最新更新日:2024/09/24 | |
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「全力出さずに,言い訳するな」
わがカープが好調で,気分のいい朝が増えています。1991年以来の優勝なるか。
思えば,つくば市の研修所で夏を過ごした1996年が最悪でした。1996年,この年のシーズンは中盤までぶっちぎり独走状態だったわがカープが二位巨人に11.5ゲーム差をつけていました。しかし,11ゲーム差で迎えた7月9日の対巨人戦(札幌市円山球場)で,2回二死走者なしから9者連続安打で一挙7点を奪われて負けたのを機に,失速が始まり,長嶋茂雄監督(当時)のメイク・ドラマというわけのわからない流行語大賞に貢献した非常に痛い経験をしてしまいました。したがって少なくとも来月まで油断は禁物です。 さて,8割の人が目的を持って生きるのを面倒と考える,といわれます。理由は,容易に目的は達成されないから。失敗をして悔しい思いをするより,流されて生きるのが楽だからといわれます。何が人生を楽しくするかは,その人次第です。考え抜き,挑戦することが脳のためにやっているとすれば,目標をちょっと高めに設定するだけでいい。成功しても達成感のない活動は浪費と同じではないでしょうか。 格差社会は非常に大きな問題ですが,全力で物事に取り組む人が少なくなったことはさらに問題です。自分はこんなものだと,自分で限界を設定してしまっているケースが非常に多いと感じます。本気で走り,本気で挑戦する機会がなく,したがって,自分の実力がわからないまま自分を過小評価していないだろうか。教育問題の本質は,教育は「教え,授ける」ではなく「引き出す(エデュース)」であるという原点にたち還るべきだと思っています。この資質・能力を高め,社会で孤立せず,自分だけでなく,相手も社会も何かを得る関係を構築する「自立した」「学校だけで閉じない」打たれ強い個を育てていきたい。そんな7月であることを願っています。 学校長 恩田徹 写真は7月1日のLHRの様子 惜別
米田貞一郎先生が,とうとう逝かれた。いつかは,と覚悟していたが,喪失感ははかりしれない。わたしどもにとって,米田先生ははるか高みにあって自ずと光を発する導きの星だった。会えるかどうか微妙だった亡くなられる一週間前,扉の向こうに,先生がいると思ったら,心臓が早鐘のように打ったことを覚えている。おそるおそるドアをノックした。ご家族の方が少し待ってほしいとおっしゃった。しばらして入室を許可していただいた先に,何と着替えられて車いすにわざわざ座られた矍鑠たる先生がそこにおられた。筆談ではあったが,学校,生徒,教職員のことを最後まで気にかけてくださった。別れ際に握ってくださった手の力強さに驚き,またお会いできるものと思った。
米田先生はもうこの世にいない。このひとが同時代に生きていてくれてよかった,と心から思える。 米田貞一郎先生。校長ということばはこの人のためにある,と思える。どんな主義主張にも拠らず,とことん生徒目線で教育と学校経営を考えぬかれた。 学校長 恩田 徹 写真は米田先生の100歳の誕生日での雄姿と101歳の誕生日を祝って書いていただいた「絆」の本校玄関前の石碑 「楽する」と「楽しむ」は違う
次期学習指導要領の方向性には「探究」が満載で少し面映ゆくなってしまいます。業界用語のように「元祖」「本家」などと名乗るのも品がないなと思っています。アクティブラーニングであれ,探究活動であれ,楽をして,よくわかることばかりを望んでいませんか。あなたご自身はどうですか。できるだけわかりやすく教えてくれる先生ばかり望んでいませんか。
「わからなかったらわかるまで考えなさい」 「わからなかったら自分で調べるという努力をしなさい」 「わからなかったら前に習ったことを忘れていないか,復習してみなさい」 学習成果という観点から見てみると,大きくはつぎの4つのタイプに分かれます。 (1)実力もあり運もあり,いつも満足のいく成果を得る人。 (2)特別な努力をしている様子はないけれども,なぜか結果を出す人。 (3)努力はするけれども,なかなか報われない人。 (4)やる気に乏しく,結果も出せない人。 いちばん多い答えが(3)ではないでしょうか。「けっしてやる気がないわけじゃない。能力が低いわけでもない。何かきっかけがあれば・・・」と思っていますよね。わたしたちが自分自身どんなときにいちばんやる気が出て,本気でがんばることができるか。それはまぎれもなく「なるほど,こうすればいいのか」 「なんだ,こんなことだったのか」と,その解決方法がはっきりとわかったとき。何か壁に当たったときにどうしたらいいかわからずに,「私ってダメな人間なのかも・・・」とずっと悩んできたかもしれません。 勉強においても自立しないといけません。そして孤立してはいけません。つまづきの事例と原因を声に出して他人に話しましょう。困っていることをため込まず話題にして面白がる能動性と協働性が欲しいのです。 大人はもっと悲惨ですよ。8割の人が目的を持って生きるのを面倒と考えています。理由のNo.1は,容易に目的は達成されないから。失敗をして悔しい思いをするより、流されて生きるのが楽だからであるといわれています。そして,残りの2割の人も失敗の中で苦しんでいます。どちらが人生を楽しくするかは、その人次第ですが,人より一歩前に出る相対評価ではなく、面白がって自分が楽しめたかという絶対評価に対して満足すべきだと思って,決して孤立することなく,踠こうではありませんか。 校長 恩田 徹 La Gaya Scienza
疑問が発見を生み、一つの発見が新たな発見を呼び、
それらが集積されて知識となり、知識の体系が知恵に結晶する。 ひたむきに繰り返されてきた未知の扉を開こうとする人間の営み。 人類は「知る」ことによって生きてきた。 すべては君の「知りたい」からはじまる 写真:2年生「探究基礎」JUMPの様子 本気で取り組むことの尊さ
本気で取り組むことの尊さ
‐「求める」と「究める」はちがう‐ 5月の初日に本校サッカー部のインタハイ予選を観戦する機会を得ました。本気で取り組んだプロセスを大事にしてほしいと心より願います。「ボール奪取したら,迷わずゴールに向かえ」との木村監督のシンプルで且つ明確な目標設定の成果に取り組んだプロセスを評価してほしいと願います。 サッカーに限らず勉強においてもいえることは,多くの人は自分自身で答えを探しだすのではなく,指導者の求めている答えを探し出そうと黙り込んだり,多くは自分の行為が間違っていたと思い込んで黙り込むのが現実ではないでしょうか。それでは自分の考えを表現できず指導者の求める答えだけを探してしまう生徒を育てるだけになります。 わが国は場の空気と感性の文化。指導者と生徒間でも「いわれなくてもわかりなさい」「空気を読みなさい」曖昧な問いかけに対し,曖昧な答えを述べ,それでお互いがわかったつもりになり,対話という方略が欠けていたともいえます。 対話の技術とは思考を育てる技術のことではないかと思います。思考の中でも,私は最も大切なのは「批判的思考」ではないかと感じています。「その考えは本当に正しいのか」について,自分自身でも批判してみることで再確認することが大切だと日々感じております。 「阿吽の呼吸と気合と根性の文化」もわが国が世界に誇る非常に高度な洞察力です。しかし,一つの答えを求めるということは問題解決のために,様々な角度から論理的に考え,究めようとするプロセスを否定することになりはしないでしょうか。画一的な方略を求め,訓練や規律や礼儀作法も求め,コミュニケーションをフリーズさせ,その延長に体罰,暴力があったのではないかと思います。 本日(5月2日)の3時間目のHR活動で,来たる遠足の準備という周りの空気を全く読めず,テストの結果に一喜一憂するな,と学習について話し合っていたクラスに敬意を表したいと思います。 写真:1年生のLHRで話をする恩田校長 Take five !
探究五箇条
一、知らないということを知れ 一、常識を学べ 一、常識を疑え 一、手と頭を動かせ 一、朋と愉しめ Finger five曰く「授業中!天国だよ!」 What's going on!星野道夫曰く「本当にやりたいと強く思うことは、時として勇気を生む。」 Doin’ itウォルター・ビショップ博士曰く、 「新たな謎だ。何ともゾクゾクする。可能性に満ち溢れている。どんな答えがでるか!」 I have a dream!
Walt Disney 曰く、「If you can dream it, you can do it.」
「専門性」と「汎用性」あるいは「普遍性」について
本校の最高目標である「自立する18歳の育成」は,「大きな子ども」を本校での学びを通して「小さな大人に」ブレイクスルーすることでもあります。今あえて「ブレイクスルー」という言葉を使いました。また,「大きな子ども」から「小さな大人」にという問いを投げかけました。蝶を例にしますと青虫が成熟して「さなぎ」に変異する。つまり青虫が大きく成長してそのままさらに大きくなりつづけるのではなく別の「さなぎ」という形に姿を変える。この成熟,さらに変異という大きな変化,姿を変える,脱皮することをブレイクスルーと思ってください。ブレイクスルーというのは教育の世界では「自分の限界を超えること」です。「自分の限界を超える」とは言葉は簡単で格好いいですが,それほど生やさしいことではありません。というのは「これが私の限界だ」といって達成できるようなものは「自分の限界」とは違うと思います。欠陥の改善や不調の修復も非常に大切なことです。ただし,改善や修復は改善後,修復後の姿やデザインがあらかじめ想定できているはずです。改善前に考えられていることは「限界」とは言いません。自分の物差し,つまりこれまでの学力観や学習法や練習方法を抱え込んでいる限り,自分の限界を超えることはできません。知識は増えるかもしれないし,技術も身につくかもしれない。けれども,自分の「枠組み」のなかにいくらつめこんでも,面積は増えても立体感は生まれないように思えます。ブレイクスルーとは今までの自分全体を上から見通せるところに行く。つまり離陸することです。身につけた専門性の高い知識,技術を通してそのさきにある新しい未知のものをつかみに行くということです。
専門性とはなんでしょうか。本当に専門性のある人とは実は専門外の世界,自分の専門以外の専門を持つ人とつながりの持てる人のように思えてなりません。自分の専門外の人とグループワークして新しい世界を作れる人のことです。ドラマでも「チームで仕事をする」話ではコンピュータの専門家とか,外国語の専門家とか,格闘技の専門家とか変装の専門家とか,心理学の専門家とかそういう様々な専門家ができてきます。スポーツの世界でも,力で押すタイプやテクニックで勝負するタイプ,小細工の専門家など競技によっては様々です。彼,彼女らがそれぞれの特技を持ち寄って,そのコラボレーションを通して,単独では成し遂げられないほどの大事業が実現される。他の専門家とチームで仕事ができること。それが専門家の定義ではないでしょうか。 本校はそれを体験できるチャンスの場です。その意味でブレイクスルーとは目の前の勉強や取組,技能に取り組むことを通して,答えがあるのかないのか,ひとつなのかどうなのかわからない問いを自分で立てられるようになって,その先の未知のものをつかみに行く,その先にありそうなものをつかみにいけるそんな「感性」といえるものです。与えられた問いを早く正確に解くことと,自分で問いや課題を作ることとは明らかに次元が違うのです。専門性についても,専門を深く学ぶことによる汎用性や普遍性を身につけることが目的ではないかと思います。 本校生は「自分の魂の核」である何かを,発見する可能性のある取組がたくさんあります。「心底これがやりたいんだ!」という何かや,「これこそが人生で本当に重要だ!」という何かについてです。とはいえ,手放さなくてはならないことも,いろいろ出てきます。 いやむしろ,捨てて,手放して,その涯に発見するのが,本当の「自分の魂の核」かもしれません。その「手がかり」を手につかみ,信じられるのは,あなた自身です。自分自身を深くふかく信頼しましょう。人生の転換期を突破するブレイクスルーのために。 校長 恩田 徹 |
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