最新更新日:2024/04/23 | |
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終業式にて
7日の終業式の様子を紹介しました。その日は前期末考査最終日で,考査を終えた生徒がアリーナに集合。9月までに優秀な成績を上げたクラブや個人を表彰した後に,全校生徒に向かって話をしました。
堀川の体育系部活動の初期の歴史を刻んでいただいた2人の女性(人見絹枝さん,松崎操さん)と,ご寄贈いただいた文集冊子と色紙を紹介するかたちで生徒に話しました。 以下,話の内容です。 ただ今,各大会において立派な成績を収めてくれた体育系・文科系部活動の個人・チームの表彰を舞台上で行いました。この舞台に立たなかった人も含めて,満足できる結果が得られた人も,悔いが残る結果に終わった人もいるのではないかと思います。結果はどうあれ,そこに至る過程を振り返ることで,今回の結果が次の飛躍につながることを強く願っています。 前期の終業式にあたり,堀川高校に関係がおありの2人の女性についての話しをします。お名前は,それぞれ人見絹枝さん,松崎操さんです。 人見絹枝さんは,1928年のアムステルダム大会陸上競技女子800m競走で銀メダルを獲得された,日本女性初のオリンピックメダリストです。また,松崎操さんはその人見絹枝さんの教え子の方です。 松崎さんは,残念ながら平成19年12月にお亡くなりになりました。その追悼の意味を込めて発刊された文集冊子「詩曼荼羅2」です。(文集冊子を紹介しました)。松崎さんや友人の方が当時を振り返り,書かれた文章が載せられています。松崎さんは俳句がご趣味で,ご自身がつくられた俳句も載せられています。また,この色紙は,人見絹枝さんから松崎さんに渡された,直筆の歌が書かれた色紙です。(色紙を紹介しました)。 時は,堀川高校の前身の京都市立第一高等女学校が京都市立堀川高等女学校に変わる1925年,今から88年前のことです。人見絹枝さんは当時18歳,4月に第一高等女学校(その後堀川高等女学校)に赴任された新任体育教師でした。そして,松崎さんは人見絹枝さんにあこがれて陸上競技を始められ,人見絹枝さんから直接指導を受けられました。 当時はまだ,女性が人前で肌を見せたりすることはタブーとされ,女性スポーツが認知されているとは言えない時代でした。しかし,大正デモクラシーの流れに乗って,開拓者の精神に富んだ第一高等女学校では,ちょうど人見絹枝さんの赴任と歩調を合わせるように,陸上競技やバスケットボールなどの体育クラブが誕生しました。ここが堀川の体育系部活動の原点と言えると思います。 当時を記す資料には,人見絹枝さんが,草ぼうぼうの運動場の隅を掘り起こし,ピットをつくり,バレーボールやバスケットボールの指導を終えた後に,一人残って練習をしていた。また,陸上部に入った松崎さんが,短パンで指導する姿の人見絹枝さんと仲良く走っておられたとの記述があります。 人見絹枝さんは,当時は学校の教師はプロと見なされ,競技会の出場が制限されるという決まりがあり,惜しまれながら4ヶ月で堀川を去り,母校の体育学校に戻られたと記されています。 松崎さんは,たった4ヶ月の短い期間でしたが,一生懸命練習に取り組むことを教えていただいた,人見先生の教えをもとに卒業まで堀川高等女学校で勉学やスポーツに励むことができたと話されています。 その後,人見絹枝さんは,女子のオリンピック参加が初めて認められた1928年のアムステルダム大会で銀メダルを獲得され,日本人女性初のメダリストとなったことは冒頭で紹介しました。陸上のトラック種目での女性メダリストは,それ以降まだ一人も出ていません。 松崎操さんのご子息の方,この方も堀川高校の卒業生ですが,本校にお越しになり,お母様のお話しを伺うことができました。そして,この文集冊子「詩曼荼羅2」と,人見絹枝さんの直筆の歌が書かれ,お母様が大切にされていた色紙をご寄贈いただきました。 ご子息からは,母校の堀川高校の生徒がいろいろなことにチャレンジして,よく頑張っている姿を見て大変嬉しく思うこと,また,人と人との絆を大切にして高校生活を送ってほしいというお言葉をいただきました。 それぞれの時代で,人と人がつながり,新たなことに挑戦することで堀川の歴史が刻まれてきました。皆さんは,これからの堀川の歴史をつくる若者です。その作業は,堀川で学校生活を送る時間はもちろん,その先もずっと続くものと考えます。一人一人がどんな堀川の歴史を刻むのか,そのために何をなすのか,真剣に考えて実践してください。小さなことに対しても挑戦しようとする気持ちを忘れず,仲間や先生方とのつながりを大切にして,一日一日成長してくれることを願っています。 ・・・ 校長 川浪 重治 ・・・ 写真上:文集冊子「詩曼荼羅2」 写真下:人見絹枝さん直筆の歌が書かれた色紙 |
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