最新更新日:2024/04/23 | |
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絶望のとなりに希望がある
3月11日で東日本大震災から5年がたちます。今回は「アンパンマン」の作者,やなせたかしさんのお話です。やなせたかしさんは,震災直後,あまりの被害を目の当たりにして,大災害に対してはどんな言葉もむなしいと思っていました。しかし,その考えを変えた出来事がありました。
NHKラジオ第一放送にメールが届いたのは,震災から3日後の3月14日,夕方のことでした。「アンパンマンのマーチを,ぜひ流してください。避難所の子どもたちに,大好きなこの曲を届けてあげてください。子どもたちの笑顔は大人たちの元気になります。」このような内容だったそうです。第一放送「つながるラジオ」では,番組の中で曲を流し始めました。 『そうだ うれしいんだ 生きるよろこび たとえ 胸の傷が痛んでも なんのために 生まれて なにをして 生きるのか 答えられないなんて そんなのは いやだ』 「余震を怖がる子どもも,じっと聴いていました。曲の後,『ぼくもがんばるよ』と何度もつぶやいていました。」とのハガキも届いたそうです。 この話を聞いたやなせさんが,新聞社などに頼まれてかいたアンパンマンの絵は,いつもの笑顔のアンパンマンではありません。ゲンコツを握りしめ,戦う姿勢です。やなせさんは言いました。「アンパンマンは世界最弱のヒーローです。ちょっと汚れたり,水にぬれたりするとジャムおじさんに助けてもらいます。でも,いざというときには自分の顔をちぎって食べてもらいます。そして戦います。それは私たちでも同じです。そうせざるを得ないときもあるのです。」 「悲しいとき,絶望しそうになったとき,握りこぶしを作ってください。そして,握りこぶしで涙を拭くのです。手のひらで拭かず,こぶしで拭くことでもう一度がんばってみようと立ち直る自分が生まれてくるのです。」 人間は,落ち目になってくると,不思議と悪いほうへ悪いほうへと考えがいってしまうものです。アンパンマンが売れる前のやなせさんも,どうして自分は認められないのかと心がいじけてしまっていたそうです。一つの失敗を,まるで10の失敗をしたかのように考えてしまったそうです。やなせさんは自叙伝でこう述べています。 「朝のこない夜はない。そう,絶望のとなりは希望なのです。」 夏みかん冬の京都もやはり風情があるな…なんて考えながら,高瀬川の近くを自転車で走っていたときのことです。お地蔵さんを少し過ぎたところに,まるでそこだけ明るい光が投げ込まれたような,鮮やかな黄色のかたまりが目に留まりました。「ダイダイかな?夏みかんかな?」横目で見ながら目的地へ向かいました。 用を済ませての帰り道,あの鮮やかな黄色をもう一度見たいと思い,同じ道を通ることにしました。その果物の下には新聞紙がていねいに敷いてあります。その横には張り紙がありました。 [夏みかんがたくさんなりました。どうぞご自由にお持ち帰りください。酸っぱいので,少し甘みを加えて食べてください。] 「夏みかん…なんだか懐かしいな。」と思って一つ手に取ると,下の方から声がしました。 「いくらでも持って帰ってや。大きいやろう。」 「立派ですね。たくさんできたのですね。いただいていいのですか?」 「年寄り二人で暮らしてるから,食べ切れへんねん。もったいないし,みんなに喜んでもらうほうがええしなあ。横に袋も置いてあるで。いっぱい持って行って。」 その後は「なぜ夏みかんというのか」「砂糖をかけてもおいしいけど,おすすめはヤクルト。ヤクルトをかけると何とも言えずおいしい」「おいしく食べるための貯蔵方法」など,夏みかんに関することをたくさん教えてくださいました。私はお言葉に甘え,3ついただいてお礼を述べて帰りました。 相手を思いやって心を込め,自分のできることをする。簡単そうで難しいことです。不十分なマンションの基礎の杭の話,廃棄するべき食品を転売した事件,守るべき事項を守らずにバスを運営して事故を起こした会社…暗いニュースが多い世相ですが,自分ももう一度その原点に立ち返って毎日を過ごしていきたいと感じました。 ちなみに夏みかんの収穫は地域によって今でもできるが,4〜6月ごろ酸味が抜け,おいしくなるので「夏みかん」。正式名は「夏だいだい」で,家で保存する場合は個別にラップして冷蔵保存だそうですよ。 朝のプラットホーム
明けましておめでとうございます。いつも「校長室の窓から」に目を通していただき,ありがとうございます。今年も「自分が心を動かされたこと」を皆様にもお伝えできるよう,がんばりたいと思っています。どうぞよろしくお願いします。
平成25年7月22日,午前9時過ぎのことでした。JR京浜東北線の南浦和駅で,突然非常ボタンが鳴り響き,数人の駅員がホームを走っていきます。何事かとホームに降りた乗客たちは,駅員が誰かを担ぎ上げようとしているのを目撃しました。アナウンスが流れます。「電車とホームの間にはさまれたお客様がいますので,ただいまから救助します。」降りようとした女性がホームと電車の約10センチの隙間に落ち,腰を挟まれ,動けなくなってしまったのです。駅員の「みなさん,降りてください。」との呼びかけで,その車両の乗客が次々と降りてきました。少し軽くなった車体を駅員たちは押し上げようとします。それを見た乗客数人も一緒に,「せーの!」のかけ声で車体を押しました。それでも,車体は32トンもの重さがあります。あげたまま保つことはできず,女性の「痛い,痛い」の声は続きます。 すると,電車から降りてきた人たちが続々と集まってきました。そしておよそ40人が車体に手を伸ばし,1列に並んで押すのを手伝ったのです。3回目の「せーの!」で女性を助けることができました。幸い大きなケガもなく,見ず知らずの乗客同士が協力することで,一人の女性を救ったのでした。ほどなく電車は動き出し,人々はそれぞれの目的地に向かっていきました。 この救出劇は,海外でも驚きをもって放送されました。「どうしてこんなに迅速に乗客が団結できたのか。他人の命に対して,われわれの国の人々も無関心であってはならない。(ロシア)」 「日本の人々が生来の結束力を余すことなく示し,困っている人に手をさしのべた,素晴らしいニュース(タイ)」 もちろん事故はないほうがよいのですが,今年もこんなニュースが多い年でありますように。 応急手当
前にもお話ししましたが,私は高校野球ファンです。もちろん野球に限らずすべてのスポーツを見るのもするのも好きなのですが…。今年の夏に甲子園で実際に見た,忘れられない光景のお話です。
その日は京都の高校が出場するとあって,いつもより応援に力が入りました。一進一退の好ゲームです。京都の高校がチャンスを迎えています。確かイニングは6回か7回。2アウトでランナーが2・3塁の好機に,バッターがフライを打ち上げました。内野手と外野手のちょうど真ん中あたり,捕球できるかどうか微妙な位置に飛んでいきます。観客は総立ちで打球の行方を追いました。 内野手と外野手はどちらも捕球しようとして全力疾走。その結果,内野手が見事に打球を捕りました。しかし,同時に外野手と激突してしまったのです。2塁の塁審も捕球したかどうかを見極めるため,2人の方向に走りました。内野手は激突した後,倒れたままです。観客も固唾をのんで見守っています。 「アウト!」審判の声が響きます。倒れたものの,ボールはしっかりとグラブの中におさめたままだったのです。割れんばかりの拍手が球場に広がりました。 しかし,ぶつかった選手は立ち上がれません。外野手の方は痛む足を押さえながら立ち上がりましたが,内野手はうずくまったままです。 そのとき,一人の選手が患部を冷やすためのコールドスプレーを持って倒れた選手に駆け寄りました。そして一生懸命手当てをします。誰もが同じチームの仲間だなと思いました。ところが違ったのです。誰よりも先に駆け寄り,手当てをしたのは京都の高校の選手,つまり敵チームの3塁コーチを務めていた選手だったのです。 手当の甲斐あって,やがて倒れていた選手は立ち上がり,手当てをしてくれた選手に声をかけてベンチに帰って行きました。手当てをした選手も,笑顔でベンチに戻ります。球場内には,先ほどのファインプレーの時以上に大きな温かい拍手がいつまでも続きました。 レジ係の女性
ある女性の話です。地方から東京の大学に進学,サークルに入りますがなかなか長続きしません。すぐにいやになって転々とサークルを変えました。就職してからもそれは同じ。最初の会社では3ヶ月目に上司と衝突。次の会社は半年。「自分のやりたい仕事ではなかった」のが理由でした。
同じことを繰り返すうちに,彼女の履歴書には短期間で退社した会社の名前がずらりと並ぶようになりました。正社員で働けなくなった彼女は派遣会社に。派遣先はスーパーのレジ係でした。今のようにバーコードはなく,電卓のようにキーを打たなければならない時代でした。「私はこんな仕事をするために東京へ来たのではない…」彼女自身も仕事が長続きせず,我慢のできない自分がいやになっていました。 田舎へ帰ろうと荷物を片付け始めたとき,小学生の時の日記帳を見て,彼女は思い出しました。ピアニストになりたいと夢を追いかけていた心を。彼女は泣きながら母親に電話をかけました。「私,もう少しここでがんばってみる。」 書きかけた辞表を破り捨て,出勤した彼女は,レジを打っている間にあることを思いつきます。「ピアノだって鍵盤を見なくても弾けたんだ。レジだってできるはず。」彼女は数日で,すごいスピードでレジ打ちができるようになりました。そうすると,今まで見えなかった周りの状況が見えるようになってきたのです。「毎日来ている人だな」「あの人はいつも閉店間際に来るなあ」と。 そんなある日,いつもは安いものを選んで買うおばあちゃんが,5000円もする立派なタイを持ってレジに並びます。 「今日は何かいいことあったんですか?」 「孫がね,水泳で賞を取ったからお祝いなんだよ。」のように。 あるとても忙しい日,店内放送が流れます。 「本日は混み合いまして申し訳ありません。どうぞ空いているレジにお回りください.」同じアナウンスが3度も流れます。彼女がおかしいなと周りを見渡すと,彼女の列にだけ行列ができているのです。店長はあわてて「どうぞほかのレジへ…」とお客さんに声をかけました。 「ほっといて。私はあの人と話をしに来てるんだ。このレジじゃないといやなんだ。」 「特売は他でもやっているけど,このお姉さんはこの店しかいないだろう?」 うれしさのあまり,彼女は商品の値札がぼやけて読めなくなってしまいました…。 「ディズニーランドの3・11」忘れてはいけない3月11日。ディズニーランドにも大きな揺れがおそいました。地震発生後40秒。人々がパニックになりそうになったとき,場内アナウンスが流れ,キャスト(ディズニーランドのスタッフ)が冷静に行動します。 「地震の状況や園外の状況は,確認でき次第お知らせします!」 「どうぞその場から動かず,お座りになってください!」 「頭を守ってしゃがんでください!」 あるキャストは売り物のぬいぐるみをゲスト(客)に差し出しました。 「これで頭を守ってください。」 パレード中であった園内では,パレード車も緊急停止。乗っているミニーや妖精たち,キャラクターを演じている外国人の人も自分では車から降りられない状態です。しかし,救出されるまでの約1時間,彼らは来園者たちに手を振り続けたのです。夕方には雨が降り出し,気温も10度まで下がってきます。店頭販売のクッキーやチョコレートを無料で配布するスタッフもいました。防寒用にと,大きなお土産袋を配るスタッフもいます。 「皆さん,お土産袋はお持ちですか?お土産袋には隠れミッキーがいますよ。」と,心のケアも忘れてはいません。 夜を迎えましたが,交通機関がマヒしているため,約2万人が帰れなくなってしまいました。建物の中にゲストを入れたいところですが,ディズニーランドはまだ安全確認が済んでいません。そこで先に安全確認が済んだディズニーシーへ移動してもらうことになりました。本来ならランド→シーへはディズニーリゾートラインという乗り物を使います。しかし,停電なので動かせません。 そこで,開園以来守ってきた掟を破ります。「バックヤード」という従業員専用の通路を開放し,ゲストを通すことにしました。ところが,その通路は配線や基板がむき出しになった工場のような空間です。「夢の国」にはふさわしくありません。 ところが扉が開いたとき,ゲストは息をのみます。数百人ものキャストがペンライトを片手に両サイドに並び,光の道を作っていたのです。支給された毛布を使用し,2万人は無事に夜を過ごしました。ディズニーの長い一日はこうして終わったのです。 車内放送
車内放送
有名なお話で,多くの方がご存じかも知れません。自分にとっては忘れられない大好きな話で,バスや電車に乗るたびに心によぎるのです。 その日は今にも雪が降り出しそうな寒い日でした。新宿行きのバスでは,暖房の空気が温かく乗客を包んでいました。最初は空席が目立ったバスも,進むにつれ次第に身動きがとれない状態に。さっきまで心地よく感じていた車内が,人の多さで苦しく感じられます。 そんな中,バスの後方から赤ちゃんの泣き声が聞こえます。ぎゅうぎゅう詰めの人の熱気と暖房で,赤ちゃんにとっては泣くしか方法がなかったのでしょう。徐々にバスは進んでいきますが,車内の人の数はいっこうに減りません。 あるバス停に止まったとき,バスの後方から女性の声が聞こえました。 「降ります!降ろしてください。」 赤ちゃんを抱いた若い女性でした。料金を払おうとしたとき,運転手が話しかけました。 「どちらまで行く予定なのですか?」 女性は申し訳なさそうに消え入りそうな声で答えます。 「新宿です。でも,皆さんのご迷惑なのでここで降ります。」 運転手はマイクのスイッチを入れました。 「皆さん,この若いお母さんは赤ちゃんが泣いて皆さんに迷惑がかかるので,ここで 降りると言っておられます。子どもは,小さいときは泣きます。赤ちゃんは泣くのが仕 事です。どうかしばらくの間,赤ちゃんとお母さんを一緒に乗せてあげてください。」 何秒かの沈黙が過ぎた後,一人の乗客が拍手をしました。それにつられるように,車内には大きな拍手が起こりました。若いお母さんは運転手に,そして周囲の人々に何度も何度も頭を下げ続けていました。 正幸フォーメーション
正幸フォーメーション
田中正幸くんは小学校3年生からバスケットボールを始めました。熱心に練習し,山梨県の中でもバスケットボールが強い高校へ進学しました。しかし,入学式の3日前,正幸くんは脳出血で倒れてしまったのです…。 4時間にわたる緊急手術は成功しましたが,右手右足が全く動かなくなってしまいました。それでも正幸くんは仲間の応援を支えに,懸命にリハビリに励みました。そのかいあって,2年生の時にはバスケットボール部に入部することができました。体が十分動かないため,試合には出られませんでしたが,一日も練習を休むことはありませんでした。試合のビデオ撮影やデータ分析など,チームのために常に精一杯働く正幸くんを,みんなは心から尊敬していました。 高校生活最後の大会が近づきました。監督は34人の部員を集めました。 「みんな。正幸が誰よりも努力していることはわかってくれていると思う。ベンチには18名しか入れない。けれど,最後の大会,最後までユニフォームの姿で正幸をベンチに入れたいんだ。どうか,みんな承知してほしい。」 全員がうなずきました。そして正幸くんが出たときのためにと,正幸フォーメーションと名付けて正幸くんにシュートを打たせる練習を始めました。 試合当日,チームの動きは絶好調。相手に40点の大差をつけました。監督は,正幸フォーメーションのメンバーを呼びます。そして動きを確認しました。 「交代。11番が入ります。」いよいよです。大勢の人が見守る中,正幸くんは高校生活で初めて試合のコートに立ちました。 味方がボールを奪います。正幸くんは少し足を引きずりながら自分のシュートポジションへ一直線に走りました。メンバーの智生くんから健太くんにパス。健太くんは素早いドリブルで相手を抜き去り,両手で正幸くんにボールを差し出しました。まるで大切な贈り物を渡すように。 「シュート!」監督,メンバー,応援の声が重なります。正幸くんはボールを持ち替え,左手一本でシュートを放ちました。ボールはみんなの声に乗って鮮やかな弧を描きます。時間が止まったかのようにみんなが見守る中,ボールはすっぽりとネットに吸い込まれていったのです。沈黙を打ち破るどよめきと歓声。「やった!入った!」ベンチは大騒ぎ。飛び跳ねる者。床にうずくまる者。 全員が熱い涙を流しました。 正幸くんだけが笑顔でした。顔をくしゃくしゃにして,左手で小さなガッツポーズを作りました。 気配り 心配り
気配り 心配り
春休みは学校に勤務する者にとっては一年でもっともあわただしい季節のひとつです。卒業式,修了式,教職員の異動,新1年生の入学準備,クラス分け…またたくまに毎日が過ぎてゆきます。職員室の机やいすの位置も新学年に合わせて移動させるため,職員室の入り口には「新学年の準備をしています。ノックをしてから入ってください。」の張り紙がしてあります。少し頭を働かせば,高学年の児童なら(○○先生は△年生を受け持つのかな)と想像がついてしまうのもその理由のひとつです。 いよいよ新年度が始まったこの前の4月8日のことでした。まもなく着任式・始業式を迎える日,私は着替え・話す内容のチェックといつも以上に忙しい朝を迎えていました。そんなとき,校長室の扉をノックする音が聞こえます。「あれ?今の時間には私を訪ねて来られる約束はなかったはずだけど…」と私はもう一度耳を澄ましてみました。 (コンコン…)乱暴ではない,控えめなノックの音が確かに聞こえます。私は急いで扉を開けてみました。この春6年生になる3人の女の子がにこにことしながら立っています。 「どうしたの?」と聞いてみました。 「校長先生,6年生の新しい教室にちょっと間違いがあって…」と言うのです。 「何が間違っていたの?」 「ロッカー等に貼ってあるシールの名簿順が違うと思うんです。Aさんの次がBさん,そしてCさんなんですけど,C→A→Bになっているんです。」 私たちなら,みなさんならそんなときどうしますか?恐らく教室に入ってから,6年生の担任に決まった先生に伝えるのが普通ではないでしょうか。 「担任の先生の発表がまだなので,校長先生から伝えてもらおうと思ったんです。」 「わかったよ。ちゃんと伝えておくからね。」 教室でみんなの前で話せば,先生のミスが多くの児童に明らかになります。職員室に入れば,机の位置を見てしまいます。恐らく3人で相談して,私のところにそっと伝えに来たのでしょう。 6年生にしてこの気配り,心配りができるのです。私たちも励みにして気配り・心配りを心を込めてしようと改めて強く思った日でした。 新しいスタートの時期を迎えました
新しいスタートの時期を迎えました。
新1年生59名と転入生2名を迎え,329名で朱雀第三小学校は出発します。 今年も学校教育目標としては「協働・挑戦・前進」を掲げました。子どもたちには始業式で次のように伝えています。 協働…みんなで力を合わせる子どもになろう 挑戦…いろいろなことに挑戦する子どもになろう 前進…努力して自分を鍛える子どもになろう 今年度も学校全体が一つのチームとなり,地域や保護者の方々と手を取りながら子どもを育てていきたいと考えています。どうぞお力をお貸しください。 |
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