京都市立学校・幼稚園
最新更新日:2024/04/01
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洛陽工業高等学校は、平成29年度末をもって閉校し、 創立132年の歴史と伝統を京都工学院高等学校へ引き継ぎます。

洛陽メモリアル 志願者の減少

 昭和40年代の産業構造の変化を背景に普通科志向の高まりと職業学科への減少の結果、洛陽工高も単独制実施当時から増募してきた定員の見直しに着手せざるを得ない状況になりました。
 昭和40年度には、色染・紡織とも1クラス減、定員は70人から40人へと変更されています。昭和41年(1966年)度は、全般的に志願者が激減、電子工業・電気・化学工学の3科が定員割れとなりました。なかでも電子工業科は定員45人に対して志願者は28人という状況でした。そこで初めて2次募集を行い、ほぼ定員数に近い生徒数を確保しました。
 昭和42年(1967年)からは、クラス編成を40人にするとともに、化学工学科を1クラスに戻すなど定員の改訂が行われています。これにより総定員は495人から400人と大幅減となりました。(色染・紡織・工業化学・化学工学・電気通信・電子工業は、それぞれ40人、電気・機械は80人)
 洛陽工高ではこのように定員の改訂を実施したり、各中学校に工業教育の理解を求める諸活動を展開しましたが、その後も年によっては定員割れの科が出現しました。(洛陽工高百年史より引用)

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洛陽メモリアル 工業高校の変貌

 洛陽工高は高度成長下の産業教育振興を目指してスタートしましたが、昭和40年頃から始まる急激な産業構造の変化で早くも転機が訪れました。電子工学の導入が始まり重化学工業の時代からエレクトロニクスの時代へと質的な転換期に突入し、生産技術の側面でもただ技術的なものだけではなく、より高度な技術が求められるようになってきました。
 ハイテクの時代になって企業側の学校教育への要請に変化が現れ、よりハイレベルの技術者を求めるようになってきました。加えて国民生活の向上によって、進学人口が増大し高学歴社会の時代を迎え高校進学時点で普通科志向が強くなり職業学科への志願者が相対的に減少しました。洛陽工高でも昭和40年度から具体的に影響が現れ対応として単独制実施当時から増募してきた定員の見直しが必要となりました。(洛陽工高百年史より引用)

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洛陽メモリアル 全国最多の7時間授業

 昭和38年(1963年)に単独制として新たに発足した洛陽工高ですが、同年新しい教育課程が第一学年から実施されています。決定された教育課程は、週当たり授業時間は38時間、卒業までの総単位数114単位と全国的に見てもハイレベルで京都府下の普通科高校と比較しても12単位も多かったと記されています。
 この結果、土曜を除く毎日の授業時間は7時間が標準で曜日によっては8時間の日もありました。予鈴は8:30で1時限は8:40開始、8時限終了は17:00という時間割でした。この教育課程は昭和38年度から学年進行で実施され昭和40年度に完全実施になりました。(洛陽工高百年史より引用)

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洛陽メモリアル 市立洛陽工業高校の発足

 昭和23年(1948年)に普通・商業・工業の3課程を設置して改称された洛陽高等学校ですが、工業科社会への進展や施設の集中的充実など時代の変化とともに、昭和38年(1963年)4月、単独制工業高校に再編成され、市立洛陽工業高等学校として新しく生まれ変わりました。昭和38年度の募集定員は、色染70名、紡織70名、工業化学45名、化学工学90名、電気90名、電気通信45名、電子工業45名、機械90名となり規模の拡充が図られました。当時の高校生急増問題に対応しながら工業教育の振興を目指そうとしたのです。(洛陽工高百年史より引用)
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洛陽メモリアル 剣道部の躍進

 剣道部は昭和28年4月に創部されました。その後昭和31年8月の全日本大会(会津若松)に団体で初出場、昭和32年は超高校級と言われた選手を中心に府総体に優勝、2年連続で全日本大会(大阪)に出場したと記録されています。そのほかでは昭和35年に個人の部で全日本大会(高知)に出場しています。このように洛陽高校時代の体育部の活躍は多方面にわたっていました。(洛陽工高百年史より引用)
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洛陽メモリアル 軟式庭球部の台頭

 軟式庭球部も昭和23年10月に創部され昭和29年ごろから台頭しました。昭和30年(1955年)には、個人戦で全日本大会(7月仙台)に出場し3回戦まで進出しています。昭和31年(1956年)からは、2年連続で全日本大会(伊勢・秋田)に出場、昭和32年の同大会では、6回戦まで勝ち上がり全日本ベスト16にランクされました。
 昭和34年は、初めて団体、個人ともに全日本大会京都代表となり、個人戦では5回戦、もう一組は2回戦で敗れたものの団体戦では大健闘して決勝まで進みました。結果は広島代表の山陽高校に3-0に敗れましたが、全国大会2位という創部以来の成績を残しました。(洛陽工高百年史より引用)

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洛陽メモリアル フェンシング部の活躍

 昭和30年代前半までのフェンシング部の活躍もめざましいものがあります。フェンシング部は昭和25年(1950年)春に誕生、個人資格で京都クラブに所属していた生徒が中心になって同好会形式で発足しました。その年の秋には早くも第5回名古屋国体において女子個人戦で4位に入賞、昭和26年(1951年)第6回広島国体には男子団体で出場、第2位を占め主力メンバーの大半が2年生だったので翌年の全国制覇に期待がかけられました。
 昭和27年(1952年)の第7回国体は仙台で行われましたが、前半に続いて男子団体に出場、決勝では宿敵の仙台二高を破って全国制覇を達成、あわせて第1回全国高校フェンシング大会にも優勝しました。(洛陽工高百年史より引用)

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洛陽メモリアル ボート部の躍進

 昭和23年(1948年)の創部以来、ボート部はその後も輝かしい躍進を遂げました。昭和29年(1954年)は男女とも強力なクルーとなり、4月の第7回朝日レガッタ(尾花川コース)で男子はついに初優勝、OBの洛陽ボートクラブも優勝しました。
 6月の名古屋レガッタ(中川運河1000メートルコース)では、男女ともに2位に入賞、実力的にも全国レベルに達していました。国体予選の京都大会では、男女とも優勝、OBの洛陽ボートクラブも一般の部で優勝、洛陽のナックル3クルーがそろって北海道国体に出場しました。
 女子ボート部はまもなく廃部となりましたが、男子はその後も活躍、昭和37年(1962年)までたびたび全国大会にも出場しています。(洛陽工高百年史より引用)
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洛陽メモリアル ボート部の創設

 ボート部は昭和23年(1948年)10月、洛陽工高ボート部を主体に創部されています。京都府立医大のボート(フィックス)を使用して練習、昭和24年(1949年)8月の滋賀県民大会招待レースで第一位となり、昭和24年夏からは女子クルーも誕生しています。
 翌昭和25年(1950年)春、朝日レガッタには、男子、女子そろって出場、女子クルーは初優勝、さらに7月の近畿高校選手権大会でも女子クルーは優勝しています。(洛陽工高百年史より引用)

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洛陽メモリアル 昭和30年代のバレーボール部

 昭和23年(1948年)の創部後も躍進が続いたバレーボール部ですが、昭和37年(1962年)は9人制から6人制へ移行する過渡期で、インターハイまでは9人制、秋の国体からは6人制が採用されています。この年、洛陽高は新人戦、春のリーグ戦に優勝したものの、インターハイ予選では紫野に決勝で敗れました。それが6人制への切り替えを促進する幸運な結果になったと当時のメンバーの一人は語っています。
 6人制最初の大会、国体予選では紫野に雪辱、近畿総体でも姫路南についで準優勝(この年の国体優勝校)の成績で、岡山国体に出場しました。
 予選トーナメントでは有力校を連破し、藤沢、姫路南、直方とともに決勝リーグに挑みましたが3敗となり結果は4位に終わりました。しかし、予選2回戦でインターハイ優勝の崇徳をフルセットの末に逆転で下した健闘ぶりは周囲の眼をみはらせました。昭和30年代の洛陽高バレーボール部は全国制覇も夢ではないほどのハイレベルだったと記されています。(洛陽工高百年史より引用)

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行事予定
10/23 中間考査(〜23)
10/24 短縮40分1,2,3,4限授業
10/26 人権学習
京都市立洛陽工業高等学校
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