京都市立学校・幼稚園
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ハートフルマーク

ココロザシ

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玄関横のクスノキ。旧校舎から移植しました。
来週は出張が続き掲載できないかも知れませんので,とっておきの写真をお届けします。


 10月12日に,「ひま部」のメンバー6人と話しました。9月21日に話すはずだったのですが,台風のため臨時休校になったので延期しました。
 「ひま部」というのは,三年生の9人で構成しているそうですが,実際にどういうことをしているのかは謎です。ただ,その名のとおり「ひま」なのかというと,どうもそうでもなくて,普通に部活に入っていましたし,それ以外にもいろんなことを議論したり,小惑星探査機「はやぶさ」を堀川に呼ぼうとしたときには署名活動をしたりと,なかなか忙しそうでもあります。

 「それで,どんなところから始めますか?」
 「個人情報保護のために裏紙の使用を一切しないということですが,環境問題を考えるとどうかなと思うんですが」
 「なるほど。確かに教職員の中にもそういった意見があります。しかし,個人情報だらけの学校の中で,それらをきっちり保護するために,はっきりとした線を引こうと考えました。個人の判断を入れることによるリスクを排除しようと考えて,そのほかにもいろいろと取り決めをしています。状況を見ながら考えていきますから,いまはこの対応を理解してください」
 「わかりましたが,生徒の中に,もっと工夫の余地はないのかという意見もあります」
 「貴重な意見です。そういうことなら始業式で話すことにしましょう」
 と言ったのに,始業式で話しそびれてしましました。「ひま部」の諸君,ごめんなさい。学年別のアセンブリなどの別の機会に話すことを含めて考えます。

 文化祭についても興味深い内容をいくつも話してくれました。
 「文化祭をなぜするのか,と思うんですよ」
 「ほう。面白いことを考えますね」
 「一緒にやっていくうちに,確かに発見があったりします。この人はこういう話し方をするのかとか,こんなことに興味をもつのかとか」
 「文化祭っていうけど,そもそも文化って何だと思う?」
 「文化ですか」
 「変なことを言うようですが,水とか塩とかは生きていく上で絶対に必要だけど,胡椒とか絹とかは別になくてもいいよね。ところが,その必ずしも生存にとって必要ではないものを求めてはるばると旅をする。それで道までできる。それを文化と言うならば,文化って,そもそも要らないことをすることのようですね。でも,それに重要な意味があったりする。あるいは重要な意味を見出したりする。価値づけ,ですね」

 生徒の言葉がきっかけになって,いろいろと考えます。実に面白いことを言っていました。やってきた6人はアクセルだそうです。残りの3人がブレーキ。
 「ハンドルがないんですよね」

 10月13日,後期始業式。HPの「新着案内」や「学校の様子」でもご紹介しているとおり,ローム株式会社からLED球とものづくりに関する書籍を図書館に寄贈していただきましたので,その贈呈式を行いました。
 SSH運営指導委員をお願いしているロームの常務取締役でいらっしゃる高須秀視氏が全校生徒に話してくださいました。その中でおっしゃったのは,三つの壁を乗り越えよ,ということ。……国の壁,技術の壁,そして自分の壁。

 会場のアリーナは10月半ばというのに蒸し暑く,贈呈式に引き続いて私が話し始めたときに生徒が一人しんどくなってしまいました。そういうことは時々あるのですが,話を続けながらも少しあわててしまって,「ひま部」との約束を飛ばしてしまいました。それだけでなく,亡くなったスティーブ・ジョブズ氏のスタンフォード大学での演説を紹介する際に,しばらく失語状態になりました。Stay hungryと言うべきところ,なぜかふっとStay hereという言葉が出かかって,あれ違う,と思ったら言葉が出なくなって,生徒の一部が失笑するほどの長い「間」ができてしまいました。
 後から若い教員が,「生徒を引き付ける絶妙の演説技術ですね」と言ってニヤリ。ソウジャナイコトヲ知ッテルクセニ。

 始業式後,呼んでもらった三年生の教室に行きました。
 「式では失礼しました。実はね,ジョブズは大変なお金を儲けたけど,世界を変えるようなものを創り出すことに生涯をかけたんですよ。これは,天野祐吉さんっていう人の受け売りですが。そこで思い出すのが「はやぶさ」。本来はイオンエンジンの実験が目的だったんですよ。こっちは朝日新聞の去年の社説の受け売りですが。それが小惑星「イトカワ」の探査という魅惑的な目標をもつことによって,困難な状況の中でもチームが懸命に動いていった。思うんだけど,目的と目標が入れ替わったみたいになったんですね。大学も,そこに入るということよりも,そこで何をするのか,そこを出てからどうするのかということの方が大事でしょ。そういった,先にあるものを見ようとすることを,たぶんココロザシって言うんですね」

 午後には研修会が二つありました。私は,本能館であったキャリア教育研修会に行きました。資生堂の人材開発室長である深澤晶久氏と京大総合博物館准教授の塩瀬隆之氏が,それぞれ企業と大学から見た高校のキャリア教育についてお話しくださいました。
 深澤氏「仕事には正解というものがない」。「言われなくてもするという主体性が重要」。「失敗を恐れるとか,答えがないことへの不安とか,考えることが苦手とかといった若者が多い」。「『わかっている』を『できる』に,『知っている』を『使える』に」。「修羅場体験もまた必要」。「研修では心を磨くことが重要」等々。
 塩瀬氏「コミュニケーションの研究をしているが,すればするほど言葉はなかなか伝わらないということがわかった。言葉を選ばなければいけない」。「友だちと話せることと先輩や初めて会う人と話せることとは違う。異世代間や異文化間のコミュニケーションが求められる」。「社会や人生には理系の問題とか文系の問題とかはない」等々。
 脈絡なくお伝えしましたが,実に勉強になりました。

 学校訪問に来られた島根県の校長先生とお話しした後,夜になって卒業生たちとの食事会に行きました。会の名は「夜久野会」。この日集まったのは,大学院で研究をしている人や就職している人7人。自然探究科3期生の男子です。あれやこれやと話が盛り上がっていく中で,ひとりが在学中のことを話してくれました。「成長するということは,こういうことができるようになる,ということだけではなくて,こういうことができないということがわかる,ということでもある」と私が高校生のかれらに言ったそうです。
 「そんなこと言いましたっけ」
 「はい確かに。とても印象に残っています」
 「ふうん,そうでしたか」
 かれらの高校時代の顔を浮かべました。いかにも自分が言いそうだとは思いましたが,どんな文脈で話した言葉であるかは思い出せません。その代わり,塩瀬先生がお話の最後に,「いまおとなが届けないといけないことを届けましょう」とおっしゃったのを思い出しました。

 この時期になるといつも思うのですが,三年生たちの表情がすてきです。一年生や二年生のときとは異なる,まぶしさを包みこんだ落ち着いた表情。これからに備える意志と言えばよいのか,静かな決意と言えばよいのか,それぞれが確かな存在感をもって,そこにいます。
 その前に立って自問します。かれらの視線に応えうるようなココロザシを自分は持っているか。

                      25号(2011.10.18)……荒瀬克己

あの時の前には戻れないから

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堀川北門近くのユリノキ。もう秋です。


 昨日お届けするはずでしたが,諸般の事情により遅れました。申し訳ありません。

 先週土曜日に3年生と話しました。舞台美術をやりたいという生徒に,音楽座のミュージカルと高台寺のライトアップのすごさを紹介しました,
 夜は,以前に担任をしていたクラスの同窓会に出席しました。費用を払おうとしたら「今回はご馳走します」。初めてでしたので感激しました。担任であったときの私の年齢を越えた彼らはさまざまに苦労を重ねているはずですが,それらを心にしまい込んで笑い話すことのできるおとなになっていました。ただし,笑顔は高校生のままで。
 日曜日に卒業生の結婚式に行きました。式では参列者の前で誓いを立て,続く披露宴も仰々しくなくて,親しい仲間のパーティといった感じの実にさわやかな結婚式でした。空がとても青くて,会場からは,秋というよりも懐かしい夏を思わせる海が見えていました。どうぞお幸せに。
 若々しい生徒たちと,落ち着いた卒業生たちと。年齢の違いこそあれ,いずれもがすがすがしい笑顔。あのとき以前には戻れないけれど,否,戻れないから,これからに向かってまっすぐ歩いていこうとしている。そういう姿のもつ清い力。
 同窓会に来ていたひとりからのメールです。
 ……老人ホームで人生の最後の時をみて,私の役割とともに生き方を考えることがあります。でも,最近はやることが多すぎてパンク寸前でした。……また来年もみんなに元気で会えるように,リセットしてがんばります……。

 自然であれ人為であれ,圧倒的な「暴力」の前に人間は無力です。哀しいくらいに。
 しかし,そういう人間の間違いなく誰もが,存在していることによる力をもっています。いのちの力と呼べるようなものです。この力は,その人自身が生きていることによって生じる力で,その人自身には気づかれないこともありますが,周囲の人は,やはりそれを意識するかどうかは別としても,その力を受けて生きています。人は近しい人から力を吸収しているからこそやっていけるのだと言えます。
 だから,それが失われたときに生じる喪失感は,言葉に尽くせぬものになります。

 母が亡くなったとき,私は22歳でした。呼吸の間隔が長くなり,しだいに不規則にもなり,息をするだけの母になり,吸った息をいつまで待っても吐かなくなって,医師が静かにいくつかの動きをしたあと,母の腕を布団に入れて,そこにまだ姿があるのに,私の母がいなくなりました。病室は6階でした。私は,もう母のいない部屋を出て,階段を下りて,地下の洗面所で何度も顔を洗いました。
 祖父母や叔父の葬儀に出たことはありましたが,身近な人が死ぬのに直面するのは初めてでした。しかも,それが母だったので,私は相当に揺れ惑いました。ずっと入院していましたから気持ちの準備もできていようはずなのに,実際の死は,私にとっては突然に訪れ,したがって衝撃もまた突然襲いかかってきたのでした。
 そのときの私の気持ちはてんでばらばらで,言葉に表せるものではありませんでしたが,そんな中でひとつの言葉が頭の中をぐるぐると回っていました。いなくなった,いなくなった,いなくなった……。私は母の死に,言いようのない理不尽を感じました。

 3月11日から7か月。1995年1月17日は午前5時46分,2011年3月11日は午後2時46分。地震発生の時間の違いについて,哲学者の鷲田清一氏は「同じ46分だが,人の生活を考えると午前5時と午後2時は意味合いが異なる」とおっしゃいました。早朝なら家族は一緒にいる場合が多いけれど,昼間はそれぞれが別の場所にいる,したがって,親や知り合いのおとなを失った子どもが多いのではないか,と案じておられました。
 ヘリコプタから撮られた,火を上げつつ見る間に田畑を呑み込んでいく津波。あまりにも簡単に流される家や車。阪神淡路大震災とは異なる,別種の驚愕の映像がいまも焼き付いています。けれども,それらのカメラに映った場面とは別に,映像にならなかった現実が無数にあったという事実を思うと言葉を失います。
 あれからの時間が,被災された方それぞれにとってどのようなものであったか。なかなか進まない復旧と原発問題の未解決。二度と戻らない時間といのち。

 先が見えず,社会全体もまた,どうしてよいのかわからない閉塞感にとらわれ,さらには,どう言えばよいのか,私たちは自然に振る舞うことにためらいをもつようになったのではないか,とさえ感じます。
 力を受けていたいのちを失った人が多くいて,それがめぐりめぐって数知れない人が喪失感を抱き,また,多くのいのちが,見えない不安にさらされていることで,言うに言われぬ頼りなさにさいなまれているようです。

 こういう状況は,わかりやすさを求める傾向を増幅します。不確かであることや,よくわからないことに向き合う手続きの複雑さや面倒が徐々に敬遠され,排除されていくため,時にはある種の「スローガン」が,正当な合意のないままに喧伝されることになります。一方で,判断の基準になるデータが「不足」しているため,最新の科学的知見による適切な対応ができていないのではないかと思われるケースも見られます。
 困難のさなかにあって,私たちの知恵が試されています。

 2011年3月11日午後2時46分以前に戻ることはできません。理不尽であっても,状況を受け入れざるを得ません。しかし,どういう状況であっても,人為で理不尽を作ってはなりません。
 ならば私たちは,これからをどのように生きればよいのでしょうか。どう人と関わって生きるのか。いのちをどのように守るのか。育てるのか。本当の安全をどう確保するのか。どのような社会をつくっていくのか。考え,語り合わねばなりません。それらを行動につなげていくために。立場や世代を超えて。不十分ではあっても言葉の力を尽くして。なお希望をもって。

                      24号(2011.10.12)……荒瀬克己

神無月

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 先週土曜日は10月1日。
 午前中,西京・嵯峨野・堀川三校の専門学科合同説明会を京都駅前のキャンパスプラザで開催しました。堀川からは21人の教員が行きました。京都新聞に大きく取り上げられたので,京都や滋賀にお住まいの方はご覧になったかも知れません。
 「京都の公立高 受験生に猛攻」という見出しで,記事には「私立高の学費負担は,ほぼ公立並みに軽減され,『もはや公立,私立の差はなく,同じ競合の土俵に乗った』との強い危機意識がうかがえる」とか,「府立高校と市立高校の共闘。関係者は『受験層が重なる公立3校のタッグで,より多くの中学生を集めたかった』と打ち明ける」とかと書かれていました。
 確かにそういうことも言えなくはありません。しかし,私たちが考えたのは,当日お話ししましたように,三校のどこかに合格する生徒は,基本的に三校のどこにでも合格する可能性を持っていますから,どこが自分にとっていちばん行きたい学校かを考えてもらうための情報を提供するということでした。
 
 午後には本能館で第3回探究道場がありました。8月2日に紹介した「数学で探究〜ハカリシレナイ測り方」の第2回。前回と同じ内容で中学生に悩んでもらいました。
 8月2日に,「道場は,PBL(Problem Based LearningあるいはProject Based Learning)の手法で行っています。問題を提示した後は,基本的に説明は行いません。自分の持っている知識や技術や経験に基づき,それらを活用して取り組みます。堀川の生徒が進行役や補佐役を務めますが,手を貸すことはしません。したがって,自分でよく考えるということとともに,他のメンバーとよく話し合うということが大切になります」と書きました。今回は,うちの生徒が前期末試験直前であったため参加していません。その代わり十数人の教職員が手伝いました。
 それで何をするかというと,課題は深泥池の面積を出すこと。机の上や教室の前後にはいろいろなものが置いてあります。
 まずは,深泥池の地図。それから,定規,タコ糸,ゴムひも,ゴム風船,セロテープ,方眼紙,はさみ,紙粘土,コピー用紙,マジックペン,精密なデジタルばかり,電卓など。この中には面積計算をするのに不必要なワナのようなものもありますので,師範を務める数学科の教師が「ゴム風船を膨らまして遊んでいてはいけませんよ」と声をかけますが,そんなことをする人は一人もいません。
 前回同様,実に面白い3時間でした。
 探究道場の合間,本能館のブリッジ(渡り廊下)から見上げると,空にはきれいなうろこ雲。神無月に入って,見えるものはすっかり秋です。

 月の異名はどれも味わい深いものですが,私にとって神無月は少し特別です。
 高校時代に睦月,如月……と教わったときに,古典の先生が「八百万の神々が出雲に集まるためにいなくなるから神無月。だから出雲は神有月」とおっしゃるのを聞いて,ナルホドと思いました。ヤオヨロズノ神々という非現実が,「だから出雲は神有月」という結びで,素朴な論理的処理を施されたからです。それがなければ,では神様がみんな集まる出雲はどうなのかと理屈好きの生意気な高校生たちは,さぞかしうるさかったことでしょう。
 数年前に島根県へ行ったとき,実際に出雲で神有月と呼んでいるかどうかを尋ねてみました。私が話した土地の方は「そう言うこともありますかね」と,どうということもない風でした。

 さて,いつの時代でも高校生は生意気です。生意気は高校生の特権ですが,それは成長過程に必要な性向だからです。生意気には素直な心もまた内包されています。したがって,高校生の生意気さは好ましくさえあります。
 素直とは,謙虚や敬意や感動を備えていることです。これらは人間の心の中の神様のようなものであると思います。素直さを失うと,生意気は剛情や傲慢,時には無理解や怠惰に変成します。
 おとなはそのバランスを保つ訓練を経ているはずですが,それができない人や,できない場合があります。特に,「立場」のある人や場合が要注意です。立場は人を成長させ,充実させもしますが,逆の働きをしてしまうこともしばしばあります。
 他の組織はいざ知らず,学校では,生徒と接する教員は気をつけなければいけません。そうだとすれば,校長がもっとも気をつけなければなりません。かく言う私はどうかというと,なかなか危うい状況です。神無月というのは,警句かも知れません。

 あれこれと考えますが,この数日は空ばかり見上げてしまいます。
 神無月の四日。屋上に上がってみると北の空は青く,空気は清々しく,振り返れば南の空には絹の雲が高く。
 
                      23号(2011.10.04)……荒瀬克己

ソウル

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○写真左は,京丹後市の友人が送ってくれた今朝6時過ぎの南館
○右は,10時過ぎに屋上から見た比叡山と雲
 (カメラを持たないのでソウルの写真はありません。すみません)


 9月21日は,台風15号による暴風警報が発令されたため臨時休校。朝から教育委員会に用事があったので,私は午後から学校に行きました。文字通りガランとした学校に教職員だけが普通にいるというのは妙な感じです。アトリウムに行っても,生徒の声は聞こえないし,当然気配も感じません。なんだか不思議な空間。今年,臨時休校はすでに二度経験しています。しかし,生徒のいない学校もまたオツなものだとうそぶいてはみても,実際にはどうも落ち着きません。
 警報が解除されたあと,夕方になって2人の2年生が来ました。翌22日にある京都パレスライオンズクラブでの発表準備です。クラブのご厚意で,生徒にヨーロッパ研修の機会をいただきました。10月にストックホルムとロンドンに行くことになった2人が,翌日のクラブの例会で研修内容の説明をすることになっているので,一緒に行く教頭の指導を受けに来たのでした。どうぞと言われて,私も会議室で発表を聴きました。「それって,本当にそういうことが言えるの?」とか,「話に無理があるように思うなあ」とか,「どこで調べたの?」とか言って邪魔をしているようなものでしたが,2人は誠実に対応してくれます。そうこうしているうちに,PTA役員のみなさんがお見えになって定例の役員会。
 夜遅く,22日から2泊3日で韓国へ行くための準備をしました。23日は台風で順延になった体育祭でしたが,私はソウルで会議があって出られません。挨拶は副校長がやってくれました。体育祭にいないのは初めてです。この話を受けた時に,もしも体育祭が順延になったらと思ってためらったのですが,いろいろな方から勧められて引き受けました。予感が的中してしまったことを悔しく思います。

 2011 International Forum on Creative School Managementという催しに出席しました。日付のおかしくなった9月15日の19号の「月」で,「少々多忙にしていました」と書いたのは,この会議での発表原稿を用意するのに手間取っていたからです。なかなかのハードスケジュールでしたが,大変刺激的な経験をしました。会議の詳細については,いずれどこかで発表したいと思っています。
 主催は,韓国政府の教育科学部とKEDI(韓国教育開発院)。日本で言えば,文部科学省と国立教育政策研究所ということになるでしょうか。会議に招かれた外国人は4人。ロンドン大学の教授,イギリスのロバートクラーク学校とアメリカの「壁のない」学校の校長,そして私です。韓国からはポサン高校という全寮制の高校の校長。さらに,OECDの上席研究員がパリからの同時中継で参加しました。教育活動と学校経営について発表し,そのあとでパネルディスカッション。
 発表のはじめに,東日本大震災の被災地に向けた支援に対するお礼を言いました。最初から言おうと思っていたのではありませんでした。ただ,欧米のゲストと会って握手をしたときに,「元気を出してほしい。日本に期待している」と言われたことが強く印象に残っていました。緊張していたのに,自分でも思いがけないくらい自然に言葉が出ました。すると,会場の人たちから大きな拍手が起こりました。驚きました。これをどんなふうにして被災された方に届ければよいのかと戸惑うほどでした。
 ソウルの人たちに,とてもよくしてもらいました。日本が好きだと微笑むKEDI院長。23日の朝から夕食会まで一緒だった2人の同時通訳。3日間随行して日程管理をしてくれたKEDIの研究員。休日なのに,金浦空港近くの学校を案内して韓国の高校事情を説明してくれた温和な校長。お昼においしい韓国料理をご馳走になりました。
 行かなければわからないことがある,話さなければわからないことがある,という素朴な感動を覚えました。
 そんなふうに感じることができたのは,行くにあたってさまざまに力を貸してくれた英語の教員や世界史の教員のおかげです。副校長や教頭も,「留守は大丈夫ですから楽しんできてください」と送り出してくれました。数多くの教職員から「気をつけて行ってらっしゃい」と声をかけてもらいました。いろいろな人に支えられているということを改めて実感した韓国行きです。

 明日28日に探究基礎の全体会があります。半年間やってきた第1ステージHOPのまとめの会です。昨日のこと。「探究基礎委員が話したいと言っていますが,いいでしょうか」。担当している1年生の副主任がにこやかに言います。4人の1年生がやって来ました。
 「全体会で話していただきたいのですが」
 「どんなことを話しましょうか」
 「ええっと,モチベーションを上げてもらえるような」
 「ほう。だいたい何分くらいですか」
 顔を見合わせて相談が始まりました。
 「11時20分に終わる予定なので」
 「でも時間が押したら」
 「11時30分には終了しないと」
 「そしたら5分くらいか」
 「5分くらいです」
 あれあれ。5分でモチベーションの上がる話。そういうことができれば,本が書けそうです。生徒は屈託なく難問を出してくれます。それはそれとして,1年生の講演会に来ていただいた鷲田清一先生の言葉,先輩たちの話,震災のこと,聞いてきたばっかりの韓国の高校生のことを4人に話しました。
 「こんな話をしたら30分くらいはかかるね」

 学校を出たら門の前で3年生と一緒になりました。台風が来なければ21日の放課後に話すことになっていた数人の生徒たちの一人です。
 「今回は流れたから,また日程調整してね」
 「はい」
 「体育祭はすみませんでした。どうでしたか」
 「とってもよかったです。優勝したんですよ」
 「そうか,君,5組か」
 「はい。球技大会も文化祭も賞をとれなかったので,最後に優勝できて」
 「それはよかった」
 「先生,質問があるんですが」
 「どうぞ」
 「韓国へは,どういう用事で行かはったんですか」
 「実はね……」
 説明しながら堀川通りを歩いて四条堀川で別れるとき,
 「3年生のアセンブリに話しに来てくれはるのはいつですか」
 卒業式までにもう一度君たちに話したいと言ったのを覚えてくれていました。
 ありがとう。たそがれ時に聞く君の言葉が心にしみます。

 「月」で,高石ともやさんが紹介された江幡玲子さんのことを書きました。江幡さんはおっしゃったそうです。
 「待っていてくれる人がいるから,人は希望を持って生きられるのよ」
                      22号(2011.09.27)……荒瀬克己

感嘆符 あらら

 さきほど,9月15日に掲載した「月」の最後にある署名の位置を訂正しました。その際に掲載順序を変えないよう,「アップの時間を変更しない」チェックをするべきところ,やり忘れて更新してしまいました。
 その結果,9月15日の記事が20日と21日の記事よりも新しい記事として掲載されました。
 順序を正しくするためには,記事を差し戻してアップし直すしかないとのことで,そのようにしましたが,その結果15日の記事も20日の記事も,21日にアップしたことになってしましました。
 変な感じになって申し訳ありません。
                               ……荒瀬克己

SWIM−2−

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○上の写真は群読の本番。下は奮闘する調整室の様子


(昨日のSWIM−1−の続きです)

 本番が近づいていました。どうするかと考えあぐねて,生徒の練習場所となっている小ホールに行きました。生徒たちは細かな調整をしていました。やりとりをしばらく聞いていて,そして決めました。
 こうしてここまで来た生徒たちだからこそ,変更の意味を理解できるだろう。たとえ誰かが本番でしくじったとしても納得してくれるだろう。また,来てくださった方にも,この子たちの思いは十分に伝わるはずだ。いまは,しないで後悔するよりも。万が一失敗したとしても,こうしたいと思うことをこの12人と2年生のリーダーたちにぶつけてみよう。しかし,それは単なる自己満足ではないのか。もう一度自問自答しました。自分の思いを確かめて,私としてはすっきりした気持ちで生徒たちに賭けることにしました。

 趣旨を説明した後,何度も変更箇所の読み合わせ。一人の生徒の一音の調子を繰り返します。思うような声が出るまで,表現の流れができるまでやり続けます。
 ずっとまっすぐに立って声を出し続けるのは体力を消耗します。考えてみたら,説明会の群読にこれほど生徒が努力する必要があるのかというと,確かに不必要かも知れません。「ムダ」と言えばムダ。しかし,必要な「ムダ」もまたある,と考えるのが学校です。
 昨年,朝日新聞の天声人語にジャン・ギットンという人の言葉が引用されていました。「直線は2点を結ぶ最短距離だが,学校は1点から1点への最長距離を教えるところだ」。この言葉は説明会の挨拶でも紹介しました。不必要に見える回り道で,本当に必要な力を身につける。堀川もそういう学校でありたい。生徒諸君,だからやってみよう。

 本番。舞台袖ではなく,調整室に上がって正面から彼らを観ることにしました。小さな照明だけがともる暗い調整室には,担当者以外にも多くの生徒や教員がいました。
 音響と照明への注文もいろいろと出しました。いま操作卓の前で緊張する音響係や照明係の持っているシナリオには,書き込みがいっぱい入っているはずです。
 舞台のスクリーンでは順にスタッフの名前が紹介され,終わると最後のアナウンス。緞帳が下り,スクリーンが上がり,客席の照明が暗くなる中で音楽が高まり,再び緞帳が上がっていく。三分の一ぐらいまで上がったときから,一斉に重なって客席に飛び出す声の勢い。バックのホリゾント幕に薄い青緑の光。浮かぶ12人の影絵。
 静かに,そして激しく,また穏やかに響く言葉。最後に,高々とまっすぐに伸ばした指のさす先を見上げるまなざし。まばゆい光に包まれて輝く12人。

 F先生は今年70歳。哲人の風貌です。以前,師匠と呼んでもいいですかと尋ねたら,「あほか」とおっしゃいました。「では勝手に呼ばせていただきます」と言って,それ以来F先生は私の師匠です。「言葉の海を泳ぐ」,「記号の海を泳ぐ」,「魂の海を泳ぐ」という言葉は,許しを得て師匠から頂戴しました。
 そこから着想した群読の台本が「SWIM」です。

…………………
  今まで生きてきた時間のすべてを自らの力にして,
  呼吸を整え,さあ出発だ。
  たくましさを知り,しなやかさを学び,
  静かに心を見つめ,
  あるいはゆるやかに,あるいは激しく,
  眼前にたゆたう海に,
  言葉の海に,記号の海に,たましいの海に,
  海に向かう。

  言葉の海を泳ぐ
  記号の海を泳ぐ
  たましいの海を泳ぐ
  はるかな陸地をめざして
  あこがれの陸地をめざして
  すべての力を尽くし
  かつて父がそうだった
  かつて母がそうだった
  静かに呼吸を整え
  懸命に腕を伸ばし
  高らかに波を蹴り
  ひたすら夢に向かって
  泳ぎつづける

  ずいぶん時間が経った。
  なつかしい日々が浮かんでくる。
  いまどの辺りにいるのだろうか。
  孤独が水よりも冷たい。
  淋しさが波よりも暗い。
  疲れが鉛の雲よりも重い。
  陸地なんて見えないじゃないか。
  いったいいまどこにいるんだ。
  戻りたい,あの頃に帰りたい。
  苦しくてしかたがない。
  もう手が動かないのに,もう脚が伸びないのに,
  どうして誰も助けてくれないんだ。

  いまの声は何だ。
  そこにいるのは誰だ。
  君は……。
  君も泳いでいたのか。
  この暗い海の中で自分だけしかいないと思っていた。
  ひとりだけが苦しいと思っていた。
  君もいたのか。泳いでいたのか。この暗い海の中を。
  みんなそれぞれにもがいていたんだ。
  疲れたら休めばいい。
  力を抜いて漂えばいい。
  空にちりばめられた星を仰いで,
  ゆるやかにたなびく雲を眺めて,
  そう。そして,また泳ぎ始める。
  腕と脚を伸ばし,泳ぎ始める。

  光に向かって,夢に向かって,行くよ。
  この光る海を,泳いでいくよ。

  言葉の海を泳ぐ
  記号の海を泳ぐ
  たましいの海を泳ぐ
  はるかな陸地をめざして
  あこがれの陸地をめざして
  すべての力を尽くし
  かつて父がそうだった
  かつて母がそうだった
  静かに呼吸を整え
  懸命に腕を伸ばし
  高らかに波を蹴り
  ひたすら夢に向かって
  泳ぐ
  泳ぐ
  泳ぐ
…………………

 「陸地なんて見えないじゃないか」の最後の「か」もまた,本番直前の練習で何度も繰り返しました。「もっと吐き捨てるように,叩き切るように」。「か」,「か」,「か」,「か」,「か」,「か」……。
 本番前,最後の練習を終えた小ホールで,休憩していた生徒たちが面白いことをやり始めました。円陣を組んで右手を中央で低く重ね合わせ,「泳ぐ」,「泳ぐ」としだいに声を大きく,手を高く伸ばしていって,最後の「泳ぐ」で決める。試合前の気合。「そうや,これ伝統にしよ」。「来年もやってね」。はじけるような笑い声。
 「先生も一緒に」
 「ありがとう。でも,君たちだけでやるほうがいいよ」
 明るい声で「泳ぐ」が繰り返されていました。負荷を乗り越えようとする生徒たちのまぶしさ。

 説明会のアンケートには,さまざまに動いていた生徒たちをほめてくださる内容がどっさり。本当にありがとうございます。
 生徒諸君,ホメ言葉ヲ正シイ自信ニシテ,厳シイ言葉ヲ本物ノ勇気ニシテ,明日ニ向カッテイクンデスヨ。
 早く入ったのに座席が奥の後ろになって聞きづらかった,というご指摘がありました。ご事情も丁寧にお書きでした。本当に申し訳ありませんでした。ご趣旨は必ず今後に活かします。
 このページのことを書いてくださった方もいらっしゃいました。過分のお言葉に感謝します。ただ,私は「イイトコドリ」をしているだけです。見えないところで悩み考え,ためらいつつ次の一歩を出そうとする生徒たちと,やはり見えないところで彼らを支えて寡黙に仕事をする,まさに本物の現場で堀川をつくっている教職員たちに,いただいた評価をそのまま贈ります。

 さて,グラウンドの状態が悪く,明日に予定していた体育祭は23日に延期となりました。生徒会執行部と3年生には伝えてありますが,ソウルでシンポジウムがあるため,残念ながら私は出席できません。
 秋の澄みわたった空の下で,生徒たちの清新躍動を期待しています。
                      21号(2011.09.21)……荒瀬克己

SWIM-1-

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○左の写真は舞台係の活躍。右は群読のリハーサルでの打ち合わせ


 探究科説明会のことも思い出しながら,先日の普通科説明会のことを書いていたら,文字数の単純合計が400字詰め原稿用紙で14枚分になりました。前半と後半に分け,今日と明日に載せることにします。説明会に向けて生徒がどう取り組んだか。一部ではありますが,教員とともに私も担当したオープニングの群読<SWIM>を通して見ることのできた生徒の姿を紹介したいと思います。
………………………………………………………………………………………………………

 「校長室から」が20号になりました。折しも今日は20日。明日21日には21号を出します。こういう偶然は,なんとなくうれしくなります。
 堀川の新校舎が完成して,シックな制服の生徒たちを迎えたのが平成11年4月。1999年でした。「平成11(1999)年」と書くと,111999。うれしい重なりでした。
 うれしいことをもう少し。陸上部が近畿大会で,出場した4人全員の入賞を果たしました。科学の甲子園京都府予選に出たチームが1位となり,来年3月の全国大会に挑戦します。
 逆に残念だったのは,秋季大会1次戦で1敗した後,敗者復活戦で3連勝していた野球部が,昨日4対5で敗れたこと。「1点差を追う最終回,1アウト満塁と攻めましたが,強烈なセカンドライナーでダブルプレー。幕が閉じました」と監督からの連絡。本当に残念です。選手や監督やコーチは,支えてくださっている保護者の方は,私などの思いを超えて無念でしょう。しかし,本当に強いチームになってきています。この悔しさをエネルギーに転換して,次に向かってほしいと願っています。

 9月17日,前線と台風の影響で蒸し暑い土曜日の午後,普通科説明会を開催しました。降水確率は高かったのに,開会した午後2時までは雨が降りません。挨拶で,お帰りの際に降らないことを願うと言ったのがよくなかったのか,終了時には土砂降りになってしまいました。参加してくださった中学生や保護者の方はお困りになったと思います。申し訳ありません。
 8月30日に探究科説明会のことを書いた際,「普通の子」について触れましたが,今回も「普通の子」が,見えるところでも,見えないところでも活躍しました。

 オープニングの群読で言えば,7月12日の昼休みに2年生のリーダーたちが集まって打ち合わせをし,15日には全パートの2年生と1年生が集まるスタッフ会議の後半で,各パートに分かれてのミーティング。12人の演じ手と音響係・照明係に台本が渡され,配役の決定と流れの確認。夏休みをはさんで文化祭後に本格的な準備にかかり,前日の夜はもちろん,当日の午前中のみならず開演直前まで練習を続け,そして臨んだ本番でした。
 毎年そうですが,最初は声が小さく,言葉に込める気持ちも弱く,間の取り方も抑揚もさっぱりで,立ち姿や視線や表情にも力のこもらない,なんともしょぼしょぼとしたありさまです。それが,昨年経験した2年生の指導で,少しずつではあっても確かに変化していきます。今年も毎日放課後に練習が行われ,徐々に形ができあがり,当初とは見違えるようになりました。
 ただし,それはある種の高原状態。一定程度できあがっているのでスランプではありませんが,まだ何かが足りない状態。このとき生徒は,自分ができることは全部やっているような気持ちになっています。確かに一つの形はできています。だから,その状態を保てばよいと思うのは当然です。興味深いことに,この段階でさらに練習を繰り返すと,今まで覚えていたセリフを忘れたり,順番を間違ったり,声の張りが鈍ったりするようになります。そして,今度は元に戻す作業が始まります。練習を重ねていくうちに一度到達していたレベルに回復し,そのことによって完成したような安心感が生まれます。しかし,それは再び形が整ったというものでしかありません。まだ「抜けてはいない」状態です。

 前日午後からのリハーサルで,これまで繰り返していた音響・照明との調整も一応できるようになりました。観ていた生徒や教員からの評価もまずまずでしたが,まだ仕上がったとは言えません。ここまで来ると,指導している2年生や演じている1年生の問題ではなく,毎年演出している監督の責任が問われます。
 ある程度できあがった段階にいる生徒は,それを維持しようとして,できるようになったことを間違えずにやろうと考えます。順番を気にして,複数で声を出すところは他の生徒の出方を考えて,そのために自然な自分の表現ができないでいます。
 おかしな言い方かもしれませんが,考えているようではよいものになりません。失敗のないようにという守りの演技だからです。それではたとえきれいにできたとしても,心が人に届きません。
 失敗したっていい。届けようとする心を精いっぱい表現すればいい。最初の段階でこう思ったら上達することは困難ですが,ある程度できあがった段階では,こう思わなければさらなる高みはめざせません。ただし,本当に失敗するかも知れませんから,そこを突き抜けるような力が必要になります。その力を演じる生徒が出せるか。つまり,そうしたいと生徒が思うようになるか。それを演出者が引き出せるか,生徒の心に火をつけることができるか。どうするか。このままでもよいという思いと,まだよくなるはずだという思いが交錯します。

 そんな思いが強くなるのは年によって異なりますが,今回は本番当日の12時25分に最後の舞台リハーサルが終わったときでした。説明会は2時からですから,1時50分に舞台袖で出番を待つことになる生徒たちは,それまでの時間を昼食と休憩と最後の調整に使うことになっています。
 実は前日にも演出を変えていました。舞台に立つ12人の頭に中には,「最後」の指示で訂正された間とか抑揚とか声の大きさとかが染み込んでいるはずです。それをいまからまた変える。できるのか。
 普通に考えれば,当日の,しかも本番直前に演出を変えるのは無謀であるに違いありません。しかし,そうしてみたいと思うレベルにまで,2年生が指導し1年生が応えてきていました。そもそも,出演する予定だった3人の野球部員が,試合が雨で延期になって説明会と重なったため急きょ代役を立てて今日を迎えたのです。予定外のことが起こる中で,2年生と1年生が一緒になってここまでつくってきた群読でした。
 本当にどうするか。試行錯誤の行き着く先がわからないまま,次のリハーサルが始まった舞台を見ていました。

(明日の「SWIM−2−」に続きます)
                      20号(2011.09.20)……荒瀬克己

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 今日は木曜日ですので,「週刊火曜日」としては2日遅れのお届けとなります。いずれ紹介しますが,少々多忙にしていました。13日に予定どおりに出していたなら別の記事をご覧いただくはずでしたが,それは少し寝かせておくことにします。

 1年生普通科の探究の課題で壁新聞をつくっているそうです。そうです,というのはいかにも頼りない話で恐縮ですが,生徒から聞いて知りました。昨日,その取材を受けました。事前にもらった伸びやかな手書きの依頼状には,「夏休みはどこに行ったか」,「印象に残っていることは」,また,「なぜ教師になったのか」,「生きがいや誇りは」,「いちばん大切にしている言葉は」という質問事項が並んでいました。
 「どうぞよろしくお願いします」
 「こちらこそ」
 「ではまず,夏休みにどこへ行かれましたか?」
 8月11日から15日までの土日を含めた5日間,学校には行きませんでした。その間に行ったところと言えば,比叡山延暦寺。夕暮れ時の根本中堂には光の群れ。お堂に座って読経を聴きました。
 「そうそう,16日に近所のビルの屋上で大文字を見ました。鳥居以外は全部見えるんですよ。左大文字は相当角度がありますが。今年の送り火についてはいろいろと動きがあったでしょう。火が点くのを待つ間,少し緊張しました。ヘリコプターが高く遠く飛んでいて,そっちを見たら,大文字山と比叡山の間に薄暗い光があるのに気がついた。月かな,それにしても暗いなと思っていると,大の字の中心に火が上がって,しかしなかなか広がらなくて,いつもより文字の浮かび上がるのが遅いように感じて,ふっと視線を左に移したら,さっきの薄暗い光はやはり月でした。あまり時間は経っていないのに意外に昇っていて,黒い山並の上のぽっかりと開けた夜の空の闇に,漂うようにあります。それが,とても暗くて赤い月」
 生徒はこちらをじっと見たままで,右手のペンだけがノートの上を走っています。
 「それで17日なんやけど,名古屋・京都・大阪・神戸・堺,この五都市の高校の生徒指導の研究会が京都であって,私,そこに行ったんですね。記念講演があって,講師は高石ともや。知ってる?」
 知りませんでした。高校1年生ですから無理もありません。当時のフォークソングの隆盛について説明し,北山修や加藤和彦について話し,「あの素晴らしい愛をもう一度」をくちずさんだら,「あ,その歌,知っています」。
 当日のメモを取り出し,高石さんの話されたことを少し紹介しました。

 講師紹介が私の役目でした。「受験生ブルース」も「思い出の赤いヤッケ」も,とても懐かしいというような紹介をして座ったら,開口一番「下のお名前は何とおっしゃいますか?」と高石さん。
 「かつみ,です。己に克つ,と書きます」
 「どなたがお付けになりましたか?」
 「父だと聞いています」
 生まれた時は単に哺乳類だが,名前が付けられたときに人間になる。こんな人になってほしいという願いや愛情によって人間になる。下の名前は,だから大切。誰かに愛されないと人間にならない。少年審判のときに,初めてフルネームで名前を呼ばれた少年がいたということをエバタ先生がおっしゃった。それまでは,オイとかソコノとかオマエとしか呼ばれていなかった。鳥取県皆生であった日本初のトライアスロン大会で優勝したときに,みんないろいろと言ってくれたが,エバタレイコさんは「ただ元気だけなら,ただの生き物よ」と言って,「私の車椅子のプロになりなさい。他の事を考えていたら私は仕事にならないから,あなたが私の車椅子を押しなさい」。「いろんなことを犠牲にして私のところに来ると,あなたにはいいことがある」。それで,40歳から車椅子押しのプロになった。エバタさんの言葉をいくつも聞きました。「節目に友あり。曲がり角に師あり」。「待っていてくれる人がいるから,人は希望を持って生きられるのよ」……。
 エバタさんとは江幡玲子さん。1962年から20年間,警視庁心理鑑別技師。1982年に思春期問題研究所を設立。数々の相談や指導にあたり,執筆もされ,多くの人に慕われた人生を2004年に閉じる。
 3月の震災前に,高石さんは奥さんを亡くされ,そのあと何もする気にならず,じっとしておられたそうです。生徒指導研究会でお会いしたのは8月17日。
 「昨日が送り火だったので,私にとっては,今日からまた出発です」
 あっという間の90分でした。昼食をご一緒しました。
 「昨日,暗い,赤い月が出ていたのをご覧になりましたか?」
 「ああ,そうでしたね。見ました」

 思いを込めて名付けられた人たちが,あまりにも多く亡くなったこの半年。
 文化祭でも震災の被災地支援の募金活動をしていた生徒会執行部員が朝玄関に立って,今度は台風12号の被害を受けた奈良県や和歌山県に送る募金を集めています。

 五山の送り火も,赤い月も,見る人の目にどのように映ったことか。
 「私,月には気づきませんでした」
 生徒は残念そうに言いました。
 「君の名前はどなたがお付けになったの?」
 「おとうさん,あ,父です」

 9月11日,日曜日の夜の府立植物園で月の観賞会がありました。自然科学部の生徒がお手伝いしました。今年の中秋の名月は12日でした。1日前の月は,小望月(こもちづき)。幾望(きぼう)とも呼ばれます。
                          2011.09.15……荒瀬克己

ありがとうございました

 文化祭二日目,たくさんの方に来ていただきました。
 現役生の保護者はもとより,卒業生も,卒業生の保護者のみなさんも。
 今春卒業した新生10期生が,卒業記念としてアトリウムにスピーカーを寄贈してくれました。今回の文化祭がそのお披露目。東ブリッジの下にかかるバック幕は,5期生からの贈り物です。舞台としての整備が進み,特に音響が格段によくなったアトリウム。
 そのアトリウムで3年生がパフォーマンスに燃えました。苦労した筋立て。凝った衣装や道具。入れ替わり立ち替わりの演技。最後はどのクラスも全員でダンス。狭い会場をいっぱいに使って踊る姿は若々しいエネルギーの爆発です。光る汗とまぶしい動き。そして迎えるフィナーレのはじけるような笑顔。来ていた卒業生の一人がつぶやきました。「ここまでくるのが大変やったなあ」。
 順風満帆という言葉とは程遠い2か月。さまざまなぶつかりや意気消沈や苦しさを乗り越えて本番を迎え,夢中で演じきる30分。その最後の場面で,生徒たちはどんな思いになるのでしょうか。
 他の日程はすべて終了して,3時30分から吹奏楽部のコンサート。60名の部員の演奏は圧巻です。アトリウムを囲む各階のブリッジや廊下も鈴なりの人だかり。演奏に合わせて始まるスウィング。引退する3年生一人ひとりの紹介が始まると,あちらこちらから声援。それに手を振って応える部員。
 もらったプログラムに3年生部員の言葉が書いてありました。
 「負けたら終わりでなく,やめたら終わり」
 「過去と他人は変えられない。未来と自分は変えられる」
 「できないことはない。やらないだけである」
 「一に努力,二に努力。不幸も何かの役に立つ!」
 ウォルト・ディズニーの言葉やヘレン・ケラーの言葉もありました。みんな思い思いの言葉を連ねています。
 「行きあたりばっちり」というのもありました。
 言葉で支える,やわらかいこころ。

 閉会式。生徒会長と文化部長のあいさつ。講評と各賞の発表。歓声が上がります。拍手が沸き起こります。そして恒例の「ありがとう」。
…………………
 昨日の開会式で,台風は去ったけど空は晴れないと言ってたが,さっきはまぶしい日が射した。賞をとったクラスも残念だったクラスもあるが,文化祭はいよいよクライマックスだ。
 13期生いいか。12期生いいか。そして,11期生いいか。
 いっぱい「ありがとう」を言いたい。堀川文化祭「ありがとう2011」。今年も心をこめてよろしく。
 まず,今年は台風の影響で順延になりました。それだけでなくいろんな山あり谷あり。その中でさまざまに奮闘して開催にこぎつけてくれた生徒会執行部の諸君,本当に(とマイクを高々と上げると,アトリウムを震わせて)
 「ありがとう」

 いまも後片付けをしてくれている人がいる。野球部は長椅子を,陸上部はテントを用意してくれた。野球部は来週の秋季大会がんばってほしい。陸上部は近畿大会に4人出る。がんばってほしい。君たちの知らないところで文化祭を支えてくれたすべての人たちに
 「ありがとう」

 とりわけ,生徒部の先生たち
 「ありがとう」

 担任の先生や食堂のみなさんといった教職員編が続いて,次に。

 君たちの取り組みを黙って見守る教室,講堂,アリーナ,廊下,階段,トイレ,5期生が卒業記念品でくれたバックカーテン,10期生のスピーカー,このアトリウムに
 「ありがとう」

 BIG BOXに
 「ありがとう」

 「わいわいサロン」で文化祭を盛り上げてくださったPTAのお母さん,お父さん
 「ありがとう」

 なかなか声に出して言えないけど,家族に。いろいろ言いたいだろうけど見守ってくれて,昨日来てくれて,今日も来てくれて,おかあさん,おとうさん,家族のみんな
 「ありがとう」

 他校の友だちも来てくれた。近所の方も。君たちに知ってほしい。卒業生の保護者の方が,月曜日に堀川へ行こうというメールを回してくださった。そんなふうに堀川を支えてくださるすべての方へ
 「ありがとう」

 先輩
 「ありがとう」

 出演したすべての諸君に,舞台裏で汗だくで頑張ったすべての諸君に,クラスのみんなに。言い争いもしたけど,ハプニングもあったけど,つらいこともあったけど,優しくしてくれて,厳しく言ってくれて,一緒にいてくれて
 「ありがとう」

 13期生に,「ありがとう」。12期生に,「ありがとう」。続いて11期生に,と言ったときにハプニングが起きました。3年生たちが,学年主任の名を呼び出したのです。そして拍手。何度か呼ばれておずおずとアトリウム中央に登場した学年主任に,声を揃えて,
 「ありがとう」
 クラッカーが鳴りました。きらきら光りながら舞う七色のリボン。
 学年主任が3年生たちのいる1階を見つめ,2階を見上げ,
 「ありがとう」

 さあ続けよう。いま隣にいる友だちに
 いまここにいる自分に
 今日という日に
 明日が来ることに
 ありがとう
 仲間たちに
 ありがとう
 ありがとう
…………………

 生徒たちは最後に,いきものがかりの「ありがとう」を大合唱しました。1回で終わることなく2回歌いました。そのあと,We are the Horikawas! 私たちは堀川の仲間だ,という意味です。
 文化祭が終わりました。アトリウムで肩を組んで歌っていた3年生たちが,床に散らばるクラッカーのリボンを拾い集めていました。

 見えるものは,すべて見えないところで準備されている。また生徒たちから教わりました。
                          2011.09.06……荒瀬克己


写真左:9月6日,BIG BOXは青い空を背負って夏の終わりの夕日を受けていました。
写真中:文化祭が終わって日常に戻ったアトリウム。
写真右:アトリウムでフーコーの振り子だけが動いていました。


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感嘆符 明日の月曜日に堀川へぜひ

 暴風警報が解除になって,1日ずらした形で文化祭が始まりました。
 文化部長が開会式のあいさつで,「文化祭ができただけでもよかった」。台風の被害と東日本大震災のことを思ったのでしょう。生徒会は,文化祭期間中も被災地への義捐金を受け付けています。
 卒業生たちが大勢帰ってきてくれています。
 「就職が決まりました」
 「おめでとう。しっかりと働いてください」
 「○○は大学院に行きますよ。今日は来られないんですが。来週会います」
 「そう。よろしく言っておいて」
 「先生,HP読んでいますよ」
 「ありがとう」
 「ぼくら,明日も来ますよ」
 「閉会式の<ありがとう>までいますよ」
 すぐには言葉が出ませんでした。
 卒業生の保護者の方たちが,「月曜日に堀川へ行こう」というメールを回してくださっているという話も聞きました。
 心から感謝します。
 11期生最後の文化祭。本人たちが言うように3年生だけの文化祭ではありませんが,一生に二度とない高校最後の舞台をぜひご覧いただければ,と思います。
                           2011.09.04……荒瀬克己

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行事予定
3/31 PSTなし
4/5 新1年登校日(クラス発表・制服頒布・学習状況テスト等)
京都市立堀川高等学校
〒604-8254
京都市中京区東堀川通錦小路上ル四坊堀川町622-2
TEL:075-211-5351
FAX:075-211-8975
E-mail: horikawa@edu.city.kyoto.jp