京都市立学校・幼稚園
最新更新日:2024/07/26
本日:count up25
昨日:446
総数:2335530
文字: 大きく | 小さく | 標準 配色: 通常 | 白地 | 黒地
ハートフルマーク
7月学校説明会の様子を配信中!「フロアガイド」と一緒にご覧ください!(「カテゴリ⇒中学生のみなさんへ」をクリック!)

グー・チョキ・パー

画像1
昨年12月27日の,夕日を受けた富士。
この日,中教審高等学校教育部会で堀川の取り組みを紹介しました。
いつもながら,意余って力足らず。
その帰り,トンネルを抜けるとほのかにオレンジ色のかかった富士。
あわてて撮りましたので少し傾いていますが,いつも,富士は実に大きい。
  冠雪の富士越えていく鳥もあるべし  宜礼



 新しい年が明けました。
 今年は年賀状を一枚も書けていません。
 この場を借りて,早々にお送りいただいた皆さまに非礼をお詫びします。
 昨年までのご厚誼に感謝するとともに,この後も変わらぬご鞭撻をお願いいたします。

 転勤してきて1年目の教員と新年のあいさつを交わしたら,「もう今日から生徒が学校に来ていますね」と驚きの感想。部活も初練習ですが,自習室や図書館や進路資料室にも生徒が三々五々いて,廊下ではヒサシブリーとかオメデトーとかと,ひとしきり賑やかでした。

 校長室にいると,開け放した扉の前を通る教員たちが入ってきて,オメデトウゴザイマス,今年モドウゾヨロシクオ願イシマス。私も立ち上がって,ヨロシクオ願イシマス。
 進路部長がやってきて,しばらく話しました。これからの堀川のことやキャリア教育のことなど。お昼時になったので一緒に食事に。帰ってきてもそのまま話が続いて,「では,そろそろ」と退室する彼を見送って廊下に出たら,3年生の女子生徒がふたり。オメデトウゴザイマス。オメデトウゴザイマス。
 進路部長に数学の質問に来て,待っていたようでした。では3分後に,と言われたふたりは横の階段を上がって,自習室に行くのかと思いきや,そのまま階段の途中に立ったまま。ふと,じゃんけんをして勝ったほうが勝ち方の数だけ段を上がるゲームを思い出しました。
 それを話すと,
 「やりましたよ,よく」
 「グーはグ・リ・コで3段,チョキはチ・ヨ・コ・レ・エ・トで6段,パーはパ・イ・ナ・ツ・プ・ルで6段やったよね」
 「チョキかパーで勝たないと損やね」
 「でもグーでこまめに稼ぐことも大事やし」
 一緒に盛り上がっていると,進路部長が,「それ,どれを出すのがよいかという問題が東大入試にありましたよ」。
 すぐに問題を見せてくれました。

 1992年前期の理系の6番。
 A,Bの二人がじゃんけんをして,グーで勝てば3歩,チョキで勝てば5歩,パーで勝てば6歩進む遊びをしている。1回のじゃんけんでAの進む歩数からBの進む歩数を引いた値の期待値をEとする。
(1)Bがグー,チョキ,パーを出す確率がすべて等しいとする。Aがどのような確率でグー,チョキ,パーを出すならば,Eの値は最大となるか。
(2)省略(こちらは難問)

 「ええー! チョキはチ・ヨ・コ・レ・エ・トで6つなんとちがうの?」
 「チョ・コ・レ・エ・ト?」
 「チ・ヨ・コ・レー・ト?」
 進路部長から教わった私が,「東京では数え方が違うということやね。では解説しよう。つまりこの場合,答えは全部チョキ。なぜかと言うと,チョキでグーに勝ったら,(と言ってしまって)あれ? どういうこと? わからなくなった」。
 すかさず進路部長,「あとは自分で考えろ,ということですね」。
 生徒たちが上を向いて思案顔。そして笑って,
 「あ,そうか!」
 明るい声で,
 「先生,今度じゃんけんゲームしませんか」
 「いいね,5階まで使ってやろう。でも手が見えるかなあ」
 「そうか,相当差がついたら無理ですね」
 見上げる仕草に,子どもの無邪気さ。

 ふたりの内のひとりは,夏に別の生徒と一緒に明かりを消した進路資料室に座っていたことがありました。何をしているのかと尋ねると,
 「節電中です」
 「暗いと目が悪くなりますよ」
 「心の節電です」
 「え?」
 「ちょっと,いろいろと,ありまして」
 「電気は節約しましょうということだけど,心は節電しないほうがいいよ」
 「はい」
 思いが交錯する時をいくつも重ねて,生徒たちは大きくなっていきます。

 今日は薄暗く,寒さは厳しく,風は強く,さっきは雪が斜めに降っていました。
 明日は自然科学部を中心とした,希望者によるSSHフィールドワーク。舞鶴にある京都大学フィールド科学教育センター(舞鶴水産実験所)での研修と舞鶴引揚記念館の見学があります。天候が心配です。
 「8時に出発なので,7時半ごろに最終判断をします。舞鶴に電話をしたら,いまはみぞれ。本格的な冬将軍ではないようです」。
 みんな,気をつけて。

 2012年が始まりました。しかし,2011年が終わったわけではありません。変わることなく,この国に住む人間の叡智と誠実が厳しく問われています。
 明日のことを考え,今日を生きていくことの,切ないほどの大切さ。
 生徒たちと,教職員と,そのことを胸に刻んで,日々を重ねていきたいと思います。

                      35号(2012.01.04)……荒瀬克己

どうぞよいお年を

今回は週刊月曜日になりました。


 年の瀬。雪が舞う,底冷えの。
 いろいろなことを考えることになった,この年が行こうとしています。
 こんなことをやった,こんなことができた,と言えればよいのですが,残念なことに,そうではない1年が過ぎようとしています。

 講演会が続きました。12月17日には宇宙船地球号の山本敏晴さん。12月21日にはJAXAの白石紀子さん。写真や生徒の感想は,HPの「学校の様子」でご覧ください。

 山本さんのお話でもっとも興味深かったのは,アフリカで医師(看護師)を育てるということ。自分がそこにいなければどうにもならないというのでは,本当の国際協力にはならない。次につなぐという強い意志に,雷に打たれたような衝撃を受けました。

 白石さんのお話では,H-IIBロケットチームの150人に,1人たりとも必要のない人はいないということ。一緒に取り組むだれもが役割をもっている。そんなあたりまえで大切なことを忘れかけていたかもしれない,という思いになり,ちょっと慌てました。
 さらには,H-IIAロケット6号機のこと。白石さんが初めて発射指揮のアシスタントをした6号機は,発射後に固体ロケットが分離せず,危機回避のため指令により破壊されました。徹底した原因究明。設計変更と全体計画の見直し。そして製造された7号機。
 スタッフは,この7号機をRTF1号機と呼んだそうです。リターン・トゥ・フライト。失敗を乗り越えて,再び飛ばしたい。実用可能な,信頼性の高いロケットを開発する。それが実現されて,H-IIAロケットプロジェクトは解散し,民間移管へ。
 「さびしかったけど,『もう開発の必要がない。運用が始まるんだ』と思いました」

 最近の生徒との会話から。
 進路の話をいろいろとしていて,
 「先生は,十八歳のときに教師になろうと思ってたんですか?」
 「いや,思ってはいなかった。単純な発想だけど,法学部に行って法曹になろうと思ってた。でも,入れなかったから,あきらめてしまったんやね,結局」
 「いま十八歳に戻ったとしたら,やっぱり法学部を受けますか?」
 「え? うーん,いや,受けないと思う。いまなら,哲学をやってみたいと思う。あれ,さっき君,哲学って言ってたよね」
 哲学をしたいと思う十八歳。「君,本当にするのか」と思いながら,少しうらやましく感じました。

 <探究>で『宮澤賢治の詩におけるローマ字表記の意味』という論文を書いた生徒。
 「君は賢治の詩でどういったところが好き?」
 「あの,『春と修羅』で,本当におれが見えるのか,というところが」
 「君もそうか。あそこはいいね。小澤俊郎という,筑摩の校本賢治全集の編集をした先生から,賢治の詩はよくわからないけど,わかる所だけを読んでも,とってもいいんだと言われたことがある。気が楽になりましたよ。そうか,全部わからなくっていいんだって」
  ……
  草地の黄金をすぎてくるもの
  ことなくひとのかたちのもの
  けらをまとひおれを見るその農夫
  ほんたうにおれが見えるのか
  まばゆい気圏の海のそこに
  (かなしみは青々ふかく)
  ZYPRESSEN しづかにゆすれ
  鳥はまた青ぞらを截る
  (まことのことばはここになく
   修羅のなみだはつちにふる)
  ……

 放送部の女子生徒四人が,昨日の日曜日にあった全国高校駅伝大会の開会式と閉会式の司会をしました。今日の毎日新聞に大きく紹介されて,きれいに並んで澄まし顔。
 開会式では,「名前を間違えないのはもちろん,選手たちが『がんばろう』と気合が入るような声で読み上げたいと思います」。
 閉会式では,「おめでとうという思いを込めて,笑顔で務めます」。
 男子の最後に帰還したコザ高校の最終走者に,スタンドから大きな拍手。
 結果は揺るぎない事実。されど,走り切ったすべての選手たちが当然受けるべきものは,あたたかい声援と心からの賞賛。

 明日はまた東京です。中教審の高等学校教育部会。雪が少し心配ですが。

 今年もまた,さまざまな方々から,そして生徒から,力をもらいました。
 新しい年を,希望を失うことなく迎えたいと思います。
 みなさん,どうぞよいお年を。

                      34号(2011.12.26)……荒瀬克己

ひまわり

画像1
 週間火曜日(水曜日?)を読んでくださった方から,丁寧なメールやご連絡をいただいています。心から感謝します。
 きちんとご返事ができていないのを心苦しく思っています。申し訳ありません。


 震災後,生徒会が「京都堀川ライオンズクラブ」と「堀川と堀川通りを美しくする会」のお世話になり,仙台市立仙台高校に激励のメッセージを送りました。天井から床までを超える長さの懸垂幕で,脇に「つらいことがあったら声に出して吐き出そう。みんなが味方」とあって「心はひとつ」と大書されています。言葉は生徒から募集したものを生徒会執行部がまとめました。
 先日,修学旅行で京都にやってきた仙台高校の生徒たちの訪問を受けました。飾られた懸垂幕の写真と,袋にいっぱいのひまわりの種を届けてくれました。応対した生徒会担当によると,付添いの先生が,ひまわりの種は放射線量を計測してあるので大丈夫だと説明なさったそうです。
 長さ1センチ,幅5ミリほどの黒い無数の種。この一粒ずつが,希望の種になることを祈ります。

 過日,高校の担任の古希を祝う会がありました。先生は,在職中に8回の卒業生を出しておられます。3年ごとに8回。最年長は私たちで,50代から30代までの卒業生が集まりました。
 その中に,毎日新聞の編集委員をしている後輩がいて,「赤ちゃんへの手紙」について教えてくれました。「未来への手紙プロジェクト」というそうです。
 送られてきた資料によると,「生まれてくる,あるいはすでに生まれた赤ちゃんに手紙を書こうという運動です。赤ちゃんが生まれたときの感動や喜びを文字にして残し,大きくなった赤ちゃん,つまり子どもに伝えようとする試みです。同時に児童虐待が5万件を超す今の時代,親が年月を経た自分自身に伝えるメッセージという意味も込めています。当たり前ですが,赤ちゃんは自分が生まれたときのことを書き残せませんので,ぜひ伝えてあげてください。自分が祝福されて生まれてきたという事実を,反抗期を迎えたときにも確認させてあげてください。そして親自身も将来,そのときの感動を思い出すことで子育ての悩みを緩和できるように願っています。ということで『未来への手紙』なのです。赤ちゃんが生まれたときには手紙を書く,ということが社会の習慣になることを目指しています」。
 春の初めに未曾有の災害があった今年,だれもが自分たち自身と自分たちの周りを見つめ,大切にしようとしています。7月から始まったこの運動にはスポンサーもつき,FMの放送や毎日新聞の掲載もあって,徐々に動き出しているようです。
 よいヒントをもらった気になりました。どこかで生徒たちに伝えたいと思っています。

 四条烏丸近くのすし屋に行ったら,卒業生が一人で三人の子どもを連れて来ていました。この店は,彼の同級生が夫と二人で切り盛りしています。
 「先生,ご無沙汰しています」
 「こちらこそ」
 「今日はヨメサンが外出しているもので」
 「何年生?」
 「……」
 女の子は恥ずかしそう。
 そこへいちばん小さな子が入ってきて,
 「みっつ」
 「そう。きみは,なんねんせい?」
 「1ねん。ぼくサッカーやってるねん」
 「へえ,そうか。いいなあ」
 「つよいで。レイソルとやったら,かつもん」
 「すごいなあ」
 「『あかつき』や」
 「そうか『あかつき』か」
 「しってるの?」
 「しってるよ。『あかつき』はつよいからなあ」
 「あのなあ,こうこうって,ちこく3かいで,1かいけっせきやろ」
 「え,なんでしってるの?」
 「しってるで。ちこく3かいで,1かいけっせきや」
 卒業生が割って入って,
 「なんで,おまえそんなこと知ってるんや?」
 卒業生は,もう44歳になったでしょうか。三年生のときに担任をしました。なかなかのやんちゃ坊主で,欠席も遅刻も周到に計算していました。彼はいま,京都市内に数軒の焼肉レストランをもつ実業家。おいしいという評判の店です。
 「先生,このままずっと堀川ですか?」
 「さあ。自分で決められへんからね」
 「娘はいま三年生で,あと6年で高校なんですが,そのとき堀川に,いはりますか?」
 「ははは。それは無理やねえ」
 仕事の話になって,まだ店を増やすのかと尋ねると,
 「ぼくは今のままで十分なんですが,若い社員の気持ちを考えると,いろいろとチャンスを広げておかないといけないかなと思いますね」
 「なるほど,トップは大変やね」
 話す間も,まとわりついてくる息子と娘たちに話しかけ,あいづちを打ち,食事をとらせる姿が板についていて微笑ましい。
 「いいおとうさんやね」
 「そうですか。ぼくは趣味もないし,子どもと一緒に遊んでいられたら……」
 幸せ,という言葉をビールと一緒に飲みこんだ横顔が頼もしく見えました。

 廊下を歩いていたら,一人の教員が話しかけてきました。
 「少し話していいですか」
 「いいですよ。どうぞ」
 「学校の前で乳母車を押す母親を見ました」
 「まさかぶつかったんじゃないでしょうね」
 「先生。それは大丈夫です」
 「よかった。失礼しました」
 「母親の両側に小さな姉妹が乳母車をつかんで歩いていました」
 街路樹のイチョウが葉を落とした,北風の吹く堀川通りを歩く母親と幼子たちを想像して,ふと高校時代に読んだ千家元麿の詩を思い出しました。
 「そしたら,下のほうの子がつまずいて転んだんです。すると反対側にいた上の子が,母親の後ろを回って妹のところに行って,助け起こして,手を握って,その手を大きく振りながら,大きな声で歌いだしたんです」
 ああ,そんな光景を見たのか。熱いものを感じます。
 「感動しました。母親は何も言わずに,その親子は御池通りのほうに歩いていきました」
 話してくれた教員の目は光っていました。笑うと,その光が頬を伝いました。
 彼はうれしいときにうれしい顔をする,素直な人です。
 お姉ちゃんもまた,そのようにしてもらったことがあったのでしょう。たぶん母親に。何度もあったのかもしれません。だから自然に振舞えたのでしょう。
 子どもたちは,希望です。

 今日で平常授業が終わりました。
 2年生のアセンブリーがあり,実に普通のことを話しました。我ながらあきれるくらい普通のことです。しかし,生徒たちはじっと見つめて聞いてくれていました。ありがたいことです。内心はいざ知らず,と言うのを控えなければならないと思うほどの,まなざしの素直さ。
 明日からは冬休み。ですが,まだいろいろとあるのが高校生の厳しい現実です。
 からだに気をつけて。しっかりと,目の前のことを。もちろん,遠くを見つめつつ。
 ひまわりの花言葉は,あこがれ。

 明日はいよいよ,JAXAの白石紀子さんの日です。

                      33号(2011.12.20)……荒瀬克己

“May I help you?”を日本語で

画像1
月蝕の翌々日。出張からの帰りに地下鉄から出てきてふと見たら,東の空に雲をまとって月が昇っていました。にじんだように見えるのは,私の技術のつたなさゆえです。



 「耳が聞こえないと何に困ると思いますか?」
 何人かの教職員が答えます。
 「それも近いけど,聴覚に障害があると困るのはコミュニケーションです。一方,私のように目が見えないと,情報が入って来ません。人間が生きていくための情報は80パーセントぐらいが目によります。文字情報が入らないのは,移動も含めて本当に困ります」

 「視覚障害者と話すときは,うなずいてもわかりませんよ。『はい』とか『いいえ』とかとはっきり言ってください」

 「自分が見えていたころは,目の不自由な人への接し方がわからず,かわいそうな人とか不幸な人とかとしか思えませんでした」

 「知らなかったら考えられない。ぜひ知ってください」

 「網膜色素変性症が悪化して,私は40歳で見えなくなりました。自分の手を目に近づけてまだ見えているという状態がだんだんと見えなくなっていった。いまどんな感じかというと,全部灰色です。目が覚めても,朝か夜かはわからない。全部灰色。それまで勤めていた児童養護施設を退職し,京都ライトハウスで中途失明者生活訓練を受けました」

 松永信也(まつながのぶや)さんのお話に引き込まれました。松永さんは,京都府視覚障害者協会副会長,京都市社会福祉審議会委員で,『風になってください』(2004年,法蔵館),『「見えない」世界で生きること』(2008年,角川学芸)という本も出しておられます。管理職研修でお話を聞いた副校長と教頭が,ぜひ校内研修にということで,先週あった教職員人権研修会にお招きしました。

 「駅のプラットホームを歩くのは怖い。見えないから階段の場所がわからない。横断歩道も,音が鳴っても上からで,まっすぐには歩きづらい。音が鳴らない横断歩道では,車の音で見当をつけて歩いています」

 「電車の中でも,バスの中でも,空いている席を教えてください。目をつぶって立ってみたらわかるはずですが,バランスをとるのにとても疲れますし,危ないです」

 「どうか声をかけてください。白い杖を持っている人に。『お手伝いしましょうか』と。数少ないけれど盲導犬を連れている人にも。盲導犬は万能ではない。コンビニへ行けと言っても連れて行ってはくれません」

 「私も見えていたときには声をかけられませんでした。断られたらどうしようと思ったから。声をかけたのに,もしも断る人がいたら,どうか『お気をつけて』と言ってください」

 副校長は管理職研修で,「かけてくれる声は英語のほうが多い」と聞いたそうです。講演の中でも松永さんは,駅のプラットホームに安全柵をつけることも大事だが,人の声が聞きたいとおっしゃっていました。
 “May I help you?”この言葉を,ぜひ日本語で。

 「あるとき,生まれつき見えない女性が私に言いました。『松永さんは何色が好き?』 私は見えていたから色がわかるけど,この人にはわからないはずだから,どう答えたらよいかとためらっていると,『あのね,私の好きな色はピンク。小さいときに服を買ってもらって,みんなが可愛い,可愛いって言ってくれて,その色がピンクって聞いたから,ピンクがいちばん好き。だから,私の持ち物はピンクが多いんや』。その女性のうれしそうな声」

 「花見に行くんですよ。花びらに手を触れさせてもらって,ああ桜や,柔らかい花びらやって,うれしくて」

 「見えなくなるのはつらいけど,仕方がないとあきらめられる。あきらめるときは見えないことに向かい合うときです。見えないということを受けとめる。しかし,社会に参加できないのはとても悲しい」

 昨日は東京に行っていました。東京駅から丸ノ内線で霞が関へ。丸ノ内線はワンマン運転しているためか,早くに安全柵が設置されたように思います。
 東京の地下鉄は案内表示が行き届いています。改札口までの距離表示があちらこちらに。案内表示も途切れることなく,目的の場所まで導いてくれます。少し前になりますが,駅や地下通路に,「立ち止まって見ていただけないのが誇りです」といったようなポスターがありました。まさにそのとおり。一瞬で視覚に訴える見事さ。立ち止まらずに歩けます。このことは掛け値なしにすばらしい。
 東京の生活に慣れた人が京都に来ると困るかも知れません。東京の人のみならず,地下鉄京都駅で降りて南口から近鉄京都駅に行こうとして,迷子になった人がいます。これは相当に「改善の余地あり」です。
 東京でも京都でも,駅や町の表示はとても重要ですが,もちろんそれだけでは十分ではありません。それを補完する,いや,町を人間の住む場所にする,そのためには,人間の心や言葉が欠かせません。
 松永さんのお話を聞いていろいろと思いがめぐりました。

 人があたりまえに生きるというのはどういうことか。
 そのために,社会はどうあることが求められるのか。
 そこで人はどうすることが求められるのか。

 東京駅の照明がずいぶん明るくなりました。まだすべてが点いているわけではありませんが,最近のことでしょうか,9か月前に比べるといろいろな光が戻ってきました。
 これが被災地の復旧に比例しているのならば,と思います。

 今朝5時過ぎ,外に出たら西の空のまだ高いところに皓々(こうこう)と冬の月。北の空を見ましたが,月光が空に映えて星は見えませんでした。
 11月ごろには,ひっくり返った北斗七星がありました。そこからこぼれ落ちたような,小さなしずく。
 北極星。
 この星を見ると,背筋がしゃんとするような気がします。

                      32号(2011.12.13)……荒瀬克己

とっておき

画像1画像2
2011年1月22日,宇宙ステーション補給機「こうのとり」2号機(HTV2)を搭載したH-IIBロケット2号機が,種子島宇宙センターから打ち上げられました。(写真はJAXAホームページから)




 週刊火曜日がまた遅配しました。
 申し訳ありません。
 その代わりと言ってはなんですが,とっておきのお知らせです。

 12月21日(水)に,白石紀子さんをお迎えしてコミュニティカレッジ講演会を開きます。
 白石紀子さんは,独立行政法人宇宙航空研究開発機構(JAXA)のロケット発射指揮者で,写真のH-IIBロケット2号機の発射は,白石さんの指揮によるものです。
 2009年9月に初めて打ち上げられたH-IIB ロケット試験機(1号機)は,国際宇宙ステーション(ISS)へ補給物資を届けるために開発された無人の宇宙船・HTV(こうのとり)を搭載していました。その発射の指揮にあたったのも白石さんです。

 私は,2009年の発射に際して放送されたNHKニュースの特集で,白石さんを知りました。
 JAXA初の女性発射指揮者。その指が,打ち上げ270秒前の「自動カウントダウンシーケンス開始」の発令ボタンを押す。数少ない発射可能なタイミングに向けて,さまざまなシーンで起こるトラブルを克服してきた150人のスタッフの期待が,その指にかかる。そのプレッシャーの中で厳しく求められる冷静で的確な判断と行動。そして,それをやってのけたあとの笑顔。
 感動しました。

 その白石さんが,12月21日に堀川高校で話してくださいます。
 どうぞお越しください。
 詳しくは,堀川高校HPの「コミュニティカレッジ」から「本年度開催予定」にお進みください。http://www.edu.city.kyoto.jp/hp/horikawa/commun...

 以前,的川泰宣(まとがわやすのり)さんにお会いしたことがあります。的川さんはJAXAの技術参与で名誉教授です。教育にも熱心で,「宇宙教育の父」と呼ばれている,とてもすてきな方です。横浜でシンポジウムがあって,そこでご一緒したのですが,その前日はロケットの発射で種子島におられたということでした。
 控室で話していたときに「いやあ,きれいな,いい発射でした」と穏やかな笑顔でおっしゃいますので,「どんな発射が『きれい』とか『いい』とかなんですか」とお尋ねすると,「ははは,そりゃあ成功したらみんなですよ。それで,島の漁師さんたちと一緒に祝賀会でしたよ」と本当にうれしそうでした。
 ちなみに,その会場にノーベル化学賞の田中耕一さんが来ておられて,終了後にお話しさせていただきましたが,それはさておき,ロケットの発射というものが,どれほどの周到な準備が必要で,どれほどの緊張が伴うものかということを,初めて想像しました。それまでロケット発射の成功や不成功は,ニュースの中の出来事でしかありませんでした。
 目の前にいる人が関わっていて,そのほかにもいっぱいの関係者がいて,おびただしい時間と労力が注がれ,指示が飛び交い判断が重ねられ,地球の位置も天候も深く関係した,その先にロケットがあって,何もかもすべてがぴったり交わったとき,その巨体が閃光と轟音と白煙の中を上昇する。
 アメリカのフロリダ州にあるNASAのケネディ宇宙センターに行ったときは確かに感動しました。しかし,実際にロケットに関わっている人と話すことの感動がまったく異なるものであることを,的川さんにお会いして知りました。

 堀川高校の数学科の教員に,井尻達也という人がいます。実は,彼はJAXAに勤め,国際宇宙ステーションの日本実験棟「きぼう」の製作に深く関わっていましたが,自分の経験したことを高校生に伝えたいということで,教員を志しました。周囲の反対も強かったようですが,彼の意志はそれ以上に固く,惜しまれつつJAXAを後にして堀川にやって来ました。
 堀川の教員たちはユニークな人が多くて,一緒に仕事をしていて実に楽しいのですが,彼もまた興味深い人物です。彼の話は何時間聴いていても飽きません。いろいろなことを教えてくれました。その話だけで何万字も書けるほど。
 「自分で作ったものなのに,不具合が生じたからといって,宇宙へ直しに行くことができません。だから,不具合が生じないようにということが第一ですが,不具合の起こる可能性をゼロにすることはできませんから。そういう場合は,宇宙飛行士が直せるようにしておく必要があります」。
 そうか,と思いました。彼の言葉は当然と言えば当然ですが,それを,「自分で育てた生徒なのに,うまくいかないことがあったからといって,その場へ助けに行くことができません。だから,うまくいかないことがないようにということが第一ですが,失敗の起こる可能性をゼロにすることはできませんから,そういう場合は,本人自身が乗り越えられるようにしておく必要があります」と置き換えてみるとどうでしょうか。私たちは当然のことができているか,ということを問われているように思いました。
 さて,彼に会えたことでもまた,宇宙への思いが深まりました。ただ,しばらく前に子どもさんが生まれて,なかなか忙しいのでゆっくりと話す時間のないのが残念です。彼に数学を習っている生徒たちをうらやましく思います。
 2年前に,白石紀子さんのことを話したら,すぐにメールを送ってくれました。白石さんからの返信は,まことに誠実な内容でした。その白石さんに会えて,直接お話を伺える。とても幸せです。

 私は小学生のころ,大きくなったらロケットを作りたいと思っていました。少年雑誌の付録か何かで読んだ,アメリカの宇宙ロケット開発の指導者であるブラウン博士の話に引き込まれてしまったからです。ブラウン博士については後に伝記を読んで,いろいろと考えさせられましたが,それはともかく,博士は少年時代に,火薬を詰めたロケットを作って飛ばすのに夢中だったそうです。あるとき,点火したあとロケットが倒れてしまって,近所の鶏小屋だったか牛小屋だったかに突っ込んで,大騒ぎになってひどく叱られたというようなエピソードが載っていました。
 これは子どもにとって,とても魅力的な話でした。母親が買い物に出たのを見計らって,すぐに家にあった花火の火薬を取り出し,ついでにマッチの頭のリンもいっぱい集めて,新聞紙で作ったロケット状の筒にそれらを詰め込み,残念ながら近所に鶏小屋も牛小屋もなかったので,うちの犬小屋に狙いをつけて点火したところ,わがロケットは,ブシュッ,ブワッと音を立てて,犬小屋をかすめて飛んで行きました。私は大変満足しました。犬小屋から何食わぬ顔で犬が出てきたので,思い切りなでてやりました。
 しかし,しばらくして買い物から帰った母が燃えカスを見つけたのは誤算でした。問いただされ,顛末を白状させられ,こっぴどく叱られ,その日のおやつをもらうことはできませんでした。ブラウン博士と同じく私もひどく叱られましたが,その後ロケット開発に従事することにはなりませんでした。
<子どもたちへの注意> 火遊びは危険です。おとなの人がいないところでは,絶対にしないように。

 前回の「本番」で曲の紹介が間違っていましたので,密かに訂正しました。申し訳ありません。
 「バッハ,パルティータ2番ハ短調よりシンフォニア」と書くべきところ,「ハ短調」が「ハ単調」となっていました。記事を読んだピアニストに指摘してもらいました。
 「本番」は消しゴムのない世界。自分の甘さを恥じます。

 白石さんもまた,消しゴムのない世界に生きる方。
 どんなお話を伺えるか,本当に楽しみです。

                      31号(2011.12.07)……荒瀬克己

本番

 18日に開催した第12回教育研究大会には,北海道から沖縄まで,200名を超える方にお越しいただきました。ご参加いただいたみなさんとご協力いただいた方々に,心からお礼申し上げます。
 今回は全学年のすべての授業を公開しました。
 一つ心配がありました。生徒が居眠りをしないだろうか?
 「生徒諸君,寝るな!」と放送しようかと研究開発部長に言ったら,笑われました。
 以前,秋田高校にお邪魔したときのこと。26教室も回ったのに,誰ひとり居眠りをする生徒がいません。驚きました。そのことをアセンブリで話しました。秋田高校と交流する生徒を募集したあと,廊下で会った生徒に「行かないか」と声をかけたら,「居眠りのできない学校には行きたくありません」と言われてしまいました。あらら。感心してしまいました。それはそれで,タイシタモノです。
 さて,研究大会当日。教室を回りましたが,心配は杞憂でした。寝ていた生徒も少しいましたが,寝方が上品でした。それで喜んではいけませんが,安心しました。
 25日に四校会があって,膳所高校と奈良高校の先生方と一緒に,姫路西高校に伺い授業を見せていただきました。それぞれが実に上質の授業でした。そして,まことに数少なくはありましたが,寝ている生徒がいました。失礼ながら内心ホッとしました。
 研究大会では多くのご指摘を頂戴しました。現在,研究開発部がまとめています。いただいたご指導を今後に生かすべく精進してまいります。
 本当にありがとうございました。

 22日の午後4時45分。
 ピアノは小ホールの中央にあって,少し落とした照明を受けて黒く光っていました。
 後ろと両側には暗幕。
 この小振りのグランドピアノは,そこにあるだけではただのモノでしかありません。これが楽器になるには,弾き手という条件が加えられなければならない,などというあたりまえのことを考えていました。

 客席では,演奏を待つというのには少し不相応な,しかし高校生にはありがちな,にぎやかで生意気な会話も飛び交っていました。
 「このリサイタルのために,職員会議がなくなったそうやで」
 「へえ,そうなん」 
 「いまごろ,あいつ幕の向こうで着替えてるんやで」
 「このピアノって調律してあるんかなあ」

 別に言わなくてもよかったのですが,
 「職員会議じゃなくて,2年生の担任会がなくなったんですよ」
 「そうですか。その割には先生が少ないですね」
 「ピアノは,今日のために調律したそうです」
 「そうなんですか」

 私は中央より上手側の席にいました。ここからだと手の動きが見えないなと思い,席を替わることも考えましたが,夏にコンクールに行ったときと同じ角度であったので,あのときのぞくぞくする感じを再び味わえるかと思い返して,そのまま座っていました。

 ピアニストの登場。
 感謝の言葉。曲の解説。椅子の位置を決めて,何の合図もなく手が鍵盤に向かったかと思うと,ピアノは見事な楽器に変貌し,音響のよくない小ホールは,ピアノとピアニストの音楽によって充たされました。
 時折の間。静寂をも音楽に変え。余白の美のような。
  バッハ,パルティータ2番ハ短調よりシンフォニア。
  リスト,B-A-C-Hによる幻想曲とフーガ。
  ショパン,練習曲作品25-1。
  ショパン,スケルツォ第2番作品31。

 最後のショパンはコンクールで聴いた曲でした。
 アンコールが2曲。圧巻の1時間でした。

 明るくなった会場で,2年生の生徒と話しました。
 「どうでした?」
 「すごかったです」
 「そうでしたね。言ってたとおりに,ピアノが鳴っているのか,弾き手が一緒に鳴っているのか,というような感じだったでしょ」
 「確かに」

 開演前とは違って,洗われたような,雷にでも打たれたような,神妙な表情をしていました。その場にいた誰もが興奮気味で,しかもしばらくすると,なぜか打ち解けた雰囲気になっていました。一つの出会いが何かを動かしたのでしょうか。
 上気した生徒が,目を輝かせて話しかけてきました。
 「本当にすごかったですね」

 ピアニストと話しました。
 少し意地悪な質問。
 「どの曲がいちばん好きですか?」
 「一番となると,ぼくはやはり,コンクールでも弾いたショパンですね」
 「知り合いの声楽家が,歌う曲はすべて好きになるって言ったけど,どう思う?」
 「それ,まったくそのとおりですね。いちばん好きなのはと聞かれたからショパンと言いましたが,好きでない曲は弾けないですから」

 握手をすると,普通の手にしか思えません。
 演奏の終わったピアニストは,2年生の男の子に戻っていました。

                      30号(2011.11.29)……荒瀬克己

ケヤキ

画像1画像2
グラウンドの傍らに立つケヤキ。
左は今日の午前10時35分に撮影。すでに上部は相当伐られています。
右は午後1時15分に撮影。切り口の白さが目立っていました。



 「ケヤキが茂りすぎて,グラウンドから時計が見えないということなので……」
 「動けば見えるでしょう。北側のクラブハウスにも時計はあります」
 「……」
 「だいたい時計が見えないというなら,時計を移せばいい」
 「葉が密集しているので,そのままにしておくと木が弱るとも言われまして……」
 「……」

 結局,枝を落とすことを承知しました。
 以前,堀川北門側のユリノキが伐られたことがありました。
 それ以来,どの木も切ってはいけないと言いました。その結果,木々は伸び,夏の光の中で誇らしげに葉を輝かせるようになっていたのです。
 しかし木が弱ると言われては仕方がありません。

 そして今日,ケヤキの枝がはらわれました。
 欅という文字のままに,空に向けて広がっていた無数の枝葉が伐られ,黒い幹と枝だけになりました。
 青い空の下,冷たい風が裸のケヤキを吹き抜けていきます。

 ひと月ほど前の「ココロザシ」で,取っておきの写真だとして今年の初夏に撮ってもらったクスノキを紹介しました。知恵を象徴するクスノキは,横に広がるとともに空に伸びていこうとしています。
 このクスノキは3本あるように見えますが2本で,1本が根元近くから枝分かれしています。これがなぜ「とっておきの写真」であるかというと,この木こそが旧校舎からの唯一の樹木であるからです。
 旧校舎から現在の校舎に移ったのは平成11(1999)年春。移転直前まで旧校舎を使っていましたから,しばらくの間,新旧両方の校舎がありました。
 堀川通りから見ると,立派な玄関のあるベージュ色の旧校舎,図書館や会議室のあるA館,生物や地学の実験室と講義室のあるB館が建ち,A館とB館の奥に真新しい校舎の上部がのぞいていました。
 クスノキは旧校舎西南の塀際の,A館との間に立っていました。その位置は,高等女学校の旧正門の北側にあたります。門は石柱でした。石の門は旧校舎が解体されるまであって,新校舎でも使う予定でいたのですが,調べるとひび割れが激しく危険であるということで断念しました。
 クスノキの立っていた場所は校舎と塀に画された狭いところで,枝はいつも幹近くで伐られていました。移す際,そんなことをしないでよいところに植えようと考えて,現在の場所に決めました。
 植え替えて12年,クスノキは枝を広げ,下に立つとさやさやと葉ずれが聴こえます。ただ,旧校舎時代から頻繁に伐られたためか,幹がいびつに曲がったまま大きくなっています。
 四条堀川の北東角に,やはりクスノキがあります。こちらの幹はまっすぐで,木の形は堀川のクスノキよりもきれいです。京都大学の時計台前にあるクスノキも実に立派です。
 しかし,まことに手前味噌で身びいきではありますが,たとえ形はいびつでも,私は堀川のクスノキの伸びて広がる姿が大好きです。伐られても,伐られても,いのちをつなぎ,新しい場所に移されても根付いて成長し続けてくれていることに畏敬と感謝の念をもちます。

 旧校舎には,北翼と西翼に囲まれて,狭いけれどきれいな中庭がありました。そこに伸びやかなソメイヨシノが数本植えられていて,春の花から初夏の青葉,そして秋には紅葉を楽しみました。
 平成11年3月末,新校舎に移転したあと,解体を待つ旧校舎の中庭で最後の花見をしました。最後となったのは,ソメイヨシノが移植できないと判断されたからです。
 薄曇りの昼下がり,入れ替わり立ち替わり教職員が花を愛でました。みんなの心中には新しいことが始まる高揚もあったはずですが,むしろ一つの時代が終わる寂寥のほうが大きくて,あまり華やいだ気分にはなれないようでした。
 旧校舎に別れを告げるという感傷の一方で,新校舎に移る一年生と二年生の学習や高校生活をどのように支えるかという仕事とともに,新しく入ってくる新入生をどのように迎えるかという未知の仕事があります。
 私も,感傷よりも,それを覆う不安が重かったのを覚えています。それまでの数々の苦労や,行き違いや,受けた批判や,体制を変更することの困難さを改めて思い返していました。しかも,工事用の塀の向こうに立つ新校舎でのこれからに,なんらかの約束がなされているわけではありません。
 最後の花見は,言葉数少なにして終わりました。
 その後ソメイヨシノは伐採されました。旧校舎の跡地は1年がかりで現在のグラウンドになりました。そのグラウンドも人工芝の耐用年数が超え,今年度中に全面改修が行われます。
 花見をしたのは3面あるテニスコートの中央コートの東側辺りで,時々北館の階段の踊り場からその場所を眺めて思い出すことがあります。


 今日は放課後に5階の小ホールでピアノリサイタルがありました。8月に「ピアノ」を載せましたが,そのときの生徒が4曲を弾きました。バッハとリストとショパンが2曲。
 いまは,すごいと言うのがやっとです。
 あのときも書きましたが,人がピアノを弾くのか,ピアノが人を弾くのか,ピアノが鳴っているのか,人が鳴っているのか……あのときに感じた眩暈を,もう一度味わいました。
 先週末の研究大会のこととともに,次回にお届けします。

                      29号(2011.11.22)……荒瀬克己

子どもたちが育つために

画像1
那覇港の一角。フェリーの向こうに見える白い建物や平坦な部分は米軍施設。日章旗とともに星条旗が翻っていました。



 「週刊火曜日」のはずが水曜日になってしまいました。どうもいけません。

 先週土曜日,琉球大学附属中学校の研究集会に伺いました。附属中学校は琉球大学のキャンパスにあります。琉球大学はずいぶん以前に一度行ったことがあるのですが,あんなに広いとは知りませんでした。
 授業をいくつか拝見し,研究協議も拝聴し,午後の出番に備えました。まとまらない話でしたが,熱心に聴いていただいたおかげで,なんとか務めを終えることができました。夜には慰労会があり,お招きを受けて参加しました。附属中学校の先生方のエネルギッシュなこと。昼間も夜も,本当に楽しい時間を頂戴しました。勉強になりました。心から感謝します。
 1年生の男子生徒が面白い作文を書いていました。数学の先生が授業中に何度「な」という確認の言葉を使ったかを記録し,それが時間の経過とともに変化していったのを分析したものです。「これはこういうことだ。な」,「わかったよね。な」といった「な」です。
 5月ごろには数十回発しておられたのが9月になると十数回になったそうです。それは,入学してきたばかりの自分たちに何度も確認する必要があったのが,しだいにその必要がなくなったので回数が減ったのではないか,という分析でした。
 作文コンクールの審査員になったつもりでクラスメートの作文を評価しようという授業で,いくつかの視点が挙げられていて,その中に,「事実や具体例が示されてわかりやすいか」というものがありました。この視点から選ばれた作文が,「な」の分析です。
 慰労会で,その数学の先生にお会いしました。若くて快活な方です。「生徒が先生の『な』を分析していましたが,実際はどうなのでしょうか」と尋ねると,「いやあ,生徒の言ったとおりですよ」と笑ってお答えになりました。
 その様子から,生徒と教員の間に生まれている信頼を感じました。

 昨日,学校の廊下で若い英語の教員とすれ違ったときに声をかけられました。
 「私,小学校の時に肥後守を使っていました。学校で全員が持たされたんです。砥いだりすることはありませんでしたが」
 「え,どこの小学校?」
 「向日市の……」
 京都の小学校でもそういう学校がありました。知らないことだらけです。
 その話を職員室でしていたら,化学の若い教員が,「ぼくも使ってましたよ」。
 彼の場合は肥後守ではなくて鞘に入った小刀でした。それで工作をしたとのこと。はさみを振り回す子どもがいたそうですが,小刀を振り回すことはなかった,と言っていました。
 英語の教員がまっすぐにこちらを見て,
 「刃物って使うときに緊張するというか,とっても怖かったのを覚えています」。

 保護者の方からメールをいただきました。
……時々,ピアノのお稽古の帰り道のことを思い出します。子どもの足で歩いて20〜30分かかるところへ習いに行っていました。冬の寒い日,先生の家を辞して歩き始めると,ほどなく日が暮れ始め,手足の先から寒さがしみ込んできます。でも,歩かなければ家には帰れない。ポツリポツリついている人家の灯りを見れば一層心細く,泣きそうになりながらも,家までてくてく歩きました。歩かなければ家には帰りつけなかったからです。
 そうして玄関に立ち,家の明かりの中に飛び込んだとき,むっとした蒸気の中で,台所の母が「おかえり」と言ってくれました。そのとき安心感と嬉しさは他に代えがたい喜びでした。でも,母は,私の心細さと寒さを知っていても,そんな贅沢は許されるわけもなく,「送迎」などは絶対してくれませんでした。
 国民全体の生活レベルが上がり,生活そのものの質の変化も加わり,世の中の危険が犯罪の増加や常識を超えたものとなり,現在の子どもたちを守り育てる環境は,大事に育てるあまり,実はその思いとは逆に,もしかしたら,子どもたちを知恵と心の貧しい者につくり上げているのかもしれません。私の子どもたちも然りです。……

 「でも,歩かなければ家には帰れない」という言葉が印象的です。寒さや心細さの中で,それでも「歩いた」という経験を重ねることによって,人は深く広くなるのでしょうか。
 「泣きそうになりながらも,家までてくてく歩きました。歩かなければ家には帰りつけなかったからです。」
 「歩く」理由が,歩かなければ家には帰りつけないからだ,ということにもまた心打たれました。冬の夕暮れを足早に,けなげに歩く少女を思いました。「家」は帰らなければならないところというよりも,なんとしても帰りたいところであり,そこには温かさと安らぎと確かさがある。待っていてくれる人がいる。

 そういう場所があってこそ,安全と安心と愛情に支えられてこそ,危険と不安と試練が子どもを大きくするのでしょう。そのことを思うにつけ,現実に気持ちがふさぎます。
 「大事に育てるあまり,実はその思いとは逆に,もしかしたら,子どもたちを知恵と心の貧しい者につくり上げているのかもしれません」。
 その思いを持ちつつ,私たちはどうすればよいのか。子どもたちを取り巻く現実がよりよいものになるために,私たちは何をすればよいのか。突き付けられている問いは重く,容易に解を見つけることはできません。しかし,その問いに向き合っていくのが私たちおとなの務めです。

 18日金曜日は堀川高校の第12回教育研究大会です。生徒との信頼や成長過程の体験の重視を前提に,公開授業と各教科や探究,学校改革の分科会で,教育の「いま」と「これから」について,全国のみなさんとご一緒に勉強したいと思います。

                      28号(2011.11.16)……荒瀬克己

立冬

 今日は立冬。
 夏日になる日もあった11月ですが,朝の天気予報によれば,今日は西高東低の冬型。京都府南部は,北の風くもり昼過ぎから時々晴れ,予想最高気温は19度。午前5時の気温は12度3分でした。
 朝のニュースでは,午前6時に東京の渋谷を歩く人はマフラーをしていました。気象予報士によると,最低気温が12度くらいになると紅葉が進むそうです。

 不確かな記憶から昨年の晩秋の情景を引き出そうとすると,高台寺の夜の紅葉が浮かんできました。賑やかな石塀小路を抜けてゆるやかに見上げると,門へと上る段々に横から照らされる光。まるで魔法のような。
 去年はその光景に心がほどけていくようでした。比べて今年は,心が落ち着くところを失って,思いがねじれているような感があります。

 私は,子どもの成長期に,安全・安心・簡単・手軽ではなく,危険と向き合い,不安にもなり,複雑なことがらでも拒まず,面倒なことでもする,ということが重要であると考えています。
 文房具の小刀(こがたな)の一種で肥後守(ひごのかみ)というものがあります。辞書によれば,「7,8センチの両刃が鉄製の折りたたみ式の鞘(さや)に収められるもの。鞘は柄(え)を兼ね,ふつう『肥後守』などの銘がある。大正半ばから兵庫県で生産され,片刃の切り出し小刀に代わって,昭和前期にかけて流行した。廃刀令後、旧熊本藩の御用鍛冶が作りはじめたのが起源という」とあります。
 ずいぶん以前,確か岐阜だったと思うのですが,この肥後守を入学時に全員購入させ,鉛筆削りや工作に使えるよう指導していた小学校のことが報道されていました。当初子どもたちは,刃物の使い方がよくわからず,削られた鉛筆はへんてこで,芯だけが妙に長かったり,削っている最中に手を滑らせて指を切ってしまったり,小さい子どもにとっては大変大きな苦労を重ねます。そうこうしつつ学年の進行とともにしだいに上手になって,筆箱の鉛筆の形が,それぞれの個性を持ちつつそろうようになっていきます。切れ味が悪くなると砥石で磨きます。それを繰り返して六年生になると,肥後守は,初めて手にした一年生のときと比べて短く,幅も狭くなっています。肥後守が小さくなった分,子どもたちは成長しています。そして卒業するとき,それぞれの肥後守は一人ひとりの勲章になります。
 この番組を見て感動しました。こんなにして子どもを育てている学校がある。その学校を信頼して,子どもの成長を信じて,心配しながらも見守り任せている親がいる。

 しかし,これは生命の安全が保障され,安心して生活できる場所が確保されているという「あたりまえ」の前提があってのことです。その子がそうしようと思えば乗り越えられる危険や不安が,おとなによってあえて用意されているのは教育であると言えますが,その子にどうにもならない,その子に責任のない危険や不安は,断固として一切排除されなければなりません。
 子どものころの夏,昼寝をしていて目が覚めたら母が見えなくて,広くもない家の中を,母を呼んで探し回ったことがありました。それでも見つからない母。どきどきして,もう一度呼びながら探しても,やはりいない。心細くて,涙が出てきて,それでいっそう悲しくなって,どうしてよいかわからず,どれほど時間が経ったかわからず,ますます悲しくなって,涙が枯れて,そうしていたら母が帰ってきて,にこにこ笑って,起きたのかと言いながら,食べなさいと菓子をくれて,台所に行って夕食の支度を始める。その後ろ姿を見て,安心して日常を取り戻す。
 そんなことを思い出すにつけても,子どもは絶対に守られていなければならないということを心の底から強く思います。

 この国に生まれてから58年。物心ついて以来,人知を超える難題に向き合わなければならないことはそれほどなかったように思います。
 今朝のニュースでは,福島県郡山市の医師の調査が報じられていました。幼児の体重の増加率が昨年と比べて4分の1になっていて,原因として,屋外での運動が制限されていることが挙げられていました。身体能力や情緒,社会性,認知能力にも影響する恐れがあることも指摘されていました。
 平成22(2010)年度から高等学校の授業料が無償化されました。文部科学省のホームページを見ると,「社会全体であなたの学びを支えます」というタイトルで,「家庭の状況にかかわらず,すべての意志ある高校生等が,安心して勉学に打ち込める社会をつくるため,国の費用により,公立高等学校の授業料を無償化するとともに,国立・私立高校等の生徒の授業料に充てる高等学校等就学支援金を創設し,家庭の教育費の負担を軽減します」とあります。
 これと同じように,社会全体でこの国に住むすべての未来ある子どもたちを守るためにはどうすればよいのでしょうか。
 その答えは容易には見出せませんが,それを探して,誠実に,具体的に行動していくのは,間違いなくおとなの責任です。

 立冬。北の地方の冬の寒さが,春を呼ぶための厳しさであることを願ってやみません。

                      27号(2011.11.08)……荒瀬克己

しばらくぶりです

 11月に入ったというのに昼間は暑い日が続いています。今日も天気予報では,京都は夏日になるとのこと。
 お元気でしょうか。
 この半月ほど,出張があったり行事があったりで,何かと気ぜわしく過ごしていて,この「週刊火曜日」も滞っていました。申し訳ありません。
 いただいたメールやお便りに返事もせず,ずいぶんと失礼を重ねています。お詫びいたします。

 今週の水曜日は2011年11月2日でした。数字を並べると20111102。せっかくの日に掲載できなかったことが残念でなりません。
 この日は朝から教育委員会へ行き,10時過ぎに戻ったあと何件かの打ち合わせをして,午後3時半から土曜日の説明会のリハーサルを見ました。
 11月5日の説明会は,午前10時からの中学3年生対象の探究科進学説明会と,午後2時からの中学1・2年生対象の学校説明会の二本立てです。
 午前中の3年生対象進学説明会では,適性検査についての解説を検査ごとに担当教科の教員が行います。夏の説明会とは異なり,生徒の出番はわずかです。保護者の方には別会場で,副校長や私から学校の教育方針などを少し詳しくお話しします。
 午後の中学1・2年生対象説明会は,普通科・探究科を合わせた堀川高校全体の説明を行うことにしています。こちらは生徒が中心です。
 今回の説明会に登場する生徒は,いずれも1年生のみです。
 今日も午後から前日の最終リハーサルがありますが,私は東京出張が入っていて参加できませんので,2日水曜日に見たのでした。

 8月30日に掲載した「高校生は輝く」に書いたとおり,リハーサル会場にいる生徒たちは,だれもが「普通の生徒」でした。一つのグループが終わって,多くの注文をつけました。「もっと本当に思っていることを話さなければ伝わらない」,「君たちのそれぞれでなければ言えないことを」,「伝えたいのは何なのか」,「もっとかっこよくできるはずだ」,「語尾の形を変えることで内輪の話が外への発信に変わる」等々。具体的な発言内容についての質問も含めて矢継ぎ早に話しました。
 そうしている最中に,一人の生徒がまっすぐに手を挙げて,「すみません。気分が悪いんですが」。え,どういう意味なのか,と思ったら,本当に体がしんどくなったようで,練習を切り,舞台の照明を消し,何人かの教員が舞台に上がり,保健室に連絡し,その生徒を横にしてネクタイを緩め,水を飲ませ,窓を開け,うちわであおぎ,そして養護教諭が車椅子を運んできて,その場で様子を診たあと保健室に連れて行き,保護者懇談期間中で応対している担任の代わりに学年主任が保護者に連絡し,といったことがばたばたと,というかどちらかと言えば淡々と進んでいきました。心配そうに見守る生徒たち。小走りに動く教員たち。私は突っ立ったままで見ていました。
 あとで保健室に行くと,少し熱中症のような症状があったようだが,いまは落ち着いているとのこと。「どうですか。君,しんどいのにまっすぐに手を挙げて。とても行儀がいいね」。生徒は目を閉じていて,軽くうなずいたようでした。
 そのあと生徒のおかあさんが来られて,「お電話をいただいた時には心配しましたが,顔を見てほっとしました」。
 私も本当にほっとしました。
 あらためて,ヨソサマノ子ヲ預カッテイル,という思いを強くもちました。

 そのあと生徒たちと打ち合わせをし,仕事を片付け,教員のリハーサルは副校長・教頭と企画部長に頼んで学校を出ました。
 気がつくと少し悪寒がしました。前日に札幌から帰ってきたのですが,札幌も昼間は暑くて,しかし夜は京都とは比べ物にならない冷え込みで,不覚にも風邪を引いたようです。

 なかなか予定がぎっしりだったので,この半月ほどを振り返ってみたいと思います。
 10月18日(火),校長会のプロジェクトで人材育成について検討する会議がありました。担当していたまとめの素案をメンバーに見てもらい,修正を受けました。
 夜に,本能自治連合会(堀川の地元です)の公開講座で話を聞いていただきました。「ものしり講座」ということで年2回なさっています。前半は,音楽の教員に頼んで数曲歌ってもらいました。なかなか好評でした。後半は私がおしゃべりしました。

 19日(水)から20日(木)にかけて,京都市立高校教務主任会の視察に付いて福岡県に行きました。初日は福岡県教育委員会で高校教育担当の方々に話し,翌日は修猷館(しゅうゆうかん)高校に長い時間お世話になりました。創立は天明4(1784)年の藩校である修猷館に遡ります。いまも校長は館長と呼ばれ,館長室にいらっしゃいます。この高校を一口で言うと,すごい学校です,としか形容できません。世の中に知らないことはいっぱいありますが,また一つ知らなかったことに出合うことができました。

 21日(金),生徒会長選挙の立会演説会があり,その後3年生のアセンブリ。時間をもらって,始業式で言いそびれた個人情報管理について説明しました。「ひま部」の諸君との約束が果たせました。ありがとう。
 そのときに,前日の修猷館での興奮と感動について触れました。
 ……生徒も先生も学校を愛している,そんな学校でした。君たちは堀川を愛してる? 全部でなくてもここは好きだっていうところある? でもその前に,私たちが君たちを愛さなくては始まらないですね。私は,君たちを愛します。
 気恥ずかしいはずが,前日の感激に押されて難なく言えました。修猷館の皆さん,ありがとうございました。

 22日(土)は2年生の探究基礎研究発表会。京都市立高校PTA連絡協議会の人権研修がありましたが,そちらは失礼しました。発表会の様子は「学校の様子」に掲載されています。300人近い来場者で会場は活気にあふれました。来ていただいた皆さん,ありがとうございました。
 指導してきた教員の感想です。
 ……あのような160数枚のパネルが「当たり前」に並ぶ「高等学校」に勤務させていただいている有り難さと緊張感を改めて感じております。生徒たちは,TA(ティーチングアシスタント,大学院生・大学生)の先生にたいへんなお力添えをいただき,手と頭と,加えて心を動かして研究に取り組んでくれました。今日もらったご意見や,ポスター発表に組み立てることで気づいた構成のまずさを,28日の論文最終提出までもう一度書き直しにかかります。おわりのゼミ会で多くの子が改善への意欲を語っていました。私自身も,言語能力を育むことを柱にしたSSHの「スーパー」の部分の意味を体感・納得しながら指導させてもらえました。
 教員の努力と意欲に感謝します。

 23日(日),PTA社会見学。バス2台で淡路島に行きました。手作りキャンドルを楽しみ,安藤忠雄氏の建築を体感し,1995年1月17日の大震災を思いました。帰りは皆さん,おみやげをどっさり。玉ねぎももちろん。野球部のOB会でしたが,そちらは失礼しました。時折雨も降りましたが,外に出て活動するときは上がって,青空も見えました。

 24日(月),終日校長会でした。通常の案件の後,市立高校の将来構想や予想される入学者選抜の変更について,また人材育成についても意見交換をしました。8時間近く会議をしていると,堀川をどうしていくかの議論をしていた10数年前を思い出します。

 25日(火),大分県教育センターに招かれ,「教師に求められるコミュニケーション能力と人間関係づくり」というテーマで,採用4年から6年の高校の先生方にお話ししました。昨日学校で,送っていただいた感想を読みましたが,概ね良好であったのでほっとしました。

 26日(水),東京で全国普通科校長会(全普高と言います)理事会に出席しました。27日と28日は,全普高の総会・研究協議会でした。「高校の質保証」について,いろいろと考え,多くを学びました。世の中には知らないことがいっぱいあることを,この日もまた思いました。

 28日(金)は急いで京都に帰り,2年生探究基礎のまとめの会に,結局は遅刻して出ました。探究基礎をやり終えた生徒たちの,静かな誇りを湛える笑顔が印象的でした。「探究基礎は終わったけれど,探究はこれからもずっと続く」。生徒のさわやかさに感謝します。

 29日(土)は,会長をしている京都府高等学校芸術文化連盟新聞部会の開会式であいさつ。西京高校でありました。この日から国民文化祭。総合開会式で3年生の生徒が心のメッセージを朗読しました。生徒会長も務めた彼は,昨年度の放送コンテストアナウンス部門の1位。私は出られませんでしたが,出席していた友人から,「立派でした」。

 30日(日),翌朝に北海道教育大学へ行かねばならず,夕方から札幌へ行きました。北海道の友人にコートが必要かどうか尋ねたら,「日中はそんなに寒さを感じません。私はもう少しコートなしで粘るつもりです」。北海道の人は寒さへの耐性があるからか。天気予報を見て,私もコートなしで,と思って行ったら,昼間は暑いくらいでした。しかし,夜の冷え込みはこちらと全く異なります。
 それで結局,風邪。頭が少しぼんやりしているのと,耳が遠いような気がしています。
 1日(火)の夕方に帰ってきました。帰りの飛行機は実に快適でした。ボーイング777‐300。日本海上空を飛び,佐渡と能登半島を横切り,鳥取を回って中国山地を南下。小豆島をかすめて四国を通り,南から関西国際空港へ。海が光っていました。

 今日はいまから東京です。中教審高等学校教育部会に行きます。
 ヨソサマノ子であり,未来から託された人たちの,いまとこれからについて考えたいと思います。

                      26号(2011.11.04)……荒瀬克己

1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
行事予定
1/6 1,2年全員学習
3年:センター試験直前演習(校内)
1/7 1,2年全員学習(進研総合学力模試)
3年:センター試験直前演習(校内)
PSTなし
1/10 平常授業開始
スクールカウンセラー来校日
京都市立堀川高等学校
〒604-8254
京都市中京区東堀川通錦小路上ル四坊堀川町622-2
TEL:075-211-5351
FAX:075-211-8975
E-mail: horikawa@edu.city.kyoto.jp