京都市立学校・幼稚園
最新更新日:2024/03/28
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「美術を学ぶ」から「美術で学ぶ」学校へ。美工(美術工芸高校)は、生徒たちに未来必要な力を身に付けさせる教育活動を展開しています。

校長室ウェヴログを更新しました。 8月16日記事

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 いつも本校ホームページをご覧いただきありがとうございます。

 校長室ウェブログの記事を8月16日に更新しました。どうぞご覧ください。

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校長室ウェブログ 8月16日 「8月に想う」

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              8月に想う

 「銅駝美術工芸高等学校第2回所蔵作品展」は、多くの皆様にご来場をいただき、先日終えることができました。今回の所蔵作品展には、本校に寄贈していただいた約600点の作品の中から、明治から平成までの卒業生の作品106点を展示いたしました。

 実は、漆芸分野で作品を展示した、森富義典さん、三木清さん、大崎誠吾さんには共通点があります。それは、本校の前身「京都市立美術工芸学校」を卒業後、若手の作家として将来の夢をもちながら、太平洋戦争中に亡くなられたということです。「戦没画学生人名録」(戦没画学生慰霊美術館『無言館』編)によれば、3名とも京都市立美術工芸学校漆工科を卒業。森富義典さんは、師匠のもとで作家として制作を始めていたところ応召(兵士として召集され軍隊に入隊)、1941年26歳で戦死。三木清さんは卒業後、蒔絵師のお父さんのもとで漆芸の実務に携わっていたとき応召、朝鮮へ派遣されましたが、肺結核を発病し帰還後陸軍病院で死去、21歳。大崎誠吾さんは森富さんと同年に漆工科を卒業したあと京都市立絵画専門学校(現在の京都市立芸大)図案科を経て教員として働いていましたが戦争中に死去(詳細は未記載)。戦争のない時代に生まれていたら、その後活躍され、もっともっと作品を残しておられたことでしょう。

 銅駝美術工芸高校に校長として着任した4年前の夏、京都で展覧会があった十数年前からずっと訪問したかった長野県上田市の戦没画学生慰霊美術館「無言館」に行きました。校長室の本棚で見つけた「戦没画学生人名録」という書物に銅駝美術工芸高校の前身京都市立美術工芸学校卒の戦没画学生が77名も掲載されていたことが大きなきっかけでした。戦没画学生の作品が展示された無音の美術館の中は、時間を超え、作者が生きた70年前に引き寄せられるようでした。鹿児島県出身で東京美術学校(現在の東京芸大)を卒業した日高安典さんは、その後入隊し、1945年フィリピンのルソン島で戦死、26歳でした。日高さんは入隊の日、村で自分たち出征兵士の「祝賀会」が開かれている最中、自室に入り「あと5分、あと10分この絵を描かせてくれ」と、絵筆を動かすことをやめなかったそうです。「自分はこの絵を描くために必ず還ってくる」と言い残して出征。戦死の知らせが家族に届いたとき、白木の箱には名前が書かれた紙切れ1枚で、遺骨はなかったそうです。

 今回の所蔵作品展に展示した麻田鷹司さんが京都市立美術工芸学校に入学したのは1941年、太平洋戦争はこの年の12月に始まりました。麻田鷹司さんがその頃書き留めていた日記が出版されて「無言館」にあったので購入しました。麻田さんの当時の日記には、美術の実習、学科の授業のこと以外に、防空訓練、銃剣術の教練、射撃訓練、勤労奉仕、そして兵士として先生や生徒を見送ったことが記されています。戦時下で、じっくり美術を学ぶことがなかなかできなかった時代でした。

 8月は、73年前、広島、長崎の原爆投下、敗戦という出来事があった月です。歴史担当の教員として30年以上学校に勤務してきましたが、美術専門高校に身を置き、無言館のことを知ってから、美術、芸術と平和についてさらに考えるようになりました。ユネスコ憲章の全文に「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。」と記されています。平和を実現するためには、学習と対話、そして協働による実践が必要でしょう。美術、芸術は平和構築に大きな役割を果たすのではないでしょうか。

 2018年8月16日         
                  校長  吉田 功

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校長室ウェブログを更新しました  7月17日記事

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 校長室ウェブログの記事を更新しました。

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校長室ウェブログ 7月17日 「自然の力 人間の力」

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           自然の力  人間の力

 大雨洪水警報発令により臨時休校の措置をとってから1週間が過ぎました。7月初めからの豪雨により西日本各地で大きな被害が出ています。心より亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。そしてまだ安否の確認ができない行方不明者がおられ、懸命に捜索活動が続けられています。住宅が損壊するなどして猛暑の中、避難所での生活を余儀なくされておられる方が16日の報道では約4800名にも上るそうです。お店や事業所の被害により、仕事を再開できない方もおられます。被災された方々に心よりお見舞い申し上げます。

 今回の大雨で、先週、学校東側の鴨川もいつになく水位が上がり、濁流が大きくうねっていました。よく知られているように平安時代後期、権力を誇っていた白河法皇が「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」(・賽=さいころの目 ・山法師=比叡山延暦寺の僧兵)と、嘆いたと平家物語に出てきますが、古くから人間は自然の恵みを得ながら生命、生活を維持し自然に感謝しつつ、時に自然の脅威に直面し、大きな被害を被って、その計り知れない力を恐れてきました。先人の経験が言い伝えられ、自然の力が人間の力を凌ぐほどであることは誰もがよくわかっているつもりですが、近年、地震や津波、台風や豪雨による被害に悲痛な思いをすることが増えました。厳しい経験から教訓を学び、また科学技術の発達により予測、予報の精度が高まり、「防災」「減災」の取り組みが進められています。AI(人工知能)が人間の力を超えるのではということがよく話題になっていますが、AIを「防災」「減災」に役立てるという研究はすでに進められており、この分野における人間の力の及ばない課題をAIにより解決できるのであれば、是非期待したいところです。

 先日の大雨の後、学校グランド横の花壇の草花が倒れていたのを園芸部の生徒が手入れをし元に戻す作業をしていたと、教員が知らせてくれました。連日報道されている西日本各地の被災地の深刻な映像とは、一見隔たりのある画像ですが、私は、本校生徒のその姿に心を揺さぶられ、とてもうれしい気持ちになりました。人間の力の及ばぬ自然の力、しかし、やはり人間の力、心でしかできないことがある。言い方を変えれば、人間の力の及ばぬ分野をAIに頼ったとしても、人間にしかできない、人間だからこそできる行為がある、ということです。この連休3日間で全国各地から現地に入って活動した支援ボランティアは3万人を超えたそうです。命を授かり生かされている人間だからこそ、他の命と向き合い、心を動かし、行動を起こすのでしょう。

 「人間の力」 大雨のあとの生徒の行動で、大切なことをあらためて確認させてもらいました。


 2018年7月17日     
                 校長  吉田 功


校長室ウェブログ更新しました  6月11日記事

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校長室ウェブログ記事を更新しました。

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校長室ウェブログ 6月11日 「対話の基礎体力」

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             「対話の基礎体力」


 前期中間考査が終わって、いよいよ文化祭準備期間が始まります。文化祭に向けた会議や準備はもうすでに始まっていましたが、この時期から、大道具や衣装の製作、音響や照明、台詞を覚えての稽古など本格的な準備の期間となります。 

 本校に着任したとき、この学校は、無からモノを創り出す学校だ、と実感しました。美術専門の授業を見ていて、生徒は、この世になかったモノを自らの感性、思考力、表現力で創造していきます。文化祭の演劇も、毎年、ゼロから創造された作品であり、教育活動としての意義を大きいと考えています。40年ほど前、私は、日吉ヶ丘高校で高校生活を送っていましたが、その時も全クラスの演劇がありました。日吉ヶ丘高校時代から美術コースの生徒の演劇は、普通科のクラスとは違っていました。

 昨年の同じ頃、やはりこのブログで文化祭の演劇のことをとりあげました。準備・制作過程で起こる気持ちや考えの“ぶつかりあい”に、どうか集団に属する者同士が対話と知恵と力で解決して欲しいと書きました。“意見の相違”“ぶつかりあい”を解決するのは、教師の指導でもSNSでもない、何よりも当事者の対話です。入学式の式辞で、劇作家の平田オリザさんの著書『わかりあえないことから』の文章を引用しました。「異なる価値観と出くわしたときに、物怖じせず、卑屈にも尊大にもならず粘り強く共有できる部分を見つけ出していくこと」が大切です。平田氏は次のようにも述べています。「演劇に限らず、音楽、美術など、どのジャンルにおいても海外で成功している芸術家の共通点は、粘り強く相手に説明することをいとわないところのあるように思う」と。平田氏はこれを「対話の基礎体力」と呼び、「対話の技術は大学や大学院でも身につきますから、どうか子どもたちは、この『対話の基礎体力』をつけてあげてください」と、学校の先生に話してきたと述べています。平田氏が言うには、意見が変わることは敗北でも恥ずかしいことでもない、むしろ価値観の異なった人との新しい出会いにより発見がありそのことにより自分の考えが変わることは喜びであると。

 私たち教職員は、できるだけ“意見の相違”“ぶつかりあい”が起こらないように“指導”するというよりも、生徒どうしの対話が成立する環境をつくり、生徒が対話を大事にし、対話をいとわない粘り強さやエネルギーをもてるよう導かなければならないと思います。そして、何よりも私たち教職員どうしが、まず、自らの対話する環境を整え、対話を絶やさない心構えをもたなければならないのでしょう。

 銅駝のクラス劇は、まさしく主体的、対話的、協働的で深い学びの場。生徒たちの成長の機会をしっかり支えていきたいと思います。

2018年6月11日
                    校長  吉田 功

校長室ウェブログ更新しました  5月7日記事

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 校長室ウェブログ記事を更新しました。

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校長室ウェブログ 5月7日 「150年」

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              150年

 ゴールデンウィーク中に、「明治150年」をテーマにした2つの展覧会に行ってきました。

 4月末に行ったのは京都市学校歴史博物館。明治150年・開館20周年記念企画展「京都画壇の明治」が開催中です。この企画展には、銅駝の収蔵庫に保管されている鈴木百年(すずきひゃくねん)の「碧流小亭図」(明治21年・1888年)も出品されています。この企画展には、鈴木百年の他に、幸野楳嶺(こうのばいれい)、望月玉泉(もちづきぎょくせん)、久保田米僊(くぼたべいせん)、今尾景年(いまおけいねん)、巨勢小石(こせしょうせき)など京都府画学校に関わりのある、明治期に活躍した多くの作家の作品が並んでいました。

 5月3日には、国立近代美術館の「明治150年・明治の日本画と工芸」。この展覧会でも、「京都府画学校と同時代の日本画」というテーマで、幸野楳嶺、望月玉泉、久保田米僊、今尾景年、巨勢小石の他、岸竹堂(きしちくどう)、森寛斎(もりかんさい)、竹内栖鳳(たけうちせいほう)の作品が展示されていました。そして前期展示期間には京都府画学校の初代摂理(校長)となった田能村直入(たのむらちょくにゅう)の作品も展示されました。

 今年は明治維新150年。激動の幕末維新のあと、東京遷都となり、欧米文化の流入と近代化政策が進む中、京都で活躍した当時の最前線の日本画家の作品を2つの展覧会で鑑賞しました。明治維新から約10年あまり経った1880年(明治13年)、銅駝の学校史の最初「京都府画学校」が創立されました。それまで、画家になるには師匠に弟子入りし長く修行を積んで師匠の流派の描き方を学ぶという時代が続いてきましたが、「学校」に入学し、特定の先生だけでなく様々な先生から指導を受けるという学び方に転換することは大きな変革でした。『美工沿革史』によれば、学校設立にあたり、田能村直入が学校設立の請願書を京都府知事に提出することを聞いた幸野楳嶺が、望月玉泉、久保田米僊、巨勢小石らと相談し同様に請願書を提出したと書かれています。提出後も幸野楳嶺は他の画家に学校設立を説いたり、京都府へ再三出向いたりしますが、画学校の設立など前代未聞ということでそう簡単には進展せず、病に倒れます。それでも幸野楳嶺は、久保田米僊に、もし自分が命を落とすようなことがあっても、必ず設立して欲しいと熱い思いで頼みます。彼らは京都府画学校が設立された際には副教員として出仕しますが、創立時、幸野楳嶺は36歳、久保田米僊28歳という若さ。150年前の日本画最前線の作家が大きな情熱を注いで、本校の源が創り出されたのです。

 来年は全国に先駆けて京都で番組小学校が設立され150年になります。本校の校地は、かつて銅駝尋常小学校・銅駝中学校のあったところ。その最初は1869年(明治2年)、「上京三十一番組小学校」として設立されました。明治以来150年の歴史は、産業や経済の発展とともに戦争や貧困、災害など厳しい問題にも直面してきました。しかし、子ども、若者の学ぶ場を設け、未来を創る人を育てるという教育の営みは耐えることなく続いてきました。

 150年という時間(とき)の中にある銅駝美術工芸高校。今年度始めの挨拶でも述べたように、本校が美術専門高校としてあること、本校のような美術専門高校があることの重みを、展覧会の作品を鑑賞しながら今一度深く考えたところです。

2018年5月7日
                     校長 吉田 功

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4月9日 校長室ウェブログ記事を更新しました。

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 9日、校長室ウェブログ記事を更新しました。

 入学式式辞
 始業式に

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4月9日  始業式に

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               始業式に
 
 平成30年度、2018年度が始まりました。午前中に入学式があり、90名の新入生を迎えました。すでに3月28日には、本校に新しい先生、職員の方をお迎えしていました。今年度の銅駝の生徒・教職員、すべてのメンバーがそろって新しいスタートです。


 4月3日河原町丸太町の角に新しくできた御所東小学校の開校式に招待され、出席してきました。御所南小学校に通う児童の数が多くなりプレハブを建てるなどをされていましたが、よりよい学習環境をということで地元の方々がずいぶん話し合いをされ、子どもたちのためにという熱い思いで創立された学校です。新しい学校の校章は地元の意見を踏まえて本校の梅林先生が作られました。新しい校歌の作詞は、以前本校に勤務されていた山本純子先生が作られました。そして、御所東小学校へ通う児童の新しい通学路の安全を願って地元の方が、「飛び出し坊や」という注意喚起の看板を銅駝の生徒のイラストで作りたいと依頼があり、生徒の皆さんが作成してくれた作品の中から5つが実際の看板として設置されることとなりました。多くの人の願いや思いで支えられ、御所東小学校の新しい歴史が始まります。

 銅駝は、明治にできた京都府画学校の創立がスタートなので今年で139年、この場所で銅駝美術工芸高校としてスタートしてからは39年の歴史を歩んできました。銅駝が開校する前は銅駝中学校、その前は小学校があり、この校舎グラウンド自体が長い歴史を持っています。学校ホームページのブログの記事にも書きましたが、春休み中に80歳を過ぎたご年配の女性が、遠方からわざわざ銅駝を訪ねて来られました。その方は戦前この場所にあった銅駝尋常小学校の卒業生で、大切に残しておられた入学の時の写真を鞄から取り出し、見せてくださいました。それは今もある本館東側の藤棚の前で撮影されたもの。現在の本館は昭和初期の校舎、現在の藤棚も当時のまま大事に残されてきたことがわかりました。思い出の場所で記念写真をお撮りしましたが、感激してお帰りになりました。ちょうど本館の廊下教室の油引きをしてから2,3日経った日のことでした。油引きすることで、ほこりや汚れを防ぎ、板をしなやかにして、割れや痛みを防ぎます。尋常小学校の頃からこの校舎、床や廊下は、万を超える子ども、教職員が踏みしめてきたんだなあと考えると学校という場所の重みを感じます。

 学校は、生徒と教職員が毎日毎日様々な活動をして様々な思いが積み重なって歴史が創られていきます。そういう意味では、学校は単なる「入れもの」ではなく「生き物」だと思います。生き物と同じように学校にも心臓の「鼓動」や「体温」「息づかい」が必要です。それがあってこそ、生徒が学べて、生活ができて、成長できるのだと思います。入学式で、私は「学校は希望を創るところだ」と言いました。希望は探すものでも、どこからか現れるものでもなく、主体的に創り出すものです。この学校で希望を創り出すためには、この銅駝が「鼓動」「体温」「息づかい」のある学校でなければならないと思います。今、ここにいる生徒の皆さんと教職員がそういう思いで新年度スタートしたいと思います。

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行事予定
8/27 授業再開
生活指導週間(〜8/31)
大掃除

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