京都市立京都堀川音楽高等学校

はなむけ。

 昨夜までの雨があがり、弥生3月となったこの日、本校ホールにて午前10時より、京都市立京都堀川音楽高等学校 第14回 卒業証書授与式を挙行し、75期39名に卒業証書を授与することができました。

 ご多忙のなか、ご臨席を賜りました、京都市教育委員会学校指導課指導主事 田中佑明様、城巽自治連合会会長 香川史朗様、京都堀川音楽高等学校PTA音友会会長 石原かおり様 他役員の皆さま、京都・堀音同窓会会長 塩見亮様、堀音父母の会会長 樋口千鶴様、また多くの卒業生の保護者の皆さまに、心より御礼申し上げます。おかげさまで、温かで引き締まった式となりました。

 在校生全員が参列する本校の卒業式。3学年が心を合わせて歌う校歌合唱は、胸に響くものがありました。京都・堀音同窓会長の塩見先生のお祝辞では、ピアニストとして、また、本校や京都市立芸術大学などでも生徒・学生をご指導なさっているお立場から、若き音楽家としての卒業生に、お心のこもったエールを頂戴いたしました。2年生の生徒代表の送辞は、本校の縦のつながりの強さが垣間見える、先輩方への感謝にあふれるものでした。語り終わると、卒業生たちから自然に大きな拍手が起こったのも、堀音らしい瞬間でした。

 卒業生代表の答辞は、この3年間の「宝物」と言える時間を振り返り、最後に、3年次の文化祭で取り組んだ「レ・ミゼラブル」の作者、ヴィクトル・ユゴーの言葉「人間は、鎖を引きずって歩くためにではなく、翼を広げて天翔けるためにつくられているのです。」を紹介し、「何にも縛られず、人間が自由を謳歌できる社会を作るため、私たちは音楽でできることを考え続けていく」と抱負を述べました。

 以下、本日の学校長式辞の一部を掲載いたします。長くなりますが、お読みいただけますならば幸いです。
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 この4月からあなた方とこの校舎で過ごす時間の中で、ある一つの言葉をしばしば思い出しました。大学では哲学を専攻していたという前任校の国語の後輩教員が、ある時私に教えてくれた言葉です。それは「ヴァルトアインザムカイト」。「ヴァルト」は森、「アインザムカイト」は孤独。単純に日本語に訳せば「森の孤独」となります。「孤独」というとネガティブな印象を抱くかもしれませんが…とその後輩教員は次のように説明してくれました。
 この言葉はドイツ語ならではの意味の拡がりを持っている。森の中にひとりたたずんでいるとき、私たちの心に往来するさまざまな気持ち、寂寥感や哀愁、そういう気持ちのみならず、豊かで恵み深い森に包まれる安心感や、再生の場としての森からエネルギーを得る高揚感をも含む、独特で複雑なニュアンスを持つ言葉、そんなふうな説明でした。

 「ヴァルトアインザムカイト」ということばを教わったときに、私は「ことば」「言語」というものを考えるときに有効な単語だと思いました。例えば、私たちは同じ日本語を使って、お互いのコミュニケーションをとっています。自分の思いや考えも、ことばを選びながら、なんとか伝えようと努めます。しかしそれが本当に相手に届いたのか、自分の思っているとおりに受け取ってもらえたか、これは厳しく言えば何の保証もありません。
 一方で、作り手が「言葉」の持つ孤独に耐えて、もしくはそれに後押しされて、そうして紡ぎ出した文学作品は、人々の多様な受け止めの豊かさを身にまといながら、名作、古典となっていくのでしょう。
 あなた方が音楽に対して、こう表現したい、こんなふうにこの音楽を伝えたいと演奏するとき、どこまでも楽譜を読込み、表現したいことが表現できるよう練習を重ねる。アンサンブルや合唱・合奏では、まず仲間同士で相互理解が必要、先生方がご教示くださることはたくさんあっても、最後は自分の音楽。そして、さきほどお話した「ことば」と同じようにそれを聞き手がどうけ取るか、どのように感じるかはきっと何の保証もない。趣味の音楽は自分さえ楽しければそれで問題ない。しかし、音楽に志すということは、その「孤独」を道連れにする、厳しいことなのだ、と感じることが、この数か月で何度かありました。
 しかし、「孤独」であって、「孤立」ではない。「音楽」そのものが恵み深くエネルギーをもたらす「森」として人を包みこむこと、また、その「孤独」を内に抱える仲間の存在があること。「孤独」を引き受けるがゆえに、人は本当の意味でつながることができる、引き合う引力を持つ、そんなこともあなた方は自然に会得していっているように思えました。

 もうひとつ、「ヴァルトアインザムカイト」ということばから辿って、思ったことがあります。後輩教員が教えてくれたように、この言葉にはドイツ語ならではの意味の拡がり、文化の背景があり、日本で、日本語で暮らす者には、その言葉の持つ真の意味をとらえることは難しいかもしれません。
 しかし、音楽は、言葉や文化の壁を超えていく。その確信が、大きな戦争が終って、人々の日々の生活も、日本の国としての国際社会での立場も、たいへん困難な状況にあった、昭和23年というあの時代に、新制高等学校に西洋クラシック音楽を専門に学ぶ、音楽課程を作ろう、という、常識の枠外の悲願を生んだのではないかと思います。そうして堀音を誕生させた、京都の先人たちの卓越したセンスに、私は圧倒されます。
 今、私たちの回りには、人類の、「進歩」「発展」ゆえに、人が、世界が、請け負うことになった、複雑な課題が多く横たわっているように思います。そんな中で、あなた方が言葉や文化の壁を超えることのできる音楽に志していくことは、とても確かで深い意味があると、私は思います。堀音の先輩方が、また多くの西洋クラシック音楽を愛した方々が、東洋人の誇りをもって、また先ごろ逝去された小澤征爾さんのお言葉を借りれば、「外様にしか見つけられない本質」を求めて、壁を突破し続けていらしたことの恵みを受けて、あなた方のくもりなき眼(まなこ)でことの本質をみつめ、音楽を通して多くの人とつながりあって、ご自分の、また周囲の人々の幸いを探り当てていってほしいと願います。

 あなた方の堀音での時間の傍らにあって、今お話ししてきたように、音楽の力を私なりに感じとることができました。音楽というものを本気で追究するなら、音楽の悦びを感じ続けるなら、変化のスピードが激しく、先行き不透明なこれからの世界を、ヒトが人たる神髄を大事にしながら、多様な人々と互いを受容しながら、ときにはやりすごしながら、前に進んでいく力と知恵を、得ることができるのだと、あなた方から教わったように思っています。
 だから、「大丈夫」。そう言って、あなた方を送り出せます。
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卒業生のこれからの日々が、生み出す音楽が、豊かなれ、と願うばかりです。
校長 中村 陸子




【校長室から】 2024-03-01 14:40 up! *

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