京都市立学校・幼稚園
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まわり道

 堀川高校は、文化祭や体育祭などの行事をはじめ、特別活動も含めて生徒たちの主体的な活動を応援しています。活動を通して、生徒たちは失敗を含めたいろんな経験を通して、喜びや悔しさなどいろんなことを感じ、気づいていきます。このようなリアルな経験を学習面だけではなく、このような生々しい活動の中で、生徒たちは成長していきます。一見、将来の進路実現には遠回りのように感じますが、実は密接に繋がっていて、大きな要素であると思っています。将来、豊かな人生を送るためにはこのような体験はとても大切なエネルギー源なのです。自分たちで考え、立ち止まり、失敗し、また考え、軌道修正をする。ちょっと遠回りもしますが、遠回りから見えてくるものもたくさんありますし、堀高生としてのエネルギーは確実に蓄えられています。
 今年の8月25日の土曜日、地元の本能自治会地区の夏祭りがありました。毎年本校の吹奏楽部が夏祭りのオープニング演奏に声をかけていただき、参加しています。その時の祭りの様子で、とても素敵だと感じた親子と出会いました。その親子はお父さんとよちよち歩きができるようになった1歳半くらいの女の子でした。女の子は白地にピンクの柄の入った甚平姿で、小さな赤い靴を履いていました。お父さんは片手に出店の券を数枚持っていて、おそらく出店まで行って、トウモロコシかから揚げか焼きそばなどと引き換えに行く途中だったようです。お父さんは女の子を抱っこしたり、手を引っ張って出店まで行けばその目的を早く達成できたと思いますが、そのお父さんは女の子を歩かせて、その子の後ろからそっと寄り添いながらゆっくりと歩いていました。女の子は一歩進んでは足元の芝生をつかんでみたり、一歩進んでは、横を向いてしゃべっているおばあさんの顔をじっと見つめたりと、女の子はいつもと違う風景や様子、たくさんの大人と子どもでいっぱいの会場を、そのひとつひとつの風景や人をじっと観察しながら、ゆっくりと一歩、一歩を前へ、横へと歩みを進めていました。女の子はいろんなことを見て、肌で感じ、どこからかやってくるおいしそうな匂いを嗅ぎ、足元はふわふわした芝生で、歩きにくそうで、おそらく初めての感触だったでしょう。五感を体全体で感じながら、いろんな思いを現実として体験していました。お父さんはその様子をじっと見つめて、根気強く女の子につき合っていました。娘の感じるまま、思うままを体験させて、それを大切にしていました。女の子の遠回りをじっと見守っていました。こういうリアル体験がこれからの世の中にはとても大切になっていくと思います。こういう体験をした子どもたちは、豊かに育っていくのだと思います。今の世の中、早く合理的に答えを手にすることがよしとされています。もちろん否定はしませんが、リアルな体験をともなって蓄えられるエネルギーがより良い豊かな人生を作っていくと思います。
 そういう意味では、堀川高校での生徒主体の遠回りの活動も同じだと考えています。マニュアル通り、指示通りではない、クリエイティブな探究的な活動が将来、社会で活躍するときには、必ず力となって発揮されると信じています。目の前のことやモノについて、感じたり、思ったり、考えたり、触ったりで現実を体感させて、その体験を大切にしていたのです。便利な世の中になりました。ほしいと思っている答えがすぐに手に入る時代です。今後はさらにスピーディーになっていく世の中になっていくでしょう。そういう世の中だからこそ、現実のリアルな体験が重要になっていくと考えています。

 学校長 谷内 秀一


 アルベルト・アインシュタイン曰く、
「大事なことは疑問を持つことを止めないことだ。好奇心はそれ自体で存在意義がある。」

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ことばのちから

 『柔道部物語』という漫画がある。岬商業高校柔道部が少しずつ強くなり、全国制覇するというコメディタッチのスポ根物語である。
 主人公は一人の高校生なのだが、この柔道部顧問の五十嵐先生がいい。先生自身は日本トップクラスの選手なのであるが、努力が嫌いで、他人に教えるのもめっぽう苦手という人物なのだ。普段は多くを語らない、そんな先生がやる気を出して考え抜いたある指導法がある。とてつもなくナンセンスなのだが、これがおもしろく、深い。その指導の場面はこんな感じだった。

  五十嵐先生:「体力や技術も大切だが、それ以上に気力がものをいう。気力とは何かといったら、自信だ。自信をつけるために、一番手っ取り早いのは、自分で勝手に思い込むことだ!」
  生徒たち:「え……」
  五十嵐先生:「いいか、いくぞ。大きな声で俺につづくんだ。」
        「………。」
        「俺って天才だああぁ!」
        「はい!!」
  生徒たち:「俺って、天才だあああぁ!」
  五十嵐先生:「よ〜し、次!!」
        「俺ってストロングだぜぇ!」
        「はい!!」
  生徒たち:「俺って、ストロングだぜぇ!!」
  五十嵐先生:「ただし、あんまり天才だと気が重くなったりするからバランスをとるために、もうひとつ心構えをやるぞ!!」
  生徒たち:「何ですか……、もう一つって……。」
  五十嵐先生:「……。」
        「俺ってバカだぁ〜っ!」
        「はい!!」
  生徒たち:「俺って、バカだあぁ〜っ!!」
 そして生徒たちは猛特訓を重ね、主人公は全国制覇するのである。五十嵐先生は、人としての調和を重要視していると同時に敢えてことばを使って力をつけている。

 1年生の海外研修は4月からスタートし、探究を軸として日常化してきている。堀川高校の海外研修の準備は、無形の中に「存在」を創出するというやっかいなものだが、最高に有意義な活動だ。それぞれが世界に飛び立つ。ばらばらの活動のように見えるが、地球規模で同じ時空を共有しているのだ。
 地球に境界線はない。都合によって人間が引いているだけだ。境界を意識すればするほど、結果として調和が崩れる。宇宙を含めたわれわれの存在する世界は、調和している。バランスが保たれている。
 先の五十嵐先生の大切にしている調和は、基本的にバランスをとっているともいえる。それは一般的に「釣り合う」という意味だ。しかし、もう少し地球規模、宇宙規模で捉えるなら、対極にあるものを釣り合わせるということだけではなく、すでに釣り合って安定しているものやことのことを言うのではないか。善と悪とか攻めと守りなどと表現するが、善悪の間や攻守の間には境界はなく、善に近い悪もあり、悪寄りの善もある。故に、バランスには境界線が存在しないのだ。バランスとはボーダレスを内在させている。五十嵐先生の認識には、おそらくそのことがあったはずである。
 生徒たちは来年の3月には他国を訪れるが、そういった意味では、地球を一つの総体と捉えるなら、その地の人とコミュニケーションをとることは、普段行っていることとの差異はほとんどない。文化的文脈を理解し、ことばを通して知り合う機会を大切にしていってほしい。


 中村雄二郎曰く、「対話とは、ロゴスに導かれて展開していくもの。ロゴスとはことばや言説を意味すると同時に、問題となっている事柄の真理や真相を意味する。」


 学校長 谷内 秀一

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若き狩人!

 10月20日は、堀川高校の創立記念日です。
 今年は京都市立堀川高等学校としては創立70周年の年で、「京都市立高等女学校」から数えると創立110周年となります。今日の創立記念日に際しまして、「堀川高等学校校歌」のお話と、現在みんなで歌う機会がなくなって久しい、「堀川高等学校生徒歌」のお話をしたいと思います。
 堀川高校の校歌ですが、1980年(昭和55年)2月23日に、校旗とともに制定されました。えっ、と思いますよね。38年くらいしか歌われていないことになりますからね。そうなんです、堀川高校には創立当初からしばらくの間、校歌がなかったのです。そこで、まず、堀川高校の歴史をダイジェストでお伝えしたいと思います。
 1908年(明治41年)に設立された「京都市立高等女学校」の伝統を受け継ぎ、現在の校名「京都市立堀川高等学校」になったのが1948年(昭和23年)の6・3・3制の学制改革の時でした。この年の4月から学校の再編があり、10月20日に開校式が行われ、普通課程・商業課程・家庭課程・音楽課程の四課程を設置する学校として、70年前に再スタートしました。ですから、この日が創立記念日となったのです。1963年に普通課程、音楽課程の二課程となり、1997年に音楽科は京都市立音楽高等学校として独立しました。
 その後、堀川高等学校は、1999年(平成11年)に校舎を全面改築するとともに、普通科に加えて、新しい専門学科「人間探究科」「自然探究科」を設置して、新たな伝統への一歩を踏み出しました。
 さて、ここまで堀川高校の歴史をダイジェストでお伝えしました。110年の歴史の中で、校歌は1980年に制定されました。校歌に関わる話として、70年前、1948年の京都市立堀川高等学校がスタートした年に、実は、校歌を作ろうとして、在校生の生徒から校歌の歌詞を募集しました。生徒から歌詞を募集するというのは、まさに自主・自立を尊ぶ堀川高校らしいと思います。その時にトップで選ばれたのが、連隆文さんの詞だったのです。ところが、選ばれはしたのですが、歌詞の中に「堀川高校」という校名が使われていないことなどから、校歌としてはふさわしくないということで、「堀川高等学校生徒歌」と呼ぶことになったのです。作詞のご本人さんも、まさに適切な命名だったと、のちに回想しています。この詩に当時の音楽課程の岩上先生が作曲されて、生徒歌が完成し、1980年まで校歌の代わりとして歌ってきたのです。この生徒歌は今も生徒手帳に載っています。生徒全員で生徒歌を歌う機会がなくなって久しくなりますが、その生徒歌「緑なす森に」を少しでも身近にしようと、その第一歩として、今年の3月、17期生の卒業生たちが、卒業記念品として、校内のチャイム機器を贈っていただき、そのチャイムの中に、卒業生がピアノで演奏した生徒歌の「緑なす森に」のメロディの一部を、8時25分の朝の授業が始まる前に流しています。そして、生徒歌「緑なす森に」の歌詞の中にある、「若き狩人」という言葉は、現在の堀川高校の「進路のしおり」のタイトルとしても引き継いでいます。
 生徒歌の歌詞です。
 
 緑なす森 風にそよげり 木の間もれ来る 明き光に
 若き狩人 獲物追ひつつ 口笛の音の 及ばむかぎり
 逃すはあらじ 若き狩人
  立てや立て 心のままに 立てや立て 汝は得撓まじ

 緑なす森 風にそよげり 流れに映る 青雲の影
 若き狩人 あゆみ移せば 繁き露にぞ その身潤ほい
 樹々の間深く 木霊呼ぶなり
  踏めや踏め やさしき脚に 踏めや踏め 汝は得撓まじ

 緑なす森 常盤の森に 風立ち騒ぎ 変りありとも
 若き狩人 たゆむことなく 永久に住みつつ かけ廻りなん
 若き狩人 汝に幸あれ
  集へいざ 心のままに いざやいざ 共に讃へん

 作詞者の連隆文さんは、創立記念誌「あゝ 我が青春の堀川」で、歌詞の一番は「知」、二番は「情」、三番は「意」という隠れたテーマを設定し、構成したとおっしゃっています。当時の高校生の創作した「緑なす森に」は、まさに堀高生の原点です。創立記念日のこの日に、校歌とともに生徒歌「緑なす森に」を今一度振り返る機会として、現在の若き狩人たちは何を、どう感じ、どう思い、何を考えるのか、そんな時間を少し作ってみてほしいと思います。願わくは、堀高生の原点、若き狩人の意思を受け継ぎ、そして未来の堀高生、後輩につなぐ役を担ってほしいと思っています。

 学校長 谷内 秀一

 
 写真:堀川高校「メモリアルスペース」


 詳しい学校の沿革については、以下のリンク先をご覧ください。
    ↓
https://cms.edu.city.kyoto.jp/weblog/index.php?...


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「好き」なものを「知りたい」自分

 泉鏡花の小説や戯曲が好きで、特に「お化け」ものと呼ばれるものを高校、大学の時によく読んだ。中でも戯曲の「夜叉ヶ池」が大好きだ。坂東玉三郎主演で映画化されたときには、映画館に7回足を運んだ。原典のイメージと私なりに一致したからだろう。人間と龍神の交わした約束を敢えて人間が破るにいたる物語で、どちら側にも「愛」がベースとなっている。物語中に主人公の百合が月を愛でながら「……。月は可(よ)し、灯を消して戸をしめて。」と、人形を抱っこしながらささやくシーンがある。もともと「月」が大好きな私は、この「月は可し」にやられてしまった。読みながらその場面が頭の中に鮮明に想像でされ、自己陶酔に陥った。美しい情景が心に焼き付く。しかし、妖怪たちより人間たちの方が「欲」深い。そこには有限の命というものがあるからだろう。長びく旱に生贄を捧げようとする生への行動。社会情勢が不安定で生きることに精一杯で極限的な状況であるからこそ、そう行動せざるを得ないこともあるだろう。今の世界情勢をみても似たような場面はある。
 「欲」は我々に日常的につきまとってくる。本能的な欲から社会的、心理的な欲まで多種多様な欲がある。欲は善にも悪にもなりうる。どちらかというと現代社会では悪のイメージの方が強いかもしれない。アメリカの心理学者アブハム・マズローは、欲求をピラミッド型で五段階に分類していて、第一段階は「生理的欲求」でその上に「安全欲求」、「社会的欲求」、「承認欲求」、そして一番上には「自己実現欲求」を位置づけている。第一段から三段までは「外的に満たされたい欲求」とし、四段階の「承認欲求」と五段階の「自己実現欲求」は「内的に満たされたい欲求」としている。
 大切なのはやはり自己実現に向けての欲求行動であり、探究基礎における「好きでたまらない」、だから「もっと知りたい」、そして知ることで自己認識が堅固となる一方で、知らないことが後からついてきて、悶絶し、また知りたくてたまらなくなってくるという無間地獄に陥る。もやもやするが清々しさを同居させる活動だ。前もって自分なりの帰結先を根拠とともに用意し、他者に伝えるという営みは社会の中では当たり前に成り立っている。だからこそ、世の中が求める生き抜く力とその営みを現前化することの有意義性は重要となる。
 堀川高校の探究基礎発表会にはその有意義的な営みが集結している。お互いの自己実現欲求を交流しようではないか。一人ひとりそれぞれの自己実現プロセスは、他の四段階欲求も満たされているかの確認も今後必要か。
 人の集合体全体がお互いの自己実現プロセスを受け入れ合って、我々の住む世界は「月は可し、灯を消して戸をしめて。」と、月を愛でながら一日を終える、そんなGlobeでありたいものだ。

 星野道夫曰く、「本当にやりたいと強く思うことは、時として勇気を生む。」

 (探究基礎発表会予稿集より)



 学校長 谷内 秀一
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文化祭まであと2日!!

Drastic Innovation

 私たちが生きる情報化社会の状況は急速に変化していて、とりわけ人工知能技術をはじめとする技術革新はすさまじい。社会構造も大きく変化し、次世代の新しい社会が見え隠れしている。IoT(Internet of Things)ですべての人とモノがつながり、さまざまな知識と情報が共有化されることによって、これまでになかった新たな価値が生み出され、さまざまな社会課題が克服されるといわれている。少子高齢化や地方の過疎化などの課題、情報があふれすぎて必要な情報が必要な時に見つけられないなどの課題等、これまでの社会で解決困難だったことが、AI(Artificial Intelligence)、ロボティクスなどを活用していくことで、生きていくうえでの可能性が広がっていく社会が構築される。その社会を「超スマート社会」と呼び、今の中学生や高校生が社会で活躍する頃に直面する。
 IoTやAI、ロボティクスなどといった情報を中心とする革新的技術が新しい付加価値を生み出していく社会は、SF映画で描かれているシーンによく登場するが、もうフィクションではなくなってきている。超スマート社会は、一見その中心となるのが、デジタライゼーションのようだが、私たちが大切にしなければならないのは、人間中心の豊かな社会でなければならないということだ。したがって、デジタライゼーションはあくまでも手段でなければならない。
 人間中心の豊かな社会を構築するには、一人ひとりのエンパワーメントが最も重要となる。堀川高校での「自立する18歳」にむけての自覚と成長が10年後、20年後の社会に直結していくと考えている。文化祭もその重要なエンパワーメントを強化する活動だ。想定外が目の前に立ちはだかり、朋とともに軌道修正し目標達成を目指し、もがき続ける。達成に向けての協働から得られるエネルギーは、朋が多ければ多いほど、掛け算となって増大していく。居心地のよい落ち着いた平静さの中ではイノベーションは起こりえない。新しい価値を創造するには、ドラスティックな革命を起こさなければならない。
 この革命的な2日間は、10年後、20年後のデジタライゼーションを手段とした人間中心の豊かな社会である「超スマート社会」を構築するパワーの根源となること間違いなしである。堀川高校の文化祭は日本の未来社会の土台となる魂が宿り、そしてパワーも無限に増大する場なのである。

 イタリアベローナ、ダンスをする老夫婦曰く、
 「タンゴはウィルスのようなものだよ。踊らずにはいられないんだ。上手に動くことより、素直な感情が大事なんだ。タンゴは3分間の人生なんだよ。」

(文化祭パンフレット挨拶より)


 学校長 谷内 秀一 



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ゆかし

 人は世界中にあるいろんなモノやコトを認識して生きています。私はそれがどんなふうに認識されていくのかという「認識」の構造について、とても興味があり、ちょこちょこ考えています。
 今となってはかなり以前の話ですが、私は国語の授業である実験をしたことがありました。教室内に存在しているモノで、ぱっと目に入って、気になるものがあれば、それは何かを記入してもらい、また、普段は全く気がつかなかったけど、あえてよく見ると、ああ、こういうものがあったのか、というものもあったら、それも記入してもらいました。結論からいうと、すぐに目に入って気になるものには、ほとんど「名前」「固有名詞」がつけられたモノでした。逆にいつもは全く気がつかなかったモノは「名前がつけられてないモノ」がほとんどでした。つまり、人とモノやコトを繋ぎやすくする、「認識を可能にする」には「ことば」の存在が大きく影響しているということです。ことばというものの存在は、私たちの日常の認識にいかに大きな役割を果たしているかということがわかります。
 それが、ある日の朝、学校の玄関入口前で、ある男子生徒との会話で、少し考えが変わりました。というか新たな「発見」「気づき」がありました。「なるほど」と思って、人の認識の構造が私自身深まりました。
 私は玄関入口前に、花を植えていて、その世話をしていたときの出来事。登校してくる生徒たちは私に「おはようございます。」とみんな声をかけて挨拶してくれます。とても清々しい気持ちになり、一日の始まりにはいいスタートです。
 その日はいつものように花がら摘みをして、水をやっていた時に、3年生の男子生徒で、とてもさわやかで活動的、リーダー的な生徒が登校してきて、私に「おはようございます。」といつもの爽やかな挨拶をしてくれました。いつもながら好青年だなぁと思っていた時に、その生徒はさらに私に近づいてきて、次のように声をかけました。
「ああ、ここに花があったんですね。」と笑顔で何の屈託もなく言いました。
 私はその時「おっ!」と思いました。目立つ花の色だけに、その存在は認識されていただろうと勝手に思っていたのです。しかし、それがちがった。その生徒にとっては、花自体は目に入っていたけれども、認識まではされていなかったということです。私は勝手に玄関を通る生徒たちの目には花が認識されているだろうと決めつけていましたが、それがちがった。いったい何が違ったのかを考えました。
 おそらく、花という存在を認識するのは、ただ単に名前や固有名詞があるからだけではない。そこに「人」が介在することによって、より存在の認識が深まったのではないかという私なりの答えにたどり着きました。ただ単に目に入るのではなく、認識する、という状態にはさらに別の人の存在がそれを促すのだろう。
 このことは、花だけにいえるのではなく、モノやコトの存在の認識すべてに当てはまると思います。当たり前といえば当たり前なのかもしれないが、自分なりの疑問と気づきを経験して、また清々しい気持ちになった。

 Madonna 曰く「大切なのは、どう見えたかじゃなく、本当はどうか、なんだよ。」


 学校長 谷内 秀一

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ある卒業生の話

 西日本を中心に大きな被害をもたらした西日本豪雨では、今も被災地で捜索と救助が続いています。交通機関も混乱し、多くの人たちが普段の生活にもどるのに、まだまだ時間がかかっている状態です。被災地での復旧作業が急がれています。
 そんな状況の中で、今年4月から広島大学に進学し、東広島市で学生生活を送っている堀川高校の卒業生が、自分の生活している地域が混乱している状況の中で、大学生仲間たちとともに困っている人たちのために、積極的に活動しているという連絡がありました。
 東広島市の国道2号バイパスが寸断され、身動きの取れない車やトラックが3キロ以上立ち往生しており、そのドライバーたちに、堀川高校卒業生を含めた広島大学の学生有志15名が、自分たちで炊きだした塩おにぎり300個や飲み物などを差し入れたということです。お米も学生たちがツイッターで呼びかけて、約100合集まったそうです。卒業生はおにぎり部隊で一生懸命にぎり続けたということです。
 自分たち自身の生活もままならない中で、他者のために行動できる力は本当に尊いものだと思います。困った状況の中でも自分の位置だけではなく、周囲の状況をふまえて、客観視できる力は、想像力を豊かにし、自分に何かできることはないかと他者との協働を生み出していく。それはまさに思考力、判断力、表現力(行動力)が自然に発揮されたものなのでしょう。
 最近の若者たちは……本当にすばらしい!

 
 学校長 谷内 秀一


 写真:中国新聞社7月10日掲載記事(中国新聞社の許諾を得ています。)


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第12代校長恩田修三先生「瑞宝小綬章」受章!

 昭和61年〜63年、堀川高校の学校長でいらっしゃいました恩田修三先生が「瑞宝小綬章」を受章されました。心よりお慶び申し上げます。
 7月18日に勲章と勲記をお届けにまいりました。ご受章に関しましては、「ずしっと、重いものを感じますね。」と笑顔でおっしゃっておられました。
 恩田修三先生におかれましては、堀川高校をはじめとする市立高校で積み重ねてこられた優れた教育実践並びに堀川高校校長として輝かしい伝統を築いてこられたその御功績に深く敬意を表しますとともに心から感謝申し上げます。
 これからも末永く本校を見守っていただきますようお願い申し上げます。


 学校長 谷内秀一

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間合い

 ある日の通勤電車内での出来事。
 電車の一番先頭車両の運転席後ろに立っていた。
 ななめ後ろにはお母さんと男の子がいた。
 男の子は一生懸命先頭車両の一番前の窓から電車が進んでいくのを楽しんでいた。お母さんはその横で優しげに微笑みながら男の子を見つめていた。
 子どもは総じて一番前の窓から、電車が進んでいく様子を見るのが大好きで、よくこのような親子連れを先頭車両で見かけた。
 地上を走る電車からの先頭車両から見る景色や様子は、その電車に乗っているすべての人の中でも、自分ひとりだけだ。独り占めの景色である。特等席だ。
 男の子はそんなことこれっぽっちも考えてない。ただただ、電車の進んでいく様子を楽しんでいる。
 ところが、この電車は途中から地下に潜ってしまう。そうなると景色を楽しむことができなくなる。なぜなら、運転席後ろと男の子がのぞいている窓に暗幕が下されてしまうからだ。運転手さんがトンネルに入る手前でそのスイッチを押す。電車前方の景色を楽しんでいた子どもたちは、その時点でお楽しみが終了してしまう。そんな光景をよく見た。
 この日の男の子も、そんなことをこれっぽっちも考えずに楽しんでいる。
 いよいよ地下に潜る手前にきた。スイッチが押され、暗幕が上から下りてきた。
 お母さんはやさしく男の子に「ああ、見えなくなっちゃうね。楽しかったね。」と声をかけた。
 男の子は何のことかわからないのか、聞こえないくらいに景色に集中していたのか、お母さんのことばにまったく反応せずに見入っていた。
 私もその様子を眺めていた。結論は見えなくなるという事態と決めつけていた。
ところが、その日のその時は結論が違ったのだ。本当にびっくりした。
 暗幕は降りてきていて、もうすぐ窓の一番下まで到達しようとしていた。運転手席の後ろの窓は完全に暗幕で閉じられたが、なんと、男の子が見入っている窓の暗幕は、男の子のオデコのあたりで、「ピタッ」と止まったのだ。だから男の子は、トンネルに入っても、電車の進んでいく前を、ずっと見入りつづけていた。
 お母さんは「わぁ、すごい!え〜っ、すごいね!」と男の子に話していた。話していたというよりも感嘆していたといった方が適切か。あまりにも想定外のできごとだったので、言葉が見つからなかったのだろう。しばらくして、「ありがとうございます。」と、見えない運転手さんに言葉をかけていた。
 運転手さんに届いたかどうかはわからない。
 周りにいた乗客もこの様子に驚いていた。そして、心和んでいた。
 男の子はそんなことにはまったく見向きもせず、ずっと電車の前を眺め続けていた。

 運転手さんと子ども、そしてその様子を見ていた私たちの間には、言葉は介されてはいないけれども、まちがいなく強く繋がっていて、なにか大きなエネルギーが生まれていたように感じた。感動という一言では言い表せないエネルギーが存在していた。熱く、そしてすがすがしいエネルギーだ。新しい何かが生み出された感覚だ。言葉はお互いには交わされてはいないが、新しい価値が生み出された瞬間と感じた。これは、ある意味、「対話」が成立したととらえてもいいのではないだろうか。
 対話は、自分の考えや感じ方などが他者の考えや感じ方などに出会い、結合、変形しながら新しい見方や考え方、感じ方などの新しい価値観が生み出されるところに醍醐味がある。今回のこの電車での男の子の文脈も、この対話にあたるものと言えはしまいか。
 そんなことを考えながら、すがすがしい思いで、職場に向かった。


 学校長 谷内 秀一

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「学び」の場

 ふらっとある数学の授業を見に部屋に入っていった。そこではあちこちから生徒たちの声が聞こえてきていた。グループごとに可動式の一畳ほどのホワイトボードに数式を書いたり、直線や曲線などを書いたりとワイワイやっていた。今年開設した一般的にいう「ラーニングコモンズ」での授業だ。それぞれのグループごとに別々の課題に対して熱心に、眉をひそめながらかつ楽しそうに言葉を発していた。
 熱心に対話をしている生徒の姿は目にはいるのだが、ところでこの授業の担当教員はどこにいるのかなと探したらその部屋の片隅にいて、ニコニコしながら生徒の活動を見守っていた。
 その担当教師と生徒のやりとり。

 教師「問題を解きあったら、解答を確かめるために解答例を配るからね。」
 ある生徒「先生、今、解答例を配ったら見たくなるので、配らないでください。自分たちで最後まで考えたいので。」
 教師「・・・・なるほど。わかりました。」

 学びを深め合う場として、本校の図書館の二階マルチメディアルームを大幅に進化させた。京都市教育委員会のご協力のもと設置できた。生徒たちが自主的に、勝手に議論、対話をかわし、新しい何か、新しい価値、学びや気づきの喜びなどをクリエイトする探究の空間を作った。
 提供しているものは難しいものではなく、対話をする人数によって机を組み立てやすくし、意見や考えや思考のプロセスを可視化するために必要な可動性に富んだホワイトボードを数十枚用意した空間だ。プロジェクター9台とノートPC28台も必要なら使えるように備えている。主体は生徒だ。5月から教科の授業や探究基礎の授業、委員会活動、または生徒個人でも活用している。教室での学びとこのラーニングコモンズでの学びは別々のものではなく、生徒たちが自主的に、学びの連続性を保ち、そしてさらなる学びへの意欲を創出する空間として展開していくことを願っている。
 今後は、BIGBOX(校舎)全体をラーニングコモンズとしていきたい。


 学校長 谷内 秀一

 写真:ラーニングコモンズでの活動の様子

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行事予定
12/31 学校閉鎖日
1/1 学校閉鎖日
1/2 学校閉鎖日
1/3 学校閉鎖日
1/4 学校閉鎖日
1/5 PSTなし
1/6 3年センター演習(校内)
京都市立堀川高等学校
〒604-8254
京都市中京区東堀川通錦小路上ル四坊堀川町622-2
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FAX:075-211-8975
E-mail: horikawa@edu.city.kyoto.jp