最新更新日:2024/09/20 | |
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『東山を西に見て』〜Make legend〜
「あの日」
あの日から18年が経ちました。毎年この日は、出来る限り5時46分に起き、TVを付けて、そこに映し出される映像に合わせて黙とうをするようにしています。昨朝もそうしました。 18年前のあの日。普段から眠りの深い私が大きな揺れを感じて飛び起きました。今でこそ、それこそ雨音ででも起きることがありますが、当時はまだ33歳。一旦眠れば少々叩かれても起きないような状況だった私がです。妻子が寝ている隣の部屋へ急行します。当時1歳半だった上の息子は、何も知らずすやすやと眠ったままです。その息子の上にお腹の中に下の子を身ごもっていた妻が四つん這いで覆いかぶさっています。結婚して2年足らず。当時妻は27歳。人間的には色々な部分に頼りなさを感じていましたが、この時ばかりは彼女の逞しさと、母性のすごさ、素晴らしさを感じたものです。 TVを付けると地震があったとの情報が流れていました。震度・マグニチュード・震源地、そんな情報です。被災地の状況など、この時点では全く分かりませんでした。学校へ着いた頃、被災地の様子がTVから伝えられてきました。目を覆うばかりのシーンが映し出されます。高速道路が横倒しになり、途中でちぎれてバスが落ちかかっていました。神戸の街が瓦礫の山になっています。初めて「液状化現象」というものも知りました。場面が変わると、火災が広がっている様子が映し出されます。燃え盛る炎に包まれ、倒壊した家屋の下敷きになっている人たちがいるのかと想像すると、地獄絵図を見ている思いがしました。 それでも、京都市の学校では普通に授業ができました。授業が終わると、教職員がTV画面の周囲に集まりました。画面の端に死者の数や行方不明者の数が出され、刻々とその数が増えていきます。『もう増えないでくれ!』そう思いました。何日もTVではこの地震のことが報道されました。家を失って道で寝食をする人たちの姿が映し出されるようになりました。焚火で暖をとりながら近所の人たちと寄り添って生活する人たちの姿が今も頭から離れません。自衛隊や消防、警察官による救助の様子が増えていきます。担架で運ばれるのは『おそらく遺体だろう』と、当たり前のように思うようになってきます。スーツでなく作業着で現地を訪れる政治家の姿も、この時から見るようになったように思います。 戦争の惨劇を後の世の人たちに伝える活動をしておられる“語り部さん”を見てきました。震災について同じように思います。教師として、この経験を通じて学んだこと感じたことを当時はまだ生まれていなかった今の子ども達に伝えていくことが大切です。 昨日の避難訓練の際も、寒いグランドで少しだけ話しました。生徒達は澄んだ眼をこちらに向けて聴いてくれていました。そして、その後の学活で担任の先生から色々なエピソードやその時に感じたことなどを聴いてほしいと締めくくりました。今も東北地方では震災は進行中です。年末年始にTVで現在の状況を報道していましたが、復興とは程遠い状況にあることも再認識しました。震災の日に当たり、思ったまま感じたままに綴ってみました。 |
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