京都市立学校・幼稚園
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「美術を学ぶ」から「美術で学ぶ」学校へ。美工(美術工芸高校)は、生徒たちに未来必要な力を身に付けさせる教育活動を展開しています。

校長室ウェブログ 8月16日 「8月に想う」

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              8月に想う

 「銅駝美術工芸高等学校第2回所蔵作品展」は、多くの皆様にご来場をいただき、先日終えることができました。今回の所蔵作品展には、本校に寄贈していただいた約600点の作品の中から、明治から平成までの卒業生の作品106点を展示いたしました。

 実は、漆芸分野で作品を展示した、森富義典さん、三木清さん、大崎誠吾さんには共通点があります。それは、本校の前身「京都市立美術工芸学校」を卒業後、若手の作家として将来の夢をもちながら、太平洋戦争中に亡くなられたということです。「戦没画学生人名録」(戦没画学生慰霊美術館『無言館』編)によれば、3名とも京都市立美術工芸学校漆工科を卒業。森富義典さんは、師匠のもとで作家として制作を始めていたところ応召(兵士として召集され軍隊に入隊)、1941年26歳で戦死。三木清さんは卒業後、蒔絵師のお父さんのもとで漆芸の実務に携わっていたとき応召、朝鮮へ派遣されましたが、肺結核を発病し帰還後陸軍病院で死去、21歳。大崎誠吾さんは森富さんと同年に漆工科を卒業したあと京都市立絵画専門学校(現在の京都市立芸大)図案科を経て教員として働いていましたが戦争中に死去(詳細は未記載)。戦争のない時代に生まれていたら、その後活躍され、もっともっと作品を残しておられたことでしょう。

 銅駝美術工芸高校に校長として着任した4年前の夏、京都で展覧会があった十数年前からずっと訪問したかった長野県上田市の戦没画学生慰霊美術館「無言館」に行きました。校長室の本棚で見つけた「戦没画学生人名録」という書物に銅駝美術工芸高校の前身京都市立美術工芸学校卒の戦没画学生が77名も掲載されていたことが大きなきっかけでした。戦没画学生の作品が展示された無音の美術館の中は、時間を超え、作者が生きた70年前に引き寄せられるようでした。鹿児島県出身で東京美術学校(現在の東京芸大)を卒業した日高安典さんは、その後入隊し、1945年フィリピンのルソン島で戦死、26歳でした。日高さんは入隊の日、村で自分たち出征兵士の「祝賀会」が開かれている最中、自室に入り「あと5分、あと10分この絵を描かせてくれ」と、絵筆を動かすことをやめなかったそうです。「自分はこの絵を描くために必ず還ってくる」と言い残して出征。戦死の知らせが家族に届いたとき、白木の箱には名前が書かれた紙切れ1枚で、遺骨はなかったそうです。

 今回の所蔵作品展に展示した麻田鷹司さんが京都市立美術工芸学校に入学したのは1941年、太平洋戦争はこの年の12月に始まりました。麻田鷹司さんがその頃書き留めていた日記が出版されて「無言館」にあったので購入しました。麻田さんの当時の日記には、美術の実習、学科の授業のこと以外に、防空訓練、銃剣術の教練、射撃訓練、勤労奉仕、そして兵士として先生や生徒を見送ったことが記されています。戦時下で、じっくり美術を学ぶことがなかなかできなかった時代でした。

 8月は、73年前、広島、長崎の原爆投下、敗戦という出来事があった月です。歴史担当の教員として30年以上学校に勤務してきましたが、美術専門高校に身を置き、無言館のことを知ってから、美術、芸術と平和についてさらに考えるようになりました。ユネスコ憲章の全文に「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。」と記されています。平和を実現するためには、学習と対話、そして協働による実践が必要でしょう。美術、芸術は平和構築に大きな役割を果たすのではないでしょうか。

 2018年8月16日         
                  校長  吉田 功

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