京都市立学校・幼稚園
最新更新日:2024/03/19
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「美術を学ぶ」から「美術で学ぶ」学校へ。美工(美術工芸高校)は、生徒たちに未来必要な力を身に付けさせる教育活動を展開しています。

学校百景(6) 洋画専攻の版画プレス機

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 洋画専攻では銅版画実習を2年生の2月におこなっています。銅版画の技法はレンブラントやデューラーに代表されるようにかつて多くの画家が取り組んできた絵画表現技法のひとつです。版画という技法は、まず版をつくります。次にこれをプレスによって紙に写し取り、イメージを具現化していくというものです。このようにいくつかのプロセスを持った間接的な表現技法のため、手描きの作品とはまた別の雰囲気と魅力を持っています。

 銅版画を制作するにはプレス機が必要になります。洋画専攻の備えるプレス機は大きな作品も刷れる大型のプレス機で大変貴重なものです。生徒・教員ともに大切に使用しています。


写真上 プレス機
  中 版画作品集
  下 卒業生の版画作品


学校百景(5) 図書館

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 記念棟1Fにある図書館は、それほど広いスペースではありませんが、落ち着いた空間です。蔵書数は11463冊。美術専門高校なので、蔵書の中で一番多いのは「芸術」の書籍。全体の約43%です。

 入ってすぐ左が新着図書。新着図書も美術高校ならでは、興味深い書籍が並んでいます。中ほどの行くと本校卒業生で漫画家として活躍している小山宙哉さんの「宇宙兄弟」がずらりと並んでいます。奥のほうには大きな美術書、雑誌類があります。
カウンター付近は、図書委員がテーマを決めた特集の書籍が並べてあります。

 そして貸し出し・返却の時には、バーコードリーダーで読み取ってパソコンで処理します。

学校百景(4) 購買「売店」

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 本館1F北階段の下に「購買」があります。本校の購買は、美術専門高校ということで、画材屋さんが入っています。登下校時に画材屋さんがない、あるいは、家の近くに画材屋さんがない場合でも大丈夫。生徒が画材を購入する際に割引してもらえるのでお得です。

 たいへん小さいスペースですが、たくさんの品揃え。開店9:20、閉店15:20、2限終了後から5限終了までの営業時間。閉店の際にはシャッターが下りるので、小さいながら学校の中にある「商店」という感じです。

学校百景(3) 時計

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 学校玄関のロビー正面に大きな置時計があります。趣のある玄関に色合いやデザインがよくなじむこの時計は、「平成10年度卒業生一同」と記載があり、20年前(1998年)に卒業記念品として贈呈していただいたものです。

 もう一つ大きな時計は、本館の外側東壁の中央に設置されています。よく見ると「第1回卒業記念」と書かれています。本校が日吉ケ丘高校美術コースから現校地で独立開校したのが1980年(昭和55年)4月。翌年1981年3月に「銅駝美術工芸高等学校」の第1回卒業式が行われました。その時の卒業記念品ということになります。

 時はいつも同じ刻みを重ねていきますが、これらの時計を見ると、この学校の深い年月や、美術を学んだ多くの卒業生がこの学び舎から巣立っていた重みを感じます。職員室には、気温や湿度も表示される電波時計が吊るされていますが、やはり卒業記念品の時計の存在感には及びません。


写真上 玄関ロビーの時計
  中 本館東外壁の時計
  下 職員室の電波時計

学校百景(2) ブロンズ像 ロダン「青銅時代」

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 学校玄関を入ると右手にロダン作「青銅時代」のブロンズ像があります。このブロンズ像は、もとは「日吉ケ丘高等学校」に設置されていた像です。

 本校は、戦前、「京都市立美術工芸学校」の時代が長くありました。戦後、1948年4月「京都市立美術高等学校」と改称、同年8月京都府は高校三原則(総合制・小学区制・男女共学制)の実施を決定したことにより、普通課程・商業課程・美術課程を併設する「日吉ケ丘高等学校」となりました。こうして戦前の京都市立美術工芸学校は、日吉ケ丘高等学校美術課程へと引き継がれました。そして1953年4月、美術課程は美術工芸課程と改称。この頃には日本画科、西洋画科、彫刻科、陶芸科、服飾科、図案科、漆芸科の7科が設置されていました(染織科は1980年に設置)。実習棟・本館の設計をした堀口捨巳博士は、本館からグラウンドに出る陸橋の傍らに記念のために彫刻作品を設置する構想を持っていましたが、当時、彫刻科を担当していた藤庭賢一教諭の推薦と斡旋によりこの像に決定し、1954年8月このブロンズ像が建立されました。

 1980年、本校が「日吉ヶ丘高等学校美術工芸課程」から独立して、現校地に移転し、美術専門高校「銅駝美術工芸高等学校」が発足した際、このブロンズ像は、本校玄関に移管され、現在に至ります。

 一方、普通科単独高校となった日吉ヶ丘高校では、当時を偲ぶ旧職員や卒業生が「ロダン『青銅時代』を再建する会」を発足させ、創立50周年に向けた事業のひとつとして、銅駝の像を元に制作、1999年もう一度日吉ヶ丘の地に設置されることとなりました。

 「青銅時代」は、1877年、オーギュスト・ロダンの37歳の時の作品で、オーギュスト・ネイトという人物をモデルにした等身大の男性像。緻密でリアルな作品であっため、「実際の人間から型を取ったのではないか」との疑いをかけられ、2年後に人間よりもかなり大き目のサイズの彫刻を新たに作って、疑いを晴らしたと言われています。

 像が制作された時から数えると、もう60年以上、そして現校地で銅駝美術工芸高校として単独開校して以来、40年近く、多くの若者が、この像を見て社会に出ていきました。

学校百景(1) 学校正面 校名板

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 銅駝美術工芸高校の様々な風景をシリーズで紹介していきます。

 今回は「正面玄関 校名板」

 アールデコの建築様式で建てられた学校の本館は、昭和初期に銅駝尋常小学校が増改築されて以来の建物を引き継いでいますので、80年あまりの歴史をもっていることになります。1934年(昭和9年)に発刊された『銅駝尋常小学校沿革史』には、当時の玄関の写真が掲載されています。銅駝尋常小学校は、のち銅駝国民学校に、そして戦後は銅駝中学校として歴史を歩み、柳池中学校(現・京都御池中学校)に統合されました。その跡地に、本校は、日吉ヶ丘高校美術コースから美術専門高校としてこの地へ移転開校しました。京都府画学校として明治に創立して以来100年目の1980年(昭和55年)でした。

 この地が「銅駝」と称されたのは、中国・漢の都である洛陽からシルクロードへ出発する地点に銅製の駱駝の像があり、平安京が中国の条坊制に倣って造営された際、「銅駝坊」と称されたことによるとされています。

 正面玄関の「京都市立銅駝美術工芸高等学校」の校名板は、当時の船橋求己市長の筆によるものです。長年の使用で金箔が剥落してきたので、一昨年、本校漆芸専攻教諭に金箔をおいてもらい美しい輝きを取り戻しました。 


写真上 昭和初期、新築答辞の学校正面(『銅駝尋常小学校沿革史』より)
  中 現在の学校正面
  下 校名板

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行事予定
1/14 成人の日
1/16 健康相談(美術見学旅行・専攻選択)
3年センター説明会(3)(LHR)
1/18 1年専攻仮登録
1/19 センター試験
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