知山線の脱線事故では107人が亡くなり,562人が負傷されました。その事故の後,君たちの先輩である6期生の一人の書いた文章が京都新聞の投書欄に掲載されました。タイトルは「数字の向こうにあるもの」。数が多いとか少ないとかといったことが取りざたされるが,その数字はすべて「1」が積み重なったものであり,その「1」の向こうにはそれぞれの生活があって,家族が,友人が,恋人が,また,夢や希望や仕事や会話や約束や楽しみや,さまざまなことがあったんだ。それらが事故によって永遠に失われてしまったんだ,というような内容でした。
3月19日に,このアリーナで終業式を行いました。卒業した10期生の代表が,2月22日に起きたニュージーランド・クライストチャーチの地震の被災者に義捐金を送ったという報告をして,後輩たちに,東日本大震災の被災者の方たちへの支援を託しました。その際に彼らは,「実際に行ってみて,見知らぬ土地に暮らす人たちにも日常生活があることを知った」と言いました。
4月1日から国土交通省で働くことになった4期生は,東京に行く前に挨拶に来てくれて,「この国の将来のために,この国で暮らす,すべての人の幸福のために,一生懸命勉強して自分の心と力を尽くしていきたい」と語りました。
君たちの多くは阪神淡路大震災の1995年に生まれ,東日本大震災の2011年に高校生になりました。そのことに運命を見よとは言いませんが,そういう事実の中で君たちがこれまで生きてきて,これからもまた生きていくということについて,よりよく生きていくということについて,思いを新たにしてほしいと思います。
いま,わが国は非常に困難な状況にあります。
目を凝らし,耳を澄まして,わが国の状況を,正確に見つめ考えてください。とてもつらいことですが,昨夜もまた,東北地方で大きな地震がありました。復旧に向けて歩み始めた人たちや,文字通り命がけで取り組んでいる人たちがいる前で,自然は厳しい表情を変えてくれません。いまこの時間においても,多くの心配や不安があり,無数の悲しみが続いています。
どうすれば,人間が幸福によりよく生きることができるのか。このことは人類の課題です。科学や宗教や政治が,それぞれの立場から答えを出そうとしていますが,残念ながらいまだに解決できていません。
しかし,落胆してはいけません。常に希望はあります。いや,むしろ希望をしっかりと抱きましょう。ただし,希望は,偶然には叶えられません。いのちを大切にする平和で豊かな社会も,幸福も,よりよく生きることも,具体的に取り組み続けることによってのみ実現します。
ではどう取り組むのか。それを考えるためにこそ学ぶのです。
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なれなれしい言い方で申し訳ありませんが,大阪大学総長の鷲田清一先生は実にすてきな方です。毎年生徒に話していただいています。哲学を生活に活かす,示唆に富んだ講演会です。今年は7月26日に来ていただく予定です。
あるとき鷲田先生が,“responsibility”という語を単に「責任」と訳すのではなく,「自分が引き受けるべきつとめ,役割」と考えるほうがよいとおっしゃいました。しなければならない義務とは解釈しないで,自分が引き受けることのできる,自分がそうすることによって他者や社会とどう関わるかを形づくっていく役割,というように考えてはどうかということではないかと思います。
高校生の一人としての役割,仲間の中での役割,家族の一人としての役割,仕事における役割,社会の一員としての役割等々,役割も時と場面によってさまざまです。
自分の役割とは何だろうか。このことは私たちにとって,根本的でまじめな,少し重い問いかけです。その問いかけに思いをめぐらせ,自分の言葉と行動で丹念に答えていく……それが生きることであり,そのために学ぶのではないか。
ただし,容易に答えは見つかりません。鷲田先生はこうもおっしゃっています。疑問を抱き続けること。それもまた「大切な力」だ。
……… 荒瀬克己