京都市立学校・幼稚園
最新更新日:2024/04/18
本日:count up9
昨日:54
総数:185342
文字: 大きく | 小さく | 標準 配色: 通常 | 白地 | 黒地
ハートフルマーク
「発見」「協力」「チャレンジ」

春 みつけたよ…

画像1
春、見つけたよ… 
 
 学校のプールの水をも凍らせ、暴れ回ったインフルエンザとともに居座った厳しい寒さも、ようやく去っていき、醍醐山の向こうから暖かな匂いとともに春が顔をのぞかせる季節になってきました。学校の風景にはまだまだ冬の装いが残っていますが、あちこちで春の芽生えを感じるこの頃です。
 ここ数年、何よりも先がけて「春がやってくるよ…」と知らせてくれる花があります。枝垂れ桜の足もとに、黄色い花(ガザニア?)が今年も2月から咲きだしました。まだまだ枯草が多い中、ひときわ目立つ鮮やかな色の花が、深い緑の葉っぱとともに、陽に向かってあふれるように広がってきています。
 毎年、寒さが残る中、子ども達と「春見つけ」をするのが楽しみで、いろんなものを見つけてきました。今年は、ある子が「黄色い花、見つけた!」と報告に来てくれたのです。氷が解けたビオトープで、何ヶ月もの間、姿を見せなかったメダカの群れを見つけてくれたのも子ども達です。チューリップの芽が固い土からまっすぐに顔を出しできたのを伝えてきてくれたのも子ども達です。
 桜が咲いて、つくしが伸びてくる本格的な春はまだ先ですが、凍りつくような空気が少しだけゆるんでくるこの季節、子ども達や「いのち」あるものすべてが冬眠から覚めて、もぞもぞ、わくわく、動き出すようです。そして、縮こまった体にほんのりとした温かい光と風を浴びながら、エネルギーをふくらませるこの時期は、子ども達にとっても進級や進学を迎え、次のステップに向けての階段を上れるように季節が応援してくれているようにも感じます。

 私がこの学校でこういった季節を迎えるのも、いつの間にか7回目になりました。毎年くり返される子ども達とのほんの小さなやりとりですが、その向こうにいる子ども達の姿は、一年一年確実にまっすぐ育っているのがうれしくてたまりません。
 こんな子ども達との「春見つけ」ができるのも、今年かぎりかもしれませんので、何か寂しいような気もしますが、小さな足元の「いのち」を感じ、見つけられる感性を大きく膨らませてくれた数多くの子ども達に、そして出会いに、心の中に温かな風が吹くような「しあわせ」を感じます。

 「またいっしょにさがそな、せんせ…」
ベルが鳴って教室にもどる間際に、子どもがにっこりささやいてくれたこんな言葉が、不思議なほど胸にしみてきました。
 ありがとう…。

 さて、いよいよ3月。
 それぞれが進級し、卒業していく、そして新しい仲間を迎える季節になってきました。不安や期待が入り混じる気持ちがあるかもしれませんが、どうかこの一年間のがんばりに自信をもって次のステップに向かっていってください。君たちが元気に豊かに育つことを「ねがい、いのる」、そしてあなたのことを「大好き」な学校が、いつもそばにいます。 来年の、そして未来の、たくましく豊かに育っていく姿がとても楽しみになるこの季節です。

画像2

「ありがとう」という言葉

画像1
 「ありがとう」という言葉
 
 先日、「みややまタイム」がありました。人権月間の取組として毎年行っているものです。「人権」という仰々(ぎょうぎょう)しい言葉を使わなくても、日々の学校生活の中にある「人や自分の心や命を大切にする」という一人一人の当たり前の実践が、すべての学年やクラスから発表できたことがとても素晴らしかったです。友だちや家庭など身近なところにある温かな「願い」や、それにもとづいた「行動」の数々が体育館にあふれる一時間でした。

 そんな中、ある学年の発表にこんな素敵なものもありました。「だいじな言葉はいろいろありますが、そんな中、一番大切な言葉、それは『ありがとう』」という言葉です。」
 人と人は言葉によってつながっています。そんな関係をスムーズに結ぶあいさつは、ふだん何気なく使っている「おはよう」や「いただきます」、「いってきます」、「ごめんなさい」などたくさんあります。「こんにちは」という言葉の中には、「今日(こんにち)は、ご機嫌いかがでしょうか?」とか「…いい天気でなによりです」とかといった、出会った人を大事にしようとする大切な感情が込められています。そんな、ふだん使ういろんな言葉の中で、「ありがとう」は何よりも大切なんだ、と。

 「ありがとう」と一言伝えることは、感謝の気持ちを伝えることはもちろんのことですが、そのことで、なかなか開きにくい「心のとびら」を自分から開け、人との距離をぐんと近づけることになります。
 さらに、一日の中で数多く何気なく「ありがとう」と言える人は、「ありがとう」を見つけるのが得意でもあります。トイレのスリッパを並べてくれる行いに、話しかけてくれた優しさに、せっせと夕食を作るお母さんの後ろ姿に、きれいな花を咲かせた植物に、「ありがとう」の言葉をそえるだけで、自分にだけではなく他とのつながりの中で「幸せの共有」ができるのです。それは、呪文のように唱えているだけで、ポケットに幸せがどんどんはいってくるようなものなのかもしれません。反対に、人のことをぼやいたり、怒ったりしている人は、人の悪いところばかりどんどん見つけてしまい、人も社会も離れていってしまうサイクルに入ってしまうことになるのでしょう。

 今の宮山小学校には、「ありがとう」があふれているように感じます。子ども達のがんばっている姿や、元気な笑顔に思わず「ありがとう」の連続ですし、教職員の子どもらに対する熱い願いやその実現のための奮闘にも「ありがとう」しか言葉が浮かんできません。子ども達も、ちょっとしたことでも「ありがとう」という言葉を当たり前に伝えてくれる学校にもなってきました。

 自身の一日をふりかえって、「ありがとう」が多かった一日かどうか、そのことを充実した毎日を過ごせることができたかどうかの「ものさし」にしていきたいですね。

新年明けましておめでとうございます

画像1
 初詣にて…

 新年明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。
 雪もちらほらする中、身が引きしまる思いのお正月、今年も一年の幸せを祈る初詣に行ってきました。
 宮山の子ども達の「学力があがりますように…」とか、「けがや事故に合いませんように…」とか、「みんなが仲よくできますように…」とか、いっぱいお願いすることを考えたのですが、たくさんのことは厚かましいかもしれませんので、とにかく「子ども達が笑顔で過ごせる一年になりますように…」とだけお願いをしました。
 私自身さほど信心深いわけでもないので、手を合わせながら、いつも何やら後ろめたい気持ちはあります。でも、このときだけは、いろんな子ども達の顔や姿がうかんできて、一心に「祈っている」自分がそこにはいることが不思議です。
 「教育は願いであり、祈りである」とよく言われますが、子育てや教育活動は「願い」や「いのり」と一体のものだと思います。子ども自身や、彼らにかかわる大人の「こうなってほしい」「こうしたい」といった「願い」が強くあるほど、それぞれの育ちの可能性が広がっていくことは間違いありません。必ず願いがかなったり、見返りがあるわけではないでしょうが、「願い」がないところには、子育てや教育はありえないということは真実ですね。

 初詣で手を合わせながらいろんなことを考えていました。昨今のニュースで毎日のように目に飛びこんでくる「虐待」や「いじめ・体罰」など、そんな子ども達の周りには神さまはいないのかな?、そして宗教上での神さまでなくても、子どもらの育ちを「願い、祈っている」存在はいないのかな?…と。
 昔から「〜をすれば罰が当たる」とか、「〜したら地獄に落ちる」とか社会のモラルや道徳心は、宗教的な後ろだてによって支えられてきました。樹木や石ころひとつにも神が宿ると言われて、自然を敬う心情も当たり前にありました。科学が進歩した現在では、何事も合理的に考え判断されるようになり、神さまの居場所は少なくなってきているのでしょう。さらに、情報化やパーソナルネット社会化が急激に進行する中で、宗教的な心情が置き去りにされるのはいたしかたがないとしても、人や自然とのつながりの中でしか生きていけない社会で、他に対しての「願い」や「いのり」の心そのものが弱まってきているようにも感じます。人は宗教から離れていくこととあわせて、他のために「無心に祈る」こと、つまり神と向き合う自分の心に話しかけ、そのありようを確かめることからも離れてきてしまったように思えて仕方がありません。
 こういった意味で、学校はまだまだ子ども達の幸せな育ちに向けて、「願い」や「いのり」が、大きな意味を持つ場であること、そして、それを心から待っている子ども達がいる場であること、そんな責任を強く感じながら手を合わせる初詣でした。

 お参りの時、隣に、1〜2年生くらいの子が「…はやく、よくなりますように…」と一心に手を合わせていました。何かホッとする瞬間でした。 
 すべての子ども達やお家や地域の方々、そして教職員の笑顔があふれる良い一年になりますようにと、心から「ねがい」「いのる」一年のスタートです。

家庭訪問のできこと

 この季節になると、よく思い出すことがあります。

 私は担任の時、よく家庭訪問に行っていました。「教師は足でかせげ!」先輩からよく教えてもらっていたこともありますし、職員室で仕事をするのが苦手だったこともありますが、とにかくよく家に行っていました。年間200日以上行っていた年もありました。
 子どもらが何か問題を起こした時に、イヤな報告に行くだけではなく、学校でおさえきれなかった勉強を一緒にしたり、最近がんばっている事や、いいことがあったときに「ちょい」と寄って話をしたりするのです。初めはあんまり歓迎されていないと感じる家もよくありましたが、そのうち、「あんなあ、先生…」と親からいろんな話が聞けます。時には晩ごはんをいただきながら子どもの話で盛り上がり、そんな横に、学校で見せない姿をいっぱい見せる子どもがいました。
 「子ども達のために!」と全ての子への向かうための一人の教師のエネルギータンクは限られています。でも、一人一人の子ども達の背景には、子のことを一日中考えている(に違いない)親や家庭の「願い」がいっぱいあり、その熱い思いは、教師にとって大きなエネルギーになります。子どもの情報を伝える家庭訪問だけではなく、教師が日々かかわる子ども達のために、「力をもらい、尻を叩かれる」家庭訪問です。

 そんな家庭訪問の中で、こんなことがありました。
 2年生の子でしたが、なかなか勉強ができず、宿題も忘れては叱られることも多く、家に行っては一緒に宿題や復習・予習をしていました。そのお家は、家族ぐるみで料理屋さんをされていて、お店には美味しそうなメニューがいっぱいありました。
一緒に冬休み宿題のまとめをしたある日の家庭訪問の帰りのことです。
 お母さんが「カニを持って帰ってもらえますか…」と言われました。私はてっきりお店で扱っているズワイガニや毛ガニの姿を想像してしまいました。「いやあ、そんな気をつかってもらったら…」と恐縮しつつ、ニタニタとした顔で答えたのですが、お母さんはきょとんとしています。しばらくして、「あのお、休み前に学校から持って帰って世話をしていたサワガニ…。」とポツリとおっしゃいました。
そこでやっと理解できた私は、厚かましさと恥ずかしさのあまり、顔からまさに「火が吹いて」いました。
 それ以上、突っ込まないでいたお母さんの優しさを感じるとともに、勉強を見てあげていたという高慢な自分がいなかったかとか、今度どんな顔で家庭訪問しようかな…、とかいろんなことを考えながらの暗くて寒い学校への帰り道を覚えています。

 その後、数年がたち、同僚とそのお店に客として寄せていただきました。お家の人や、立派になった子ともいっしょに昔の話に花が咲く幸せな時間でした。
 途中で、お母さんが、「これ、サービス。どうぞ」と持ってこられたのは、立派でとてもおいしそうな「カニ」だったのです…。お母さん、覚えていたのでしょうか。今まで食べた最高の味のカニでした。
 寒くなるこの季節になると思い出します。

画像1

〜くん、〜さんで呼ぶこと

画像1
〜くん・さんで呼ぶこと
 
 最近、子ども達の姿がとてもすばらしくなってき、「〜しましょう!」とか「〜は、だめ!」といった校長として訓示めいたことを言う機会がめっきり減ってきました。毎月の朝会でも、校長先生の説教話ではなく、できるだけ子どもらの心に残ることを伝えるよう心がけています。楽器の演奏をするのもそんなわけです。
 小さい頃、私が覚えている校長先生の話は、「冬でも手袋はしないし、ポケットにも手は入れない(校長先生はえらいなあ…)」とか、「トイレの紙は2枚重ねて、2回折ったら事足りる(倹約の話?)」とか…、まったくたわいもない話だけが残っているものですから…。

 でも、そんな中、毎回のように「訓示」してしまうことがあります。校長になって7年間、言い続けてきたのですが、なかなか定着しません。それは「人を呼ぶときは、〜さん・くんをつけて!」ということです。
 「人を大切にしましょう!」と言いながら、その人自身を表す名前が、雑に扱われているようで、とても気になるのです。約束が守られているクラスもあるのですが、今でもあちこちで きつい言い方の「よびすて」が横行していて、その後には「おまえなあ!」「〜なんじゃー!」と、とげとげした言葉が続くことも多く、それが言い争いにつながることも多いのも事実です。

 といっても、私自身、正直言って、若い時はクラスの子らを呼び捨てしていたり、あだ名でよんでいたりした時期もありました。子ども達と親近感を持って接することができ、距離も縮まるとかんちがいしていたのでしょう。
 以前、担任をしているとき、こんなことがありました。
 毎日、子どもらとひと言だけのやりとりをしている「あんなあ…」で始まる交換ノートに、ある子(おとなしくて、目立たない子でした)が「ニックネームで呼んでもらっている人はいいなあ…」と書いていたのです。あだ名で呼び合っていたクラスの仲間の中に、呼ばれていない子もいたのです。
 そして、こんなこともありました。自分自身の育つ家庭を本にする勉強をしていた時のことです。おちょけでみんなにしたわれていますが、いじられやすいタイプの子の発表でした。「ぼくのお母さんは、病気がちで、生まれてきた子には元気に育ってほしいという願いを込めて、大切に思いを込めてつけてくれた名前だから、よびすてで呼ばれるのは、ちょっとイヤな感じがします。」まっとうな訴えでした。

 そんなこともあって、今では子ども達を呼ぶときは、必ず〜くん・さんをつけています。宮山の子ども達にとっても、これからいろんな人との関係を広げ、大きな世界にはばたいていくために、TPO(時・場所・場合に応じた使い分け)の力をつけておくことも、とても大切なことです。くん・さんづけは決して、遊んでいる時や家庭内でおしつけるものではありません。でも、最低限、学校では教師も含めすべての人が意識してほしいのです。言葉をだいじにする場であってほしいのです。

 人は言葉で考え、そのやりとりの流れの中でコミュニケーションを行っているのですから、相手を大切にし、ほんわかとした温かい関係を作り、広げていくために、呼びかたも、ていねいで温かなものを心がけていきたいものですね。

宮山にあふれるもの…

画像1
「宮山にあふれるもの…」
 
 先日、学校の周りの道を歩いていると、とても懐かしい花に出会いました。
 「われもこう(吾亦紅)」という花です。すっと伸びた茎の先に、楕円形の紅赤紫のかわいい花です。
 私が小さかった頃は娯楽もあまりなく、家族で山や川・草原など出かけるのが何よりの楽しみで、太陽の光のもと、みんなでお弁当を広げ、遊びました。
 それは、ちょうど初秋のこの時期だと思います。青くて高い空には赤とんぼが飛び回り、その下に「われもこう」の赤が、少し涼しくなり始めた風にゆらゆらと揺れています。その花の上に赤とんぼが次から次へととまります。同じように風に揺らされるそのトンボを、指をクルクル回しながら延々とつかまえていた、そんな情景が、宮山でこの花と再会したことで、記憶の底からあふれるようによみがえってきました。花など見向きもせずに遊びまわっていた私が、今、道ばたに咲く小さな花や草に心が向いてしまうのには、こんな体験が無意識になかに残っているからかもしれません。

 花だけではなく、この宮山にはあふれんばかりの自然があります。夏には横の小川(溝?)から、宝石のようにほのかに光るホタル見られますし(溝が危ないから子どもだけで行かないでね!)、夜遅く疲れて帰るころには、タヌキが現れ「早く帰りや…」と言ってくれます。学校のプールには毎年のようにカモ?のペアが羽を休めにやってきますし、少し足を延ばせば山科川にはカワセミや鮎も見つけられます。カブトムシがいっぱいとれる森もありますがナイショです。秋の季節にはいろんな花や草があふれ、大岩山を背景にした運動場の木々の紅葉はとりわけ素晴らしいものです。自慢の「サクラタデ」の群生も芝生広場のビオトープにありますし、キンモクセイの匂いも漂い始めるこの季節、みんなに伝えたくなる美しさが山盛りあります。
 自然だけではなく、この校区は歴史的にもたいへん恵まれており、明智光秀が大山崎の合戦からの敗走中に討たれた「明智籔」は有名ですが、あまり知られていないすごい歴史の足跡が旧街道沿いにたくさんあります。平安京以前から奈良と滋賀を結ぶ交通の要地として栄えた小栗栖(小さな丘陵地の意味)では、例えば、学校の隣の小栗栖八幡宮(石清水八幡宮につながる)や京都三体地蔵と言われる木製の子安地蔵さんや、また北には70もの塔頭(大寺の周りにある守護寺・末寺)を従えた「法輪寺」(奈良の法隆寺にもつながる)の跡、また、宮山の隣に「小栗栖城」といわれるお城までかつては存在するなど、どんどん開発が進む中で、歴史が埋もれていっているのが現状ですが、数々の歴史・文化遺産がまだまだいっぱいあります。

 深まりゆく秋のひと時、子どもらと共にぜひ身近にある自然や歴史に触れる「旅・冒険」に出られたらいかがでしょうか。小さな、でも大きな思い出になる出会いがいっぱいあると思います。
 「われもこう」との原風景には、横で微笑みながら気長につき合ってくれていた親のまなざしや影がいつもあった記憶が、おぼろげながら、でも、温かく残っています。

子ども達をむかえて…

画像1
「子ども達をむかえて…」
 
 まだまだ暑い日が続きますが、いよいよ楽しかった夏休みも終わり、今日から学校が始まります。子ども達がそれぞれの思い出をいっぱい抱えて元気な姿で学校にもどってくることがとても楽しみです。

 夏休み中に「京都市みやこキッズ会議」という、全市の小学生や中学生が集まって、発表や話し合いをする大会がありました。本校からも2名の6年生が参加して、がんばって取り組んでいることや、他校の活動についての意見交換などを行い、たいへん充実した一日でした。最後のあいさつでは、宮山の代表が素晴らしい発表をし、歌まで披露し会場からも大喝采でした。
 また、教育委員会が先生向けに出している最新の「学びのコンパス」という冊子にも、宮山の子ども達や教職員のがんばりを紹介する内容が載せられ、あちこちの方から学校のことについて聞かれます。ここ数年来、学校活動の方針や教育目標など以前と比べて特に変わってきたわけではないのですが、子ども達の姿には大きな変化を感じるこの頃です。
 登校時や廊下ですれ違った時の子ども達からの元気なあいさつや、やわらかくて温かい言葉づかいが目立つようになってきましたし、つまらないことでのケンカも激減してきました。
 そして何よりも大きな変化は、授業での態度や様子です。私語や立歩き、姿勢の悪さなどがほとんど見受けられなくなりましたし、授業に集中し、意欲的に課題に向かっている姿が多くみられるようになってきました。また、宿題などの家庭学習も安定してできるようになってきました。学びのがんばりや充実は、学校にとって何よりもうれしいことです。そのことでジョイントプログラムなどの全市的な学習状況調査においても子ども達はすばらしい結果を残すようになってきました。
 
 学校にとって「学力の向上」は大きな使命ですが、それに向けての教職員の意識も変わってきていますし、朝早くから夜遅くまで「子ども達のために…」と汗と涙(?)にまみれながらもがんばりには感謝するのみです。
 「学力」をつけることは、成績が上がったり、良い学校に進学できたりすることだけではありません。考えるツールとしての「知識」や「言葉」を自分のものにしつつ、人との豊かなコミュニケーションを進める能力を高めることや、生涯にわたって学びのための、学びを楽しめる心や知的エネルギーをふくらませることで、自分の生きていく世界を広げ、人との関係を広げ、生き方の幅や選択肢を広げることになるのです。それはまさに「自己実現」であり「豊かな生き方」の指標になると考えます。
 休みの間にずいぶん黒くなった子ども達の姿を見ながら、そして、キッズ会議で緊張しながらも胸を張って多くの人の前でしっかり意見を述べていた子らの姿を思い出しながら、宮山小学校のことを、うれしい気持ちで自信をもって誰かにいっぱい伝えたくなる夏休み明けスタートになりました。
 登校時にある子がぼそりと「学校楽しみにしててん…」と言った言葉が、
またうれしく、はげみにもなりました。
 さあ、がんばるぞ!!

七夕のねがい…

画像1
七夕のねがい…

 夏本番を前にしたこの季節になると楽しみなのが「七夕」です。3月3日の桃の節句や5月5日の端午(たんご)の節句などとともに、日本の五節句の一つでもあります。最近では、いろんな考え方の違いから、学校で行っていないことも多いですが、宮山は竹の産地でもあり児童会活動の一環として毎年行っています。横の山からとってきた竹に、各クラスで笹飾りを作り、短冊にそれぞれのねがいを書いていきます。
 のぞき見するようで申し訳ないのですが、子ども達のお願いを見るのが楽しみで、「そうやったのか…」とか、「やっぱり!」とか、それぞれの思いを感じることは、私たちの子どもらに対する大きなエネルギーになります。
 「サッカー選手になってワールドカップに出たい」とか「パティシエになってみんなによろこんでもらいたい」とか、がんばって!と応援したくなるものもありますし、「イズミヤにあったかわいい靴がほしい!」とか「家族で回るお寿司を食べに行きたい…」とか、ちょっとしたことがその子にとって切なる願いになるんやなと、それぞれの背景にあるものを考えさせられ、ハッとすることもあります。
 以前、こんなことがありました。放課後、クラスみんなで七夕飾りや短冊づくりをしていた時のことです。
 「もっと書いてもいい?」とみんながうれしそうに短冊に書いているのに、ある女の子だけがお願いが書けません。「何でもいいから書いてみ…」といっても、なかなか鉛筆が動かず、「漢字が得意やし、漢字博士になる!はどうや」とかいろんな提案をしながら書くようにうながしました。それでもじっとしたままでした。
ふだんは活発でにぎやかな子なのに、なんやろ?と思っていましたが、2〜30分ほどたって、やっと短冊を持ってきました。ぽつりと「書いても、かなわん…」と言いながら…。
 そこに書いてあった言葉は、「おかあさんとあいたい」でした。瞬間、頭が真っ白になりました。数年前に病気でお母さんがおられなくなった子でした。
言葉を失った私は、しばらくその子を見ることもできませんでした。黙って出ていった子の後ろ姿にハッと我に返ったので、追いかけて「いい短冊やな、ありがとう!」とだけしか言えず、抱きしめたときの乾いた汗の匂いを覚えています。
 今はその子も成人になって、結婚して子もできたようです。2年生の時の七夕の願いはかなわなかったのですが、その子の祈りは、母親になった自分の子どもへの祈りとして形を変えて通じ、かなっていくと信じてやみません。

 子ども達それぞれの夢や願いがこめられた短冊をながめながら、それぞれの言葉の背景にある、小さいながらも一生懸命に生きる尊い一人一人の「いのち」を、少しでも支え、輝かせることができる学校や教師になりたいと感じるこの七夕の季節です。

学校は笑顔の場所…

画像1
先日、マスコミの方と話をする機会がありました。いろんな話をする中、今、学校の話はなかなか記事になりにくいという話題になりました。新聞もテレビも商売でやっているので、読み手のニーズが大切で、ゴシップ記事、例えば教師の不祥事やいじめなど程度がひどければひどいほど、読者が飛びついてくる、ということでした。だから、どちらかと言えば学校のマイナスイメージの記事が巷(ちまた)にあふれてしまう。
 今日も体罰や薬物にかかわる教師の記事が新聞やニュースに見られました。記憶に新しいところで、大津中2いじめ事件、大阪高校教師体罰事件など、いや、もっと前から「先生のくせに…、やっぱり学校と言うところは…」といった記事をたいへんよく目にします。もちろん、教師だから、公務員だから、モラルや節度ある言動は他職の誰よりも必要であることは言うまでもありません。さらに子ども達があこがれる、そして目指したくなる大人の姿を示すということは、教師の大きな仕事でもあり、一つ一つの言動は子ども達の一生を左右するものでもあります。大きな期待をされる一方、重い責任を負わされることは当然です。
 でも、ほんの一部の人の不祥事によって、すべての教職員を色めがねで見てしまうような風潮があるとしたら、とても悲しいことです。目立たぬところで、本当に身を削りながら一生懸命に子ども達のために尽くしている教師がいっぱいいるということは、ぜひ知っておいてもらいたいものです。
 最近も多くの教師の涙を目にしました。自分の思いがなかなか子ども達に届かない悔しさから、また、物言わぬ子のつらさ、悲しさを感じ取って、そして、気にかけた子のがんばり育つ姿を見たうれしさなど、いろんな思いが涙としてあふれていたのでしょう。そこには教育者として、子ども達のためにという純粋で尊い思いがいっぱいあります。
「教育は願いであり、祈りである」と言われますが、そんな「ねがい」や「いのり」が今のこの小学校には、あふれているんだと感じます。
 ただ、なかなか気づかないことがあったり、至らないことがあったりして、子どもにつらい思いをさせたり、親ごさんからおしかりを受けることも正直言って多々あります。それを、正面からどれだけ受け止められるか、そこからどれだけ学ぶかが学校の真価が問われるところでもあります。
 別れ際に、その記者がこんなことをおっしゃいました。「本当は、学校のいいところやがんばっているところをみんなが読んで、知って、うれしい気持ちになるような記事があふれる世の中になればいいですね…学校はどこよりも笑顔の場所ですから…」と。ホッと救われた気になりました。
 私たち学校も、しっかり子ども達のがんばりや良いところを見つめられる目を持ち、一緒にみんな笑顔でいられる場所にしたいものです。

どうか…守っていてください

画像1
 今日、伏見東支部のPTA代表者会がありました。今年は引き続きの役員の方も多く、天気といっしょでたいへん温かい雰囲気のもと、今年一年の取組が楽しみになりました。本校のPTAもいよいよスタートしました。学校も、いっしょになってがんばっていきますので、「ほんとに楽しかったね!」と言える一年にしていきたいと願っています。
 PTAは「学校の最大の応援団」と言われるように、学校のさまざまな取組や活動で、その存在はたいへん重要です。子ども達おたのしみ「ハロー宮山」など多くの行事を中心になって取り組んでいただいていますし、登下校の際には、お忙しいなか、たくさんの保護者や地域の方々が子ども達の安心・安全を見守ってくださっています。夏休みや冬休みには、地域と連携したパトロールにもたくさん参加いただいています。バレーやコーラスなども、みなさんの元気を子ども達や教職員もいっぱいもらっています。数えだしたらきりがないほど、子ども達の笑顔につながる活動を日々進めていただいていることに、感謝の気持ちでいっぱいです。
 ただ最近、PTA活動にとっての逆風が吹いてきているように感じることもあります。お仕事でなかなか活動に参加できない方もふえてきていますし、ネット等を見ていると、マイナスにとらえる意見もあります。世の中や家庭・地域がパーソナルに閉じてきている雰囲気が、PTA活動にも少なからず影響を与えているのかもしれません。
 さて、日本のPTAは、わが国最大の組織会員数の力が結集して、子ども達の健やかな育ちを願って日々活動を進めてきました。また、京都市では教育委員会中心に、他府県がうらやましがるほどの連携のもと、先進的で活発な取組が進んでいます。そんな中、支部や各学校での活動は、子ども達の笑顔や育ちにつながる活動の場でもあります。子ども達にとって本当に厳しい時代になってきている今こそ、すべての親がすべての子ども達を支え、見守り、育てるPTAの活動を大事にしていきたいと思います。
 以前、学校でPTAとして放課後まなび教室にきていたお母さんのこんなお話がずっと心に残っています。
「祈っています…。不審者が地域に出たというメールが届きました。私の子は公園で友だちと遊んでいて、心配でいてもたってもいられない。だから…私は今、目の前にいる子ども達をしっかり守るから、どうか…公園の近くにいる保護者や地域の方、どうか私の子を守っていてください…と心から祈っています。」
 真剣なまなざしで伝えてきた言葉には、わが子を思いつつ、すべての子どもに対して同じように向かう熱くて強い、そして「尊い」思いがこもっていました。
 PTAの活動は、まさにこんな活動なんだと…。

        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
学校行事
3/5 朝会・委員会活動・体重測定(6年)
3/6 体重測定(5年)
3/7 保健の日・体重測定(4年)
3/8 体重測定(3年)
3/9 銀行振替日
銀行振替日
京都市立小栗栖宮山小学校
〒601-1461
京都市伏見区小栗栖宮山1-1
TEL:075-572-5216
FAX:075-572-5217
E-mail: miyayama-s@edu.city.kyoto.jp