京都市立学校・幼稚園
最新更新日:2017/11/16
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洛陽メモリアル コンピュータ教育の始まり

 昭和40年代から始まる情報化社会の進展によって各企業のコンピュータ導入が盛んになり、その結果工業・商業など学校教育でのコンピュータ教育が促進されました。京都市教育委員会は昭和46年(1971年)西京商業高校敷地に「京都市コンピュータ教育センター」を設置しました。同センターは、各学校がコンピュータ教育に利用できるよう開設された実習施設でした。
 洛陽工高では昭和47年(1972年)4月から各科とも同センターを利用して本格的にコンピュータ教育を展開、センターにはチャーターした送迎バスを利用していました。(洛陽工高百年史より引用)
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洛陽メモリアル 履修単位の削減

 昭和44年(1969年)当時、洛陽工高は昭和38年から卒業までの履修単位を各科とも114単位としており、各学年の1週間あたりの授業時間数は38時間で普通科高校よりも4時間多いという状況でした。
 昭和39年(1964年)の全国工業高校の平均が105単位でこの比較からも6単位多く、全国でもまれに見る最多授業時間数の学校でした。単位減の問題は昭和39年11月ごろから校内で議論されており、生徒の負担が大きすぎる、生徒、教員とも疲労度が高い、クラブ活動や自主活動ができないなどの問題が挙げられていました。とくに自主活動が停滞することにより、人間形成面が希薄になるという懸念があり議論の結果、見直しがなされました。
 この結果、全国の工業高校の実態を参考にしながら単位数削減がなされ6単位減となり、新教育課程は昭和45年の新入生から学年進行で実施されました。(洛陽工高百年史より引用)

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洛陽メモリアル 電子科の誕生

 昭和44年(1969年)度、それまでの電子工業科と電気通信科を合わせて新しく電子科が発足することになりました。背景にはエレクトロニクス時代を迎え、電子工学の生産技術への応用が急速に発展したことや文部省も昭和38年(1963年)から電子科学教育を重視するようになったことがあります。
 洛陽工高の両科も「電子科」に準ずる学科となり、教育課程・施設・設備の共用などにより科の運営面を通じて連携を密にしてきましたが、より一層の教育効果の向上を目指して両科を併合したものです。教育課程は学習指導要領によって作成され普通教科は電気通信・電子工業科と同じもの、電子科としての専門教科は最小限必要な基礎事項の習得に重点を置くように配慮されていました。(洛陽工高百年史より引用)

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洛陽メモリアル 創立80周年記念式典

 洛陽工高80周年の記念式典は昭和41年(1966年)10月16日、洛陽工高の講堂で開催され、創立80周年を記念して記念誌「80周年のあゆみ」が刊行されました。記念誌はB5版、56頁で80年略史、学校の現状、特集座談会(「現状と将来をめぐる有志座談会」)で構成されています。
 また、式典に先立ち市中仮装パレードが10月13日に開催されました。パレードのメインテーマは「未来に羽ばたく高校生」でパレードには色染・工業化学・化学工学・電気・機械科が参加、それぞれにアイディアを競い、洛陽工高から九条通りに出て東寺に向かい、羅城門−旧千本―東寺西門通り−御前通り−洛陽工高のコースをたどりました。華やかな仮装市中パレードは沿道の市民からも注目され80周年を彩る学校行事として大成功だったと記されています。(洛陽工高百年史より引用)

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洛陽メモリアル 80周年記念

 昭和41年(1966年)は、洛陽工高の前身、京都染工講習所が創設されて80周年でした。創立80周年記念行事が開催されることになり、学校と同窓会組織である京工会は記念式典を中心にさまざまな記念行事を企画しました。秋の洛陽祭も80周年記念行事の一環として組み込まれ、生徒会執行部も夏休み前から準備を始めるという例年にない盛り上がりを見せました。(洛陽工高百年史より引用)
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洛陽メモリアル 体育館の新築・完成

 洛陽工高の体育館は、昭和40年(1965年)8月に新築・完成しました。単独制高校の発足と同時に西京商高、堀川高、洛陽工高の市立3高校について体育館新設が進められました。新築場所としては正門を入った左側のグラウンド端が選ばれました。新築工事は昭和40年2月6日に着工8月25日に竣工しています。内部はバスケットコート2面が取れる広さを持ち、シャワー室が完備されており当時京都市でも有数の体育館でした。特に屋根と南北壁面の形状がユニークで眼を惹きました。
 新体育館の披露は昭和40年(1965年)10月7日に行われ当日は東京オリンピックで金メダルを獲得した日紡貝塚のバレーボールチームが来場、公開練習が行われました。(洛陽工高百年史より引用)

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洛陽メモリアル 校外実地実習始まる

 昭和39年(1964年)から、校外実施実習が始まっています。これは従来の「委託実習」に代わる校外学習制度でした。委託実習は戦後実施されたもので、生徒を一定期間各企業の工場現場に委託して実作業を体験させることを目的としたもので、もともとは学校の実習施設・設備が満足でない終戦直後の状況からやむなく実施されたものでした。
 昭和30年代後半になると、学校の施設・設備も急速に整備されるなかで委託実習のあり方が再検討され校外実地学習と形を変えて、会社・工場を1日見学して作業状態を観察、生徒の学習の参考にすることを目的として新しく制度化されました。
 洛陽工高では昭和39年度から各科別に実施され、生徒たちは見学先の資料プリントによって事前指導を受け、見学先に出向きました。校外実地学習は各科別に見学先を決めて毎年実施され、昭和54年(1979年)まで続きました。(洛陽工高百年史より引用)

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洛陽メモリアル 志願者の減少

 昭和40年代の産業構造の変化を背景に普通科志向の高まりと職業学科への減少の結果、洛陽工高も単独制実施当時から増募してきた定員の見直しに着手せざるを得ない状況になりました。
 昭和40年度には、色染・紡織とも1クラス減、定員は70人から40人へと変更されています。昭和41年(1966年)度は、全般的に志願者が激減、電子工業・電気・化学工学の3科が定員割れとなりました。なかでも電子工業科は定員45人に対して志願者は28人という状況でした。そこで初めて2次募集を行い、ほぼ定員数に近い生徒数を確保しました。
 昭和42年(1967年)からは、クラス編成を40人にするとともに、化学工学科を1クラスに戻すなど定員の改訂が行われています。これにより総定員は495人から400人と大幅減となりました。(色染・紡織・工業化学・化学工学・電気通信・電子工業は、それぞれ40人、電気・機械は80人)
 洛陽工高ではこのように定員の改訂を実施したり、各中学校に工業教育の理解を求める諸活動を展開しましたが、その後も年によっては定員割れの科が出現しました。(洛陽工高百年史より引用)

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洛陽メモリアル 工業高校の変貌

 洛陽工高は高度成長下の産業教育振興を目指してスタートしましたが、昭和40年頃から始まる急激な産業構造の変化で早くも転機が訪れました。電子工学の導入が始まり重化学工業の時代からエレクトロニクスの時代へと質的な転換期に突入し、生産技術の側面でもただ技術的なものだけではなく、より高度な技術が求められるようになってきました。
 ハイテクの時代になって企業側の学校教育への要請に変化が現れ、よりハイレベルの技術者を求めるようになってきました。加えて国民生活の向上によって、進学人口が増大し高学歴社会の時代を迎え高校進学時点で普通科志向が強くなり職業学科への志願者が相対的に減少しました。洛陽工高でも昭和40年度から具体的に影響が現れ対応として単独制実施当時から増募してきた定員の見直しが必要となりました。(洛陽工高百年史より引用)

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洛陽メモリアル 全国最多の7時間授業

 昭和38年(1963年)に単独制として新たに発足した洛陽工高ですが、同年新しい教育課程が第一学年から実施されています。決定された教育課程は、週当たり授業時間は38時間、卒業までの総単位数114単位と全国的に見てもハイレベルで京都府下の普通科高校と比較しても12単位も多かったと記されています。
 この結果、土曜を除く毎日の授業時間は7時間が標準で曜日によっては8時間の日もありました。予鈴は8:30で1時限は8:40開始、8時限終了は17:00という時間割でした。この教育課程は昭和38年度から学年進行で実施され昭和40年度に完全実施になりました。(洛陽工高百年史より引用)

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